第5章(1)
唐突に日常が崩れ去ることは、よくある。
こんな生活では、その可能性はほぼ百パーセントだ。
直近の例が、あの青年組だ。
ニールとロイドの突然死。サリーは謹慎期間を終えたが、人が変わったように攻撃的になっている。残されたミレーニアは、いつも一人、寂しそうに物思いに耽っていた。
それを不憫だとは思ったが、いつかは当然起こることが起きただけだ。
そう、その絶望はいつか俺たちにも訪れる。生きている誰しもに訪れる。ただ早いか遅いか、それだけの違いだ。
だから仕方がない。
俺はわかっていた。わかっていた――つもりだった。
今日は久々に夕班に組み込まれた。日が傾きはじめた十六時、俺たちは装備を身につけて外へ出る。
採集籠がギシギシと鳴る。俺たちの行進は草原を渡り、緑地帯へとたどり着いた。前回の採集で、有用そうな生体がいくつか選定された。それを回収するのが今回の任務だ。
同じ任務を与えられたグループは三組。ここで分かれて、それぞれ担当区域へ向かう。
「一、はっけーん!」
先を行くイブが手を振る。数日前に見つけたキノコは、さらに生息域を広げ、笠を増やしていた。
内班から「キノコはもぎとって問題なし」と通達が出ている。俺たちは無造作に掴んでは籠に放り込んだ。乾燥させて薬にするらしい。
地図を確認する。一から五まで、生息地帯がひと目で分かるようになっている。もちろん、そこ以外にある可能性もあれば、もう消えている可能性もある。あくまで目安だ。
ガサガサと足音がうるさい。枯葉が堆積した地面は、足首まで沈む。鬱陶しい。俺は大きく足を払った。
「やだー、やめてよー。籠に入っちゃうじゃない」
蹴り上げた枯葉が砂のように舞う。イブが悲鳴を上げた。
「悪い」
反省した俺は、今度は普通に歩く。
森は油断するとすぐ方向感覚を失う。俺は地図と、さっき確認したロープの番号を照合し、現在地を推測した。
「三が近いな」
「えー、あのアブラムシみたいなの? やだなあ」
出発前に見せられた写真。葉の裏にびっしりと黒い粒が張り付いていた。あれはさすがに気色悪い。虫に慣れたとはいえ、あれは別格だ。
「仕方ないだろ、仕事だ」
「うー」
頬を膨らませるイブが可愛い。
仕方ない、俺が取ってやるか。こういう時くらいしか格好をつけられない。
地図をしまい、写真にあったような大きな葉を探して歩く。
その時。
カツン、とつま先に何かが当たり、体勢を崩した。
「……?」
木の枝かと思ったが、違う。何かが足に絡みつく。穴の空いた何かに靴がはまったようだ。
「チャフ〜。だからやめてって……」
足を振り上げる。何かが飛んだ。
カツン、カツン。
木の幹に当たって落ちる。
イブが息を呑む音。
それは、よく知っているようで、決して馴染みたくないものだった。
黄ばんだ髑髏が、枯葉の山から半分顔を出し、俺を見つめていた。
「な、何……?」
イブの声が震える。俺の思考は痺れ、うまく働かない。
人間の頭蓋骨。
誰のだ?
その時、遠くで枯葉を蹴散らす足音が響いた。空気が唸る。
振り向こうとした瞬間、右肩に衝撃が走った。浮遊感と共に背中に激痛が走る。白んだ視界を振り払って頭を上げると、目の前に黒い姿が映った。
「チャフ!」
近くでイブの声がする。駄目だ、そんな近くにいちゃ。
「……げろ! やく……」
叫んだつもりが、声にならない。
手探りで掴んだものを、確認もせずに投げつけた。
潰れた採集籠。中身が散乱し、黒い巨体が一瞬たじろぐ。
その隙に走った。
出口? 無理だ。判断する余裕はない。ただ逃げる。
最悪の地面。枯葉が鳴り、足が取られる。背後の気配が迫る。
背中の武器。ナイフとボウガン。後ろ手でナイフの柄の留め具を外す。
ライズの言葉が甦る。
『倒そうなんて考えないでね。きみたちには無理だから』
その通りだ。
振り向きもせずナイフを投げる。命中はしないが、距離がわずかに開いた。
心臓が軋む。毛穴が総立つ。
再び、背後に獣の息遣いが迫ってきた。
だめだ、追いつかれる……。
前方の地面に、隙間を見つけた。木の根が作った自然の洞窟だ。俺は僅かな隙間に滑り込む。中は予想以上に広かった。スカスカな巨木の内部に繋がっていて、俺の体はすっぽりと納まる。足の裏が裂けたのがわかった。相手の爪が俺の靴を奪っていったようだ。
真っ暗な空洞の中、俺は足を庇って身を縮める。入口を振り返ると、毛むくじゃらの腕があたりを掻き回し、木片を撒き散らしていた。
しばらくそいつは暴れていたが、やがて諦めたように腕を抜く。ドスドスと振動が響いた後、枯葉の音が遠ざかった。
どっと汗が吹き出した。右肩と背中に血が染み、痛みが走る。心臓がうるさい。視界の奥で渦巻きが揺れている。
俺は酸素を求めて喘いだ。
しばらくして、鼓膜を裂くような奇声が響いた。思わず耳を塞ぐ。あいつの鳴き声か。なんて声で鳴きやがる。
やめろ。
消えろ。
どこかへ行け。
ドスドスと地響きが近づき、また遠ざかる。俺は身を縮めて耐えた。目を閉じると、肩の痛みが一層はっきりする。熱いのか痛いのか、もうわからない。
入口から差すわずかな光で右肩を見る。
真っ赤だ。
三本の深い裂傷。肉が抉れ、白いものが覗いている。
ひどい。
頭がくらくらする。
これ、死ぬやつか?
怪我の程度なんてわからない。足裏はまだ動く。背中は見えない。
どうしてこんなことに。
あれはニールたちを殺した“犬熊”だろう。
ロープを越えた? いや、そんなはずはない。
だが、あの頭蓋骨。
思い当たるのは一人だけだ。まだ見つかっていないロイド。
深呼吸する。
酸素が巡り、思考が戻る。
イブは逃げただろうか。
あいつが俺を追っている間、時間はあった。イブは俺より足が速い。大丈夫だ。きっと。
ドスドスと振動は止まない。外が騒がしい。
枯葉が踏み散らかされる音がする。
キイキイと甲高い奇声が聞こえる。
その声にとてつもない寒気を感じて、俺は耳を塞いだ。
耳を塞ぐと声は聞こえなくなり、わずかながら心が安らぐ。しかし、肩の痛みは消えない。
俺は――死ぬのか。
胸の奥に氷ができ、内側から全身を刺す。暑いはずなのに、肩が冷えていく。震えが止まらない。
一体、何が起こったんだ?
だって俺は、ついさっきまでイブと一緒に。これからもずっと……そうだろう?
痛みが俺に逃避を許してくれない。現実はここだと叫ぶように、激痛が押し寄せる。
足音が消えた……?
耳を澄ます。出るなら今だ。
上着を裂いて足に巻く。靴代わりだ。
残りを肩に巻きつける。片手ではうまく縛れない。血は止まりそうにない。
出なきゃいけない。
場所は割れている。ここは安全じゃない。
そう思うのに、体が動かない。
だって、本当に去った保証はない。
『……無駄なカロリー使うなよ』
声がする。
『どうせそのうち死ぬんだから。じっとしてろよ』
「……何言ってんだよ」
歯を食いしばる。
死にたくない。
『生き延びて何するんだよ。寝て、イブと少し喋れて喜んで、どう死ぬか考えてるだけだろ。今死んだって同じじゃねえか』
「違う……違う……」
違わない。
だが、違うと思いたかった。
死にたくない。
消えたくない。
“死ぬ”って何だ。
想像する。
ぷつりと、世界から切り離される。
連続が断たれる。
光も闇もない。何もない。
『同じなんだ、昔も今も』
別の声が聞こえた。
『何も変わりゃしない。こんな世の中でも、俺の人生は一度きり……』
シブレットの言葉だ。頭の中で繰り返される。
「同じ……」
言われたときは、よくわからなかった。今ならその意味がよくわかる。
死んだら終わり。それは同じだ。
“これは夢で、いつか元の世界で目を覚ます”。
まさかまだ俺は、そんな夢想をしていたのか。
馬鹿だ。
“いつか世界は救われる”。
腹の底では、期待していたんじゃないか。
でなきゃ、あんなに無気力でいられるはずがない。
俺は受け入れていなかった。
わかったふりをして、何もわかっていなかった。
視界が歪む。
涙が落ちる。
「う……う……」
嗚咽がこみ上げる。
両親が死んだ時も、泣かなかった。
母が腐っていくのを見ながら、俺はどこか別のことを考えていた。
あの時からだ。俺は現実を生きるのをやめていた。
だが。時間は今しかない。
幸せになりたいなら、今、ならなきゃいけなかった。
シブレットは気づいていた。あの墓穴を見たときに。
「墓穴……」
ここは墓穴みたいだ。
寒気が走る。
冗談じゃない。出よう。
ずりずりと這い出る。
あいつがいたら戻ればいい。その時は本当に墓穴だ。
もし、帰れたら。
俺は、イブに告白する。
ライズに頼んで、部屋をもらって。
悪くないじゃないか、俺の人生。
非難されてもいい。
“罪深い”なんて、誰に対してだ。
「どうせ神さまは見てない」と言っていたのは誰だ。
結局、救いを求めていた。
賢い俺はきっと救われる――そんな甘い幻想。
馬鹿だ。
神様、許さなくていい。
だから今だけ。今だけ救ってくれ。
ほんの少しでいい。幸せになってから死にたいんだ。
頼む。頼むよ。




