第5章(2)
辺りは少し薄暗くなっていた。どれだけ穴ぐらに籠もっていたのか、見当もつかなかった。
水筒をひっつかみ喉を潤す。早く帰らないと、夜になっちまう。
日が落ちてからの外のデータはほとんどない。どんな生物が出てくるかわかったもんじゃない。気温も大して下がるわけじゃないので、視力が奪われるデメリットしかない。
周囲を警戒する。獣はいないようだ。とりあえず現在地を確認しないと。俺は穴ぐらを這い出て恐る恐る歩き出す。
イブは無事に森を抜けたかな。基地に帰ってライズに助けを求めてくれているといいが。
俺を心配して泣いていないかな……俺が戻ったら、泣き腫らした目を見開いて、満面の笑みで迎えてくれるかな。
少し勇気が湧いてきた。帰ろう、俺の家に。生きて帰ろう……。
ロープを探すが、なかなか発見できない。目印のない森は迷路のようだ。俺はどこに向かっているのか、まるで見当も付かない。
似たような枯れ木を通り過ぎた後、気になる風景を見つけた。
この辺りは、やけに荒れている。格闘した後のように枯葉が撒き散らされている。
あいつがいるのか……? 緊張しながら、足音を立てないように歩く。
耳元で不快な羽音がした。羽虫は俺にまとわりつくでもなく、すっとそばを通り過ぎる。
なんだか奇妙な感じがした。俺は虫の流れに乗って歩を進める。
――『この先には、行っちゃ駄目だ』
ふと、足が止まる。
なに言ってんだ、俺。
不安感を振り切り、足を進める。
目の前には足跡があった。人間の足跡だ。枯葉を踏み荒らした跡が、一筋の道となって俺を導いている。
誰かがこの先にいるかもしれない。行かないと。
俺の足は夢遊病患者のようにふわふわと進む。
羽虫が増えてきた。歩みののろい俺をどんどん追い抜いていく。
なんだよお前ら、目的地が一緒なのか……?
奇妙な仲間意識を感じ始めたとき、俺の旅は突然終わりを告げられた。
羽虫が降下した先を、呆然と眺める。
なんだろう、これは。
人が、倒れている。
枯葉に頭から突っ込んで、足が変な方向に投げ出されたまま固まっている。
俺はしばらくそれに近寄れず、その場に突っ立っていた。
だって、その服は、その靴は、俺が数刻前まで見ていたものと同じで……。
恐る恐る歩み寄ると、枯葉に紛れて……見慣れた赤色が……。
俺は、横顔が見えるその位置で、がっくりと膝をついた。
「……イ、ブ……?」
目の前に横たわる物体に手を伸ばす。
「おい……」
体を揺さぶると、ぐにゃりという感触が伝わった。
顔は恐怖に引き攣っていて、俺がよく知っている少女とは似ても似つかない。見開かれた黄色い瞳は乾燥して縮み始めていた。
肩から首にかけて、爆弾でも食らったように吹き飛んでいる。
「な、なあ……起きろよ」
俺は、軽口を叩くように……何故だか半笑いで、そう声を掛けた。
「暗くなるぞ……帰ろうぜ……」
少女は答えない。代わりに、ぷしゅっと音を立てて、何かがはじける音がした。
俺は腰が抜けたように、地べたに座り込んだ。
あれ、おかしいな。なんだろう、これは。
随分と気味の悪い人形だ。
羽虫が、ハエであることにようやく気が付いた。
なんだよ、お前ら、どうして人形なんかに群がってるんだよ。
ブンブンと、俺を嘲るように飛び回るハエたち。いつぞや図鑑で見たやつにそっくりだなと思った。
確か熱帯雨林に棲息してて、人間の腐肉を好む……。
俺はカッとなって腕を振り回した。
食うなよ、食うんじゃねえよ、誰を食ってんだよ、誰の権限で、これはお前らのエサじゃねえ!
ハエはひらりと身をかわし、構うことなく食事を続ける。
一瞬世界がぐにゃりと歪んで、俺は枯葉に倒れ込んだ。右肩を下敷きにしてしまい、激痛で意識が飛びそうになる。
なにやってんだ、俺……。
あはは、おかしいよな、イブ。
微笑みかけるが、彼女の横顔は笑わない。
これは夢か? 夢だよな。なんて笑えない夢を見てるんだ。早く起きろよ。
ブンブン唸る羽音と、息苦しいほどの蒸し暑さ、そして右肩の激痛が、俺を夢心地にさせない。
これは夢じゃない。そして、今眠ったら俺は死ぬ。確信に近い考えが浮かんだ。
さっきまであんなに恐れていた死が、今はすぐ傍に来ている。この苦しさがなくなるなら、眠ってしまったほうがいいかもしれない。段々とそんな気分になってきた。
……そういえば、俺にはずっと憧れてた死に方があったなぁ。
ごろりと仰向けになり、夕染めの空を見上げて、俺は妄想の記憶を辿る。
化け物と対峙した俺は、イブを背中に庇いながら華々しく闘って死ぬんだ。
また違う妄想では、津波で流されそうになるイブの手を掴み、抱き寄せて一緒に流される。そして、その辺の柱にぶつかって死ぬんだ。
他にもある、たくさんある。思い出しきれないほど、無数のシチュエーションを妄想してきた。
別になんでもいいんだ。イブを守って死ぬんならなんでもいい。
――『あなたにとっての幸せって、なんですか』
誰に問われたんだっけ。ふと頭をよぎった質問に、首を傾げる。
――『母さんにとっての幸せは、あなたより先におばあちゃんのところへ…』
母の笑顔が甦る。
母さんは、幸せだった? 母さんは、願いが叶ったね。
俺は……? 俺の幸せは? 母の笑顔と、イブの笑顔が重なる。
俺はイブと過ごせて幸せだった。そしてイブと一緒に死ねるなら、俺も幸せなんじゃないか……?
ハエが増えてきたな。俺にも群がってきやがる。黒い煙が目の前を覆い始めた。さっきから、名状しがたい臭いが辺りに充満している。
臭い、逃げ出したいくらい臭い。
でも、俺の体はびくともしない。頭が段々ぼんやりしてきた。
再び横を向く。ハエがびっしりと付着していて、イブの顔が見えない。見えないと、なんだかよくわからなくなってくる。
あれ、俺は何をしてるんだ。早く起き上がって、イブを探しに行かないといけないんじゃないか?
これがイブ? 何を言っているんだ。仲間たちはみんな似たような服を着てるから、他の奴だよ。
イブがこんな臭いを発するもんか。
俺のイブはひだまりみたいないい匂いがして……。
ほろりと目から粒が溢れる。あたりはすっかり暗くなっていた。
あの犬熊が帰ってきて、俺の頭を噛み砕いてくれないかな。そんな妄想が頭を占め始めた。
早く……早く……臭いんだ……痛いんだ……だるいんだ……。
期待はどんどん膨らんでいく。
でも大抵、そういう時には来ないんだよな。畜生……。
頭が痛い。ガンガンする。手足が痺れてきやがった。激しい乾きに襲われたが、俺の手は固まって動かない。
体中を虫が這い回るのを感じた。俺をかじるなよ、俺はまだ……。
横でぷしゅっとなにかがはじける音がした。激しい腐臭がたちこめる。
どろりと液体が流れてくるのを見た。ぽこぽこと、ガスを噴出す肌色の液体……。
「——————」
俺は声にならない悲鳴を上げた。
そしてそのまま、意識を手放した……。




