第2章(6)
「チャフ。お前、勉強会行くのか?」
予告通り濃霧の晴れない翌日。会議室に向かう道すがらに、俺は声をかけられた。
「そのつもりだけど」
この声はシブレットだ。俺より五つ年上で、この基地の中では割と親しい男だ。
彼は何か思案するそぶりを見せた後、徐ろに口を開く。
「あのさぁ、俺、ちょっと今日は行けそうにないんだわ」
「何か用事?」
「いや、その」
シブレットは頭を掻く。
いいよ、わかってる。俺は先回りして言ってやることにした。
「ばーちゃんの具合でも悪いんだろう?」
「そう、そうなんだ」
ぱっと明るい表情になる。わかりやすい男だな。
「だからさ、リーダーには休むって……」
「伝えとく」
「ありがとう! さすがチャフだ、恩に着るぜ!」
男は満足そうに笑うと、駆け足で去っていった。
そっちはお前の部屋じゃないぞ。サボりたいならちょっとはそれらしく振る舞えよ。
つい呆れてしまったが、それ以上は特段気にも留めずに俺は目的地へ足を進めた。
会議室はまだ閑散としていた。数人の仲間がパラパラと茣蓙を埋めている。
ライズが奥の壁に寄りかかっているのを見付けて、シブレットが来ないことを告げに行った。
「休みの理由は? 本人の体調不良? それともおばあちゃんの体調不良?」
皮肉めいた質問に、俺は苦笑する。さすがにわかってやがるか。一応「ばーちゃんです」と答えておいた。
「ふーん」
自分から聞いておいて、興味無さそうな応答だ。とりあえず怒ってはいないようでほっとする。
前列の端にイブが座っていたので、その隣に腰を下ろした。
結局、昨日の半分ほどしか人が集まらない中、授業は開始された。
「昨日は基礎ばかりだったので、今日は少し応用の方を紹介させてもらいますね」
黒板に『ユビグラムの応用』とタイトルが書かれる。今回の板書係はキューだった。傍に灯りを持ったノギスも控えている。今日は三人揃っての出陣か、と思った。
「この施設で使用されているユビグラム技術の最たるものは、培養肉ですね。みなさんお馴染みのこれです」
教卓の下から、容器を取り出す。蓋を開けると赤黒い物体が詰められていた。
「これは牛と鮪の肉を参考に作られています。古くから研究が進められていて、すでに安定生成できるようになっています」
ユビグラム配列は、これらの三つ組から始まり、百組の暗号が一列に並び……。
サファーの説明に合わせて、キューが機械的にそれを書き下す。
「この百組を一単位として、三千ほど繰り返したものが肉の正体です。牛と鮪はこの数が少し違うだけでほぼ同じで……」
規則的に刻まれる黒板の音と、奇妙な落書き。サファーの念仏が加わって、俺は早くも眠気に襲われる。
「クラフトとハルトという記号は、土に多く含まれます。培養肉はほとんど土を原料としていて、二グラムの土からおよそ一グラムの肉ができます。収率は五十パーセントです」
なるほど、そりゃあ材料には困らんな。
ぼんやりした頭に、妙な光景が浮かぶ。
俺はコンクリートが剥がれた壁から土を削り取り口に運ぶ。じゃりじゃりという食感はしだいに消え失せ、あの独特の苦味が口に広がる。
なんだ、ユビグラムなんか弄らなくても同じ味じゃないかと思ったところで、自分が船を漕いでいることに気がついた。
「……は、チャフくんとイブちゃんがとってきてくれた」
「えっ」
突然名前を呼ばれて、つい声が出てしまった。
慌てて口を塞ぐが、既に遅い。視線を集めてしまっている。
俺は居心地悪く俯いた。
くそ、もう寝ないぞ。一気に眠気が吹き飛んだ。
サファーはクスクスと笑って話を続ける。
「とってきてくれた蜘蛛から抽出した猛毒の成分を解析した結果、特徴的な配列を同定しました!」
なんだ、蜘蛛の話か。俺は隣のイブを窺う。目が合って彼女は微笑した。″役に立ってて良かったね″と言っているらしい。
「亡くなったホセさんの患部からもこの配列が見つかったことから、わたしたちはこの配列を特異的に攻撃する薬品の開発に着手しました。幸いこの配列はハブ毒と似通っており、薬品のベースはほぼ開発されていて」
サファーは再び催眠の呪詛を紡いでいるが、もう俺には効果がない。早口の朗読はもちろん全ては聞き取れないが、流し聞く感じ大体内容はわかった。
要するに、″あの蜘蛛毒は治療できるから、もう怖くない″って話だな。
「この治療薬は、噛まれた直後から三時間以内に患部へ注射投与すればほぼ百パーセント治癒します。投与が遅れれば遅れるほど生存率は低くなります」
サファーは小瓶を翳してみせた。中には紫色に色付く液体。あの蜘蛛からぬるりと出てきた体液の色に似ていた。
あれを注射するのか? 少し寒気がした。
「ここまでで、なにか質問は?」
サファーが促すと、おずおずと手が上がった。どうぞ、と指名された彼女は最前列のど真ん中で立ち上がる。
「その、わたしがお聞きしたいのは……」
たしか名前はレムという、ライズ信者の女だ。いつもライズの横にくっついて指示を復唱してる奴らの一人。
彼女はくいとメガネを持ち上げ、手元のメモをせわしなく捲る。あ、と短い悲鳴が聞こえたと思うと俺のそばになにかが落ちてきた。
メガネだ。フレームがガムテープでぐるぐる巻きにされている。
「すみません」
手渡してやると、それを慌ただしく身につけた。修理が上手くいっていないんだろう、またずり落ちそうになるメガネを押さえながら言った。
「あの、その技術の安全性は、確認されているんでしょうか。治療薬といっても先日のホセ氏から被害者はいないわけで、治療の実績という観点からしてもまだ安全とは……」
語尾はうにゃうにゃと丸まり聞き取れない。
小動物のように身を縮め、上目遣いでサファーを見上げている。
どうやら質問は終わったらしい。
「えっと、只今ご質問いただいた……安全性についてですが」
サファーは咳払いをすると、背後にちらりと視線を投げた。
「全て確認できています。ヒト型ユビグラム完全再現体、ノギスで」
部屋内は疑問符で占められた。視線を集めた少女は無表情のまま軽く会釈をする。サファーは彼女の手を引いて自分の傍に立たせた。
「ノギスは一般的なヒト型ユビグラムを再現した実験体で、容易にユビグラム変化をシミュレートすることができます。それを利用した安全性確認試験で……」
自慢げに語るサファーに対して、みんなの顔はぽかんとしている。
「蜘蛛毒に汚染させた実験体に、実際に薬品を投与して経過を観察しました。拒絶反応や副反応も特に無く、腫れは数時間で治まりました。十回の試行の結果、安全性は七十二パーセント。基準値は超えています。国の規格でも……」
だんだん、沈黙がざわめきに変わりはじめた。その意味が理解できてないらしい、サファーは不思議そうに首を傾げる。
「あの、みなさん、なにか……」
俺の背後から、震えを押し殺したような声がした。
「それって、ノギスちゃんに毒を盛って……そこに薬を投与して調べたってこと……?」
いくつもの悲鳴が聞こえた。声を上げたのは女ばかりだが、見回すと男たちも顔を蒼白にしている。
「ノギスは試験のためにわたしが調整した個体で、法律的に生体ではありません。痛覚や感情を示すユビグラム領域は除去していて……何も感じないから大丈夫なんです」
流石に様子がおかしいことを察したらしい。サファーは慌てて説明に入るが、どよめきは収まる気配を見せない。
「えっと、その……みなさん、これは国で普通に採用されていた安全性確認試験で……昔みなさんが使っていた薬品や食品、化粧品は全部、この試験を実施してたんですよ。ここの培養肉や消毒薬だって全部ノギスが安全性を……」
もう誰も聞いちゃいなかった。いや、聞いてさらに悲鳴が激しくなった。
ひどい、かわいそう、だの。批判の声が無数に飛び交う。ショックで泣き出した奴もいた。
「あの、あの、みなさん」
サファーは泣きそうな顔で声を張り上げた。
「この試験のおかげで、わたしたちは……無意味な動物実験をしなくても良くなったの……」
悲痛な声は、尻すぼみになって消えた。喧騒の先には、ただ残念そうに肩を落とすサファーの姿があった。
この場を収める能力は、流石のライズにもなかったらしい。勉強会はこのまま閉会となった。
泣く女の肩を抱いて歩く男が、憎々しげにサファーを睨みつけて出ていった。
あいつらはさぞ、自分のまともな神経に酔いしれているんだろうな。
「みんな勝手ですよね」
あらかた人が出払ったあと、黒板を消し終えたキューが呟く。
「安全性を確認してないって言ったら文句を言うんでしょう。それとも、動物実験ならいいっていうんでしょうか」
呟きというには大きい声だ。敢えて部屋の外にも聞こえるように言ってるんだろうか。
「仕方ないよ、キューくん。あの反応が普通なんだよ。わたしたちがちょっとおかしいんだね」
サファーはあははと笑った。そしてまだ座り込んでいる俺とイブを見て、苦笑いを浮かべる。
「ごめんね、ちょっと刺激が強すぎたかな」
「ええ、まあ……」
否定もできず、俺は曖昧な返事をした。
「でも、その、どうせみんな蜘蛛に噛まれたら薬使いたいって言いますよ!」
イブが鼻息荒く言うと、サファーは「そうよね」と複雑そうに笑った。
「あの人達は、肉を食べながら″動物を殺すな″て言ってた部類の人ですよ、きっと」
換気装置の前で黒板消しを叩きつけながら、キューが愚痴っている。
「屠殺師だけが地獄へ行けとか言うんですかね、私は逆だと思いますけどね」
「もー、キューくん、煙たいよ〜」
語調とともに荒っぽくなるキューの手捌きのせいで、辺りにはもうもうと粉塵が舞っていた。げほげほと咳き込むサファー。
二人の様子をノギスは無表情に眺めていた。俺はつい彼女をまじまじと見つめてしまう。
「人間に作られた実験体」と言っていたが、とてもそうは見えない。
半袖のワンピースから覗く華奢な手足には悲愴な実験痕なんて全く残っていない。
突然黒い目がこっちを向いた。俺は普通、他人と目が合ったら反射的に逸らしてしまうのだが、何故だかその反応は起こらなかった。
その目になんの感情も読み取れないからだろう。
俺はしばらく少女の人形と見つめ合っていた。
「ねーお兄ちゃん、次の勉強会はいつあるの?」
無邪気なイブの声が聞こえる。俺はノギスから視線を外してそちらを見た。
「んー、明日は晴れそうだし、また来月かなぁ」
「そっかぁ。残念だなぁ」
そう思ってるのはお前だけだよ。
俺はというと、ライズの言葉に安堵していた。部屋に籠っているのはジメジメして嫌いだ。
外ならばーちゃんじゃなくてイブと一緒に居れるしな。
そういえば、俺はふと思い出した。はじめの方に言っていた、『まとまった結果』というのは何だったんだろう。
まあ、またの機会に聞けるだろ。俺はサファーやライズに黙礼すると、イブの首根っこを掴んで部屋を出た。




