第4章(4)
ひとつしかない黒板消しは、もう潰れかけていやがる。内側から白い粉を吐き出し、逆に黒板を汚していく。
新しいのを探してきた方がいいんじゃねえか?
そういや、この基地はヨギ大学の施設の一部だし、その辺を漁ればすぐ見つかるだろ。
乱暴にバタバタ叩いては咳き込む。そんなことを繰り返している自分の低脳ぶりに呆れ返る。
「ねぇ、チャフ……」
そんな中、教卓の向こうから弱々しい声が聞こえた。
「なんだー?」
答えてみるが返事がない。ふと向こう側に目をやると、イブは上の空で天井を見上げていた。
「どうした、元気ないな」
「ねぇ、チャフ」
イブはもう一度俺を呼ぶと、弱々しい笑顔を向けてくる。少し憂いの篭った目に、俺の心臓が跳ねた。
「怖いと思った? お兄ちゃんのこと」
「えっ」
なんだ、そういうことか。少しがっかりした俺は、黒板に向き直ると、清掃という名の汚す作業を再開する。
「そりゃあ、ちょっとな……なんか、得体が知れないっていうか……」
「そうだよね、そう思っちゃうよね」
イブは長い溜め息を吐く。いつもの、″お兄ちゃんが正義、お兄ちゃん万歳″なイブらしくない反応だ。
「私も時々お兄ちゃんのことがわからなくなるの……妹失格だよね」
落ち込んでいるイブには悪いが、俺はちょっとホッとしていた。イブの感性は俺たちに近いんだな、と再認識する。
「お兄ちゃん、苦労してきた人だから、ちょっと攻撃的っていうか、人を信用してないっていうか。誰にも相談せずにどんどん自分の考えを進めちゃうの」
「確かに、そんな感じだな」
茣蓙の擦れる音がする。膝を抱えたイブは今度は茣蓙の目を数え初めていた。
「私が頼りないのがいけないのかなあ……お兄ちゃんの力になれるようにって、仕事も勉強も頑張ってるんだけど全然駄目」
「イブは充分やってるだろ」
「全然駄目なの。だってお兄ちゃん、私のこと相手にしてくれないもん」
頬を膨らませる様子は相変わらず可愛い。俺はにやけそうになるのを抑えるために、掃除に没頭する。
「私ね、ずっとお兄ちゃんに面倒見てもらってたの。お父さんもお母さんも早くに居なくなっちゃって、お兄ちゃんは小さい私をひとりで育ててくれたんだよ」
イブの話は過去に向かっていく。長い付き合いながら、初めて聞く話だった。
「私と違って、お兄ちゃんは獣人の純血だから、すごく社会の風当たりが強かったみたいなの。それでも私には弱いところを見せずに、いつも「大丈夫」って……」
「いい兄貴だな」
「うん、すごく素敵なお兄ちゃん。だけどね……」
一瞬見せた輝く笑顔はすぐにしぼみ、また茣蓙を指でつつき始める。
「たったひとりの家族の私にすら愚痴も吐かずに、全部ひとりで背負い込んじゃって。いつかお兄ちゃんはわたしを置いてどこかへ行っちゃうんじゃないかなって、ずっと思っていたんだよね」
相槌が打てず、仕事だけが捗る俺。黒板消しが擦れるキイキイという音が耳に障ったので、一旦作業の手を止めた。
「私、ただのお荷物だから、それも仕方ないかな……」
「何言ってんだよ、そんなことねぇよ」
イブが荷物というなら、この基地の全員がお荷物だろう。でも流石のライズだって、ひとりでは生きていけない。結局はこの地下社会でみんな一緒に終焉を迎えるしかないんだ。いくら野心を持とうと、同じことだ。
「どこにも行かねぇよ。ずっと、みんな一緒だ」
「うん……」
イブは頷きつつも、肯定しきれないみたいだ。不安げな眼差しは消えることなく俺を捉える。
「ねぇ、チャフ……お願いがあるんだけど」
「お願い」。嫌な単語に、びくりとする。
最近の″頼み″だの″お願い″だのにはろくな話がない。
「なんだ?」
しかし、他でもないイブの頼みなら、聞くしかないだろう。
「あのね」
しばらく躊躇うようにもじもじしていたが、やがて彼女は口を開いた。
「お兄ちゃんを助けてあげてほしいの」
やっぱりろくでもない話だ。無言な俺に構わずイブは続けた。
「私と違ってチャフは頭がいいから、ちょっと勉強すれば、お兄ちゃんの考えもわかると思うんだ。もしお兄ちゃんが困っていたら、助けてあげてほしいの」
「買いかぶりすぎだろ」
「ううん。お兄ちゃん、チャフのこと気に入ってるよ。今日の勉強会だって、お気に入りしか呼んでなかったでしょ?」
「それは俺がイブと一緒にいたからじゃ……」
「違うよ」
やけにきっぱり否定するな。
単に妹の友人だから、目をかけてるだけだろう?
しかし、イブの目は真剣そのものだ。
「お兄ちゃんはずっと私を守ってくれた。たまに怖いことも言うけど、みんなの幸せを考えてくれてるのは間違いないよ。
だから、心配ない。お兄ちゃんのことを信じてあげて。お兄ちゃんの助けになってあげて」
イブの兄妹愛には頭が下がるな。俺は溜め息をついた。
「わかったよ」
「ほんと?!」
その顔が見たくて言っただけだ。少しの罪悪感が胸に芽生える。
「ありがとう!」
紅潮してる顔を悟られないよう、俺は仕事に戻る。
しかし、こりゃあ綺麗にはならないな。中途半端に白みがかった黒板の前で、俺は匙を投げる言い訳を考え始めた。
ポトリと足元に何かが落ちる。見ると、チョークが転がっていた。身をかがめて手を伸ばすと、それが微震していることに気が付いた。
「地震……?」
揺れている。微かだが、はっきり感じる。″実験″とやらがもう始まっているのか。
「イブ、大丈夫か……?」
緩やかな横揺れ。強弱を不規則に繰り返しながら続いている。今までのデカイやつに比べたら、気付かなくてもおかしくないくらいの弱い振動だが。
「………………」
イブは目を見開いて硬直していた。こいつは地震が死ぬほど苦手なんだ。俺が駆け寄ると、必死の形相でしがみついてくる。
「大丈夫だ、イブ。これはサファーの実験とか言うやつだ」
そう言っている間に、振動は大きくなっていく。
おいおい、話が違うじゃねぇか。俺は教卓の下へイブを引きずり込む。
ぱらぱらと舞落ちる砂埃を見て、嫌な考えに囚われた。
サファーのユビグラム解析は完璧じゃない。ヘタに弄り回したらやっぱりまずいんじゃないか。
ここは地下だ。天井が崩れたら生き埋めになって死ぬだろう。圧死なのか、窒息死なのか。改めて考えると恐怖が沸き上がってくる。
しかし、他と比べてどうだろう。空調の風が項を撫でるとともに、俺は冷静さを取り戻した。
この十年間、数知れない死体と死に方を見てきた。
首筋を齧られたニールの生々しい死体。
津波に流された父。
水路に溜まって腐っていった母。
蜘蛛毒で絶命したホセ。
心筋梗塞で死んだクミコばーちゃん。
感染症にかかって追放された仲間や、雷に打たれて死んだ友人、熱中症で死んだ年寄りもいた。
そのほとんどが苦しみと恐怖に歪んだ顔だった。
これから先、俺たちも死ぬだろう。果たしてどんな死に方だろうか。ろくな死に方はできないだろう、かなりの確率で。
そう思うと……今ここで、イブとこうやって二人で仲良く生き埋めなんて、なかなか理想的な死に方じゃないか?
震えるイブを抱きしめると、ふわりといい匂いがした。
どうせ死ぬんだ、死に方くらい選ばせてくれよ。
揺れはしだいに治まっていった。
ほんの少しだけ、残念な気持ちが湧き上がる。
まあ、理想的な死に方ではあるが、死なないならその方がいいか。
そう考え直し、イブを抱える腕を緩める。
「ったく、あのおばさん、ミスりやがったな……」
流石にこの震度だと、上に集まらざるを得ないだろう。イブを促して、俺は机から這い出た。
ばーちゃんたちは隣人が連れて行ってくれたようだ。きっとまた最後だな。階下の定位置が俺たちを待っている。直下型と言ってたし、この間みたいな津波絡みの争いはないだろう。
しかし。イブとの時間を邪魔しやがって。俺の頭は私的な怒りで満ち満ちていく。
しかし、この鬱憤が晴れることはないだろう。
……まあ、いつものことだ。
俺は静かに溜め息を吐いた。




