第5章(3)
俺は、真っ暗闇の中で丸くなっていた。
ここはどこだ?
――そうだ、穴倉の中だ。
犬熊から逃げて、ここに隠れている。
外で奇声が聞こえる。俺は耳を塞いだ。あいつの鳴き声か。ひどく高音で、俺の鼓膜を不快に揺らす。
ギイイイイイ
もう一度鳴いた。やめろよ、うるさい、うるさい!
俺は両手に力を込めた。不快な声が聞こえないように、耳にわずかな隙間も許さないほど、渾身の力を込めて耳を塞いだ。
イイイイイイ
それでも声は届いた。骨を揺らし、鼓膜に到達する。
ふと、疑問に思う。これは本当にあいつの鳴き声か? こんな甲高い声で鳴いていたか?
オオオオ
今度は違う音が聞こえた。重低音が腹に響く。あれ? あいつの鳴き声は、こっちじゃなかったか? 妙な記憶が脳裏に浮かび、俺は耳から手を離した。
キャアアアア
もう一度聞こえた。甲高いほうの泣き声。違う……あいつはこんな声で鳴かない。
これは、人間の悲鳴だ。
若い女の、引き裂かれるような声。
外が何だか騒がしい。バサバサと枯葉が舞う音がする。犬熊が暴れているんじゃない、これは。
俺の耳に微かに届いた。確かに届いた。聞き慣れた少女の声。
「チャフ、たすけ、て……」
「うわあああ!!」
俺は絶叫と共に身を起こした。肩で息をする。汗がびっしょりで、口の中がカラカラだ。
目の前に水筒が差し出される。俺は夢中でそれをつかみ口に運ぶ。口の端から溢れるのも気にせず、満足ゆくまで貪り飲んだ。
荒く息をつくと、ようやく頭が働き始める。初めに目に付いたのは、膝に掛けられたシーツ。そして空の水筒を受け取ろうと伸ばされる白い腕。
黒い瞳が、すぐ傍にあった。
無表情な少女――ノギスが正座して俺を見つめている。
彼女は水筒を奪い取ると、脇に置いた水差しで中身を注ぎ足した。
「ノギス……? ここは……」
ノギスは答えず、水筒を俺の胸の前に突き出す。
「いや、もういい……」
俺が押し戻すと、理解したらしい、脇の盆の上にコトリとそれを置いた。
ここは地下か?
俺は、いつ戻った?
……そもそも、俺は何をしていた?
右肩がズキと痛む。見ると、包帯が厳重に巻いてある。あの獣にやられた傷だ。
『逃げろ、早く……』
イブに向けてそう叫んだのを思い出した。
その後、どうなったんだっけ。頭の中にある記憶の森は深い霞がかかって、容易には進めそうもない。
「おはようチャフ」
声が聞こえ、顔を上げる。暗がりから赤毛の男が現れた。ノギスがその後ろから顔を出す。彼女が呼びに行ってくれたんだろう。
「調子はどう?」
ライズは俺の傍に腰を下ろし、やけに優しい声で尋ねた。俺が答えられないでいると、彼はのんびりと言葉を続ける。
「もう目が覚めないかと思ったよ。きみ、森の中で倒れててさ、シブレットが見つけて。まだ生きてるって連れて帰ってきたものの、全然目を覚まさなくて」
「…………」
「三日だよ、三日。その間ずっとノギスが付きっきりで介抱してくれたんだよ。ちゃんとお礼を言わなきゃね」
違う、違うだろ。
俺が知りたいことはそんなことじゃない。
わざとはぐらかすように、ライズはどうでもいい話を続ける。
「肩の傷はサファーがなんとかしてくれたから大丈夫だよ。ユビグラムって便利だよねぇ」
「……ブは?」
え、という顔をする。俺はもう一度聞いた。
「イブは……」
ライズは、言葉を詰まらせた。
「イブは、どこにいる……?」
サッと曇った表情で、答えの予想は付く。だけど俺はしつこく聞いた。
もしかしたら、ぼんやりとした記憶が夢かもしれない、そんな一縷の望みにすがって。
「イブは……先にかえっちゃったよ」
「帰ったって、どこに」
ライズはしばらく俯いて沈黙する。やがて顔を上げると、はっきりこう言った。
「土に」
土……。
俺の脳裏に、とある光景が浮かんだ。黒い煙の中、あぶくを発しながら溶けていく塊。俺が大好きだったものが、土に還る姿。
「悪かったと思ってるよ。あの森は危険だってニールとロイドが身をもって証明してくれたのにね、ぼくはそれを活かせなかった」
「……」
「今回のことは、ぼくのミスだよ。辛い思いをさせてごめんね」
「…………」
どうしてあんたが謝るんだよ。
神妙な顔で頭を下げるライズを不思議に思った。
妹が死んだんだぞ、むしろ辛いのはあんたの方じゃないのか。
ぼくのミス? 随分変なことを言うんだな……。
俺は水筒を握り締め、ただ顔を伏せた。
「……」
「…………」
沈黙の果てに、ライズの長い吐息が聞こえる。
「気持ちの整理がつくまで、ゆっくり休むんだね」
黙り込む俺を見かねたのか、彼は静かに腰を上げた。
同時に、騒がしい足音が近付いてきた。
「チャフ! 目が覚めたのか!」
シブレットは駆け込んでくるなり、俺の傍で膝をついて叫ぶ。
「ごめんな、俺、何もできなくて……」
目から大粒の涙を落とす彼に、ギョッとした。
「怪我人の前で騒ぐのはやめてね……」
ライズは苦言を呈して去って行く。
聞こえているのかいないのか、シブレットは子供のように泣きじゃくる。
「ごめんな……ごめんな……」
だから、なんで謝るんだよ。ライズといい、こいつといい。
まるでイブの不幸を誰かの責任にしろと言わんばかりだ。
激しく感情を吐き出すシブレットを眺めてるうち、自分がイブのために泣いていないことに気がついた。
一滴だけ、ほろりと涙が溢れた気がするが、それ以来全くだ。
俺は、こんなにも冷たい人間だったのか?
その事実に目の奥が痛んだが、痛むだけだった。
「イブちゃんを墓に入れてやろうと思ってさ、今日あの場所に行ったんだよ……そしたらさ、なかったんだ、なくなってたんだ……なかったんだよ」
しゃっくりをあげながら、切れ切れにそう呟く。
「骨が……?」
問うと、こくこくと頷いた。
そういえば、森で骨を蹴飛ばしたな。おそらくロイドの頭蓋骨……。ロープの向こうで死んだはずのロイドが、あんな場所にいるはずがない。何者かが移動させたんだろう。それを考えると、イブの遺体も動かされたことは十分考えられる話だ。
「ごめんな……」
また、初めに戻ってボロボロ泣き始めた。
そんなに泣くなよ。お前、俺の涙まで奪ってるんじゃないか?
結局シブレットは俺の横で、モモカが迎えに来るまでひたすら泣き続けたのだった。




