四~六
四
部屋にもどるなり、芽以は景品の箱を開けて新品のスマホと格闘を開始した。エイジは汗まみれだった。大浴場は地下だ。もう大きいから娘は一人でも行けるだろう。しかしせっかく温泉に来たのだ。娘とぶらぶら歩いて行きたかった。スマホはあとにしなさいとやんわりと叱り、いやがる芽以を浴衣に着替えさせ、自分もそうした。
「じゃあ、カギ貸してよ。先にあがってもどって来るから」もう十歳だ。男湯にいっしょに連れて入るわけにはいかなかった。だいいち自宅でだって、去年あたりから父親とは風呂に入らない。そのうち母親とも入らなくなるだろう。
「なんだよ、せっかく来たんだからゆっくりつかればいいのに」
「いやよ、ママもいないし」ここで母親に言及されるとは思わなかった。エイジは頬を叩かれた気分だった。「体洗ったらすぐに出てくるから。うるさいおばさんとかに、風呂の入り方も教わってないのかって、いちゃもんつけられてもイヤだし」
「外で待ってるよ。風呂上がりに売店でソフトクリームとか食べないか」もちろんエイジは冷えた生ビールをあおることしか考えていない。
「いらないよ、そんなの。だってすぐ晩ご飯じゃない」
「いや、夕食まではまだ小一時間あるさ」
「だったらなおのことよ。早いとここれが使えるようにしたいの」
それに異論をはさむ筋合いはなかった。部屋を出てドアをロックした後、エイジは鍵を娘に渡した。
大浴場の風呂はいくらでも入っていられるくらいのちょうどいい湯加減だった。それでも三十分もたたずにエイジは大浴場から出てきてしまった。湯上がり処へ一直線で進み、そこで手持ちぶさたにしているベストにスカートの女性スタッフに生ビールの大を注文する。ひっつめ髪に満面の営業スマイルを浮かべると、慣れた手つきでジョッキをサーバーにすばやくセットしてくれる。エイジは待ちきれなかった。おれの人生を変えてくれるのは、つまるところこれしかないのかもしれない。ええい、かまうものか。それのなにが悪い。
開放された大きな窓の向こうにウッドデッキが広がり、それが渓谷に向かって突きだしている。ほかに客はいない。ジョッキを片手にエイジはスリッパのままデッキを進み、流れの早い川を見下ろした。火照った体に吹きあげる川風が心地いい。
最高の一杯だった。
あっという間に飲み干してしまう。そして濡れたタオルを入れたホテルのビニールポーチから、満を持してたばことライターを取りだし、火をつける。至福のひとときだ。
「おかわりされますか」いつの間にか先ほどのスタッフが後ろに来ていた。さっきは若く見えたが、落ち着いた雰囲気からするとどうやらベテランらしい。胸元のネームプレートには「蟹江響子」と刻まれていた。
「え……いや、あんまり飲みすぎちゃうと、せっかっくの夕飯が食べられなくなってしまいますからね」
くすくすとかわいらしく笑い、響子さんは訊ねてくる。「お一人ですか」
小さな動揺を気取られぬようにする。でも正直に告げないと。「いや、家族旅行です。けど、娘は先に出ちゃいまして」
「ああ、さっき急いで帰っていったお子さんですか。小学生ぐらいの。目の前を走っていかれましたよ」
「お恥ずかしい。せっかくの温泉なのにお風呂を愉しみもしないなんて」
「お子さんにとっては退屈な場所ですわ。昭和なんて言ったってわかるわけないですし」
「でもここは家族連れが多いんじゃないですか」
「そうでもないですよ。高齢のご夫婦とか、若いカップルとか、それに……」響子さんはそこで口ごもる。宿泊施設の常か。ほかの客の前で口外するなんて職業倫理に反するが、どうあっても誰かに話したくなるわけありの人々が毎日のように訪れているのだろう。お忍びで訪れた古めかしい宿の外れで、むきだしの獣性に衝かれてすっからかんになるまでまぐわりつづけるのだ。
それはある意味、情熱だった。
真逆の心境にあるいまのエイジにはそう感じられる。それをたぎらせていた時代がはるか遠くに感じられた。しかし仕事でも家庭でも追い詰められたいま、ちがう意味で胸を衝き動かされているのも事実だ。なんでもいいからいまの苦境を忘れさせてほしい。逃避願望の表れだった。
「ご気分はだいじょうぶですか」ぼうっとしていたら、響子さんに心配されてしまった。「硫黄分が強いので湯あたりされる方もいらっしゃいます。体に膜が張ったみたいになって熱が逃げにくくなるのです」
「いえ、だいじょうぶです。でもお水をもらおうかな」エイジは手作りらしいベンチに腰をかける。
「いま持ってまいります」
カウンターに向かって踵を返した後ろ姿をエイジは見つめる。スリッパがパタパタと音をたて、白い靴下に包まれた小さな足の裏が体のなかの見てはならぬ部分のように目に突き刺さってきた。エイジは唾を飲みこむ。あれを脱がしたらどんなにかわいらしい足がのぞくのだろう。
とても冷えたやわらかな水だった。地元で採水しているという。
「石炭が採掘されていたころは、人も多かったですし、空気も水も悪かったそうです。でも皮肉なことに廃鉱になってからは、自然が元にもどってミネラルウォーターの採水もできるようになりました。いまでは重要な観光資源の一つです」
「昔は町があったんですよね」
「的場谷合という町で役場や小中学校、郵便局、それに市場もあったんですよ。人口は最盛期で四千人ぐらい。ほとんどが炭鉱夫の家族です。レトロパークのなかはもう歩かれましたか」
「ええ、あれこれ遊んできました」
「本当にあんな感じだったそうですよ。とてもにぎわっていた」
「でもちょっと怖そうなおにいさんたちもいましたけど」
「あんなところまで再現することもないとは思うのですが、昭和三十年代の炭鉱町なんて、みんなあんなもんだっていう話になりましてね。イベント会社の人が工夫してくれたんです。当時は東京から歌手や劇団を呼んでくることもあって、そういう興行となるとどうしたってあっち関係の人たちがかかわってきたようです」
「炭鉱夫とヤクザか。昭和の任侠映画みたいですね」
「まさにそうです。賭博場や置き屋もあったそうですから」
「まさかそういうのは……」
手を口元にあて響子さんはコロコロと軽やかに笑う。「さすがにそこまでは再現していませんからだいじょうぶです。だけど正直な話、一番にぎわったのはその手のお店なんでしょうね。荒くれ者たちばかりだったのでしょうから」
欲望の渦巻くゴールドラッシュのような町だったというわけだ。戦後十数年のころの話だ。人権感覚そのものの次元が異なっていた。まさに異次元空間のような世界だったのだろう。
「周辺の村々からの身売りはもちろん、吉原芸者が集団で連れて来させられたなんて話もあります」昭和の炭鉱町の光と影に改めて恐怖を覚えたように響子さんは両手で自分を抱きしめる。
「廃鉱になるまで何年ぐらい栄えていたんですか」
「昭和三十年に町ができて、四十五年に廃鉱となっています」
「ざっと十五年か。あっという間のような気もしますけど。その後、町の人たちはどうされたのでしょう」
「炭鉱夫はべつの炭鉱に移りましたけど、そうでない人たちは周辺の町や村に越していきましたね。うちもそうですよ。いまは隣町から通って来ています。ここができる前は茂利原駅前のビジネスホテルでフロント係をしておりました」なるほどフロントか。そう言われてぴたりとくる。ビジネス客を制服姿でてきぱきと出迎える姿が容易に想像できる。「三年前、ここができると聞いて転職したんです。車で片道四十分かかりますが、子どもも中学に上がるときだったので思いきって決断しました」
火照った頭にジュッと冷水をかけられた。ある意味、ミネラルウォーターなんかより頭がはっきりした。そりゃそうだ。この年代で独身であるわけがない。身勝手な想像をしていた自分がエイジは情けなかった。でもせめてバツイチの独り身ぐらいであってほしかった。開放的な行楽地を訪れた者たちのなかには、そんな妄想を抱く者もすくなくあるまい。もしかすると、この話は泊まりに来た男たち相手に話して聞かせるおなじみの防波堤なのかもしれない。
もう部屋にもどる頃合いだろう。一つだけエイジは訊ねてみた。
「西棟というのも宿泊できるのですか」
「西棟ですか……」響子さんは眉をひそめる。「あちらは改装中でしてね。東棟だけでもホテルとして十分対応できますもので。でもなにかございましたか?」
「いえ、西棟もあると聞いたものですから。改装中ということは立ち入り禁止とかですか」
「そういうわけではありません。一階から渡り廊下が延びています。ですが工事中で、資材とか道具とかが置きっぱなしですから」
「いやいや、そちらをのぞいてみようなんて思っていません。もう晩ご飯でしょうし」
そのときスマホが鳴った。ディスプレイを見て気分が重くなる。
音楽教室の運営会社からだった。
聞かずとも話はわかっていた。なのに向こうから一方的に告げてきた。生徒が十分に集まらなくて、九月以降、講座は休止せざるをえません。再開するさいは早めに連絡させていただきます――。
ずいぶん年下の女性スタッフが、これ以上ないというほど事務的な口調で伝えてきた。もう何人もの“講師”たちにおなじような電話をかけつづけているのだろう。中途半端に顔見知りだと食い下がられたり、ねじこまれたりするものだから、教室側もそのへんのところは心得ている。総務部長や講座のプロデューサーらには電話をかけさせず、下っ端の派遣社員に連絡させているのだ。彼女たちに文句をつけたところでらちがあかない。不満をくすぶらせたまま話を終えるほかない。でもメール一本ですまされるよりはまだましかもしれない。この先、こんな目に何度遭わねばならないのだろう。考えただけでこの世から消えてしまいたくなる。
「だいじょうぶですか」相当顔色が悪かったらしい。響子さんが心配してくれた。
「あ、いえ、へいきです。仕事の話でした。休み明けに片づければいいんです。きょうはゆっくり休むつもりです。夕食も楽しみですし」エイジは無理に微笑んで見せた。こんなことばっかりだ。いつだってカラ元気を振り絞っている。
「お食事は六時からですか」
「はい。もうおなか、ぺこぺこで」
「あと一時間ありますね」響子さんは色白の細腕にした時計に目をやる。「すこし早めることもできますが。よろしければわたしのほうから連絡しておきましょうか」
五時ちょうどだった。
「お気遣いありがとうございます。でもそれにはおよびません。部屋で娘と遊んでますから。ふだんあまりいっしょにいてやれないものですから」うそをついた。最近はエイジは家にいることのほうが多い。
「ごゆっくりしていってくださいね」ぱっと弾けたユリの花のような笑みを浮かべ、響子さんはエイジをエレベーターに送りだしてくれた。エイジは笑顔を取り繕うのがきつかった。
五
四階には上がらなかった。
一階で降り、フロントの前を通過して土産物コーナーに入る。そこで物色するふりをして渡り廊下を探す。フロントから離れたところにある缶ビールの自販機のわきだった。そこに「西棟」と記した自動ドアがある。たしかに工事中の札もさがっている。そんな場所に行ったところで、コンクリートが剥きだしのがらんとした部屋を眺めて終わるのがせいぜいだ。それとも部屋の端っこに大金を入れたバッグを隠してあるとでもいうのだろうか。なるほどそれならたしかに“景品”だ。
玄関がざわめいた。新しい団体客が到着し、スタッフがいっせいに集まって出迎える。動くならいまだった。
気配を消し、そしらぬふりをしてエイジは自販機のほうへ向かう。風呂上がり、食事前に部屋で一杯やる客だっているだろう。小銭を取りだすふりをして、フロントと玄関のほうへさっと目を走らせる。
いまだ。
エイジは自動ドアの前に立った。のろのろと開きだしたドアのすき間が三十センチほどにまで開いたとき、エイジはすばやくなかに体を滑りこませる。あとは早足で渡り廊下を進む。ひんやりとした空気が首筋をなでる。それもそのはずだ。屋根があるものの、廊下は屋外に設けられていた。渓谷の涼やかな水音とともに、動悸もみるみる高まる。十メートルほどの廊下を一気に駆け抜け、エイジは西棟の入口にたどり着く。学校の昇降口にありそうな鉄扉が開きっ放しになっていた。そこに迷わず飛びこむ。無鉄砲にも思えたが、本来の意味とはちがうが、旅の恥はかき捨てというではないか。それに旅先ならではのドキドキ感もある。もしかしたらこれ自体が、巧妙に練られたこのテーマパークのイベントなのかもしれない。だったら愉しまないでどうする。
急に水音が消え、しんとする。人気はない。夏休みなのだろうか。それともきょうの工事はとっくに終了したのか。元は炭鉱夫の家族がひしめく団地だったという。改装中らしきセメントと建材のにおいが漂うなか、目の前にまっすぐに延びる内廊下に踏みだす。廊下の右手に居室が並び、昔ながらの団地ならではの黄緑色の鉄扉で閉ざされている。手前から五戸目の「ホ号」はドアが開いていた。明かりは消えているが、カーテンのない窓から注ぐ夕陽の残照に照らされている。一度、スケルトン状態にまでもどし、そこからホテル仕様の部屋に作り直しているようだ。半分ぐらい工事が進み、場違いなほどこぎれいなユニットバスが玄関を入ってすぐの右手に鎮座していた。
ほかの部屋も似たような進捗状況だった。十二室並ぶ廊下の端まで進んだところに階段があった。こちらもコンクリート階段だが、まだら状に黒カビに浸蝕され、それが上のほうほどひどかった。工事は一階からはじめたばかりなのかもしれない。一度廊下を振り返り、誰にも見つかっていないことを確かめてから、浴衣の裾をまくり、エイジは階段を上がりだした。
二階に着くころには、スリッパは泥だらけ、というか考えるのもおぞましいくらいの黒カビが泥状になって、はだしの足にこびりついてきた。せっかく風呂に入ったのがこれでは台なしだ。
相変わらず人気はない。一階同様の廊下が延びている。おそらくおなじように十二室並んでいるのだろう。もはや工事特有のにおいより、カビ臭さのほうが増していた。この場で踵を返すのも手だが、それでは何のために来たのかわからない。いまのエイジに必要なのは新たな一歩を踏みだすことなのだ。妙な決意に駆られ、さらに上階を目指す。
三階の廊下は二階以上に薄暗かった。どの部屋のドアも閉じられ、西日が入らないのだ。エイジはおっかなびっくり進みだした。堆積したカビのせいで足もとは気持ち悪いったらない。カネでもなんでもいい。手に入れたらさっさともどって、もう一度、風呂に入るか。まだ時間はあるのだし。しかし半分ほど廊下を進むと、ふしぎなことにカビが減りだし、ひび割れたコンクリートの床が露出するようになった。水気もなく乾いている。どうやらカビの生育にふさわしくない環境らしい。
一つだけ玄関が半開きになった部屋があった。奥から三番目「ハ号」だ。扉に手をやり、そっと開いてみると、廊下に赤々とした残照が広がった。その向こうに畳敷きの部屋が見える。こちらはまだ部屋の解体自体がすんでいないようだ。というか、昭和そのもののしみったれた雰囲気だが、まだ誰か住んでいるのではと思わせるふしぎな生活感が漂っていた。なるほど。これなら米俵の一つでも置いてあったとしてもふしぎはない。しかしそれならどうしてこんな手のこんだ景品の渡し方をするのだ。ふと射的場のオヤジの声がよみがえる。
ぞんぶんに愉しむといい。なに、気にすることなんかないさね。あんまり欲はかかないで、そこそこにしてるぶんには問題ねえですから。ヒヒ……。
米俵であるわけがない。エイジはぞくりとした。ぞんぶんに愉しむもの……はっきり言って違法なものにちがいない。クスリ茶屋、いや賭博場でもあるのか。一瞬ひるんだが、ここまで来たら扉を開けないわけにいかない。どうせいまのおれには失うものなんて――。
芽以はどうする。
ここで手が後ろに回るわけにいかない。まだ四年生だ。それにここで下手を打って、晶代に芽以を取られるのも腹だたしい。だから冷静にそこになにがあるか確かめて、それからどうすべきか考えればいい。まだ誰にも見つかっていないのだし。
エイジは廊下をさらに進み、ついに一番端っこの「イ号」の前に立った。ビニールポーチを広げ、たばこといっしょに忍ばせておいた板鍵をつまみだした。
西棟三階イ号――。
キーリングのプレートにはそう記してある。この部屋だ。
五時カラ――。
プレートの裏にしっかり書いてある。エイジはスマホで時刻を確かめた。五時十五分だった。
あたりにいま一度目をやる。もちろん誰もいない。ネズミ一匹見あたらなかった。ごくりと唾を飲みくだし、エイジは丸いドアノブをつかみ、回してみる。
錠がかかっていた。
ドアのわきに呼び鈴がある。怖々とそこに指を這わせ、思いきって押してみる。
ここに侵入者がいることを告げる警報機さながらに一度だけ、耳障りな電気ベルの音が響く。ほかの部屋のドアがいっせいに開いてゾンビのような連中がこぼれ出てくるかと身構えたが、廊下はしんとしたままだった。もちろんイ号室のなかから誰か近づいてくるような気配もしない。
やはり改装中の廃墟なのだ。大きく息を吸いこんでから、おもむろに景品袋に入っていた鍵を穴に差し入れる。ぴたりと符合してするりと鍵は回転する。
こちらもおなじだ。ドアを引き開けるなり、とろりとした残照が廊下にこぼれ出る。赤々とした光のなかに浮かびあがったのは、白いレースのカーテンを引いた小ぎれいな和室だった。旅館のひと部屋といってもいいくらい整った印象で、ちゃぶ台のわきにふかふかの布団が敷いてあった。長押に掛けた赤いワンピースに目がいったとき、濃い甘やかな香りが鼻先をくすぐった。バラの香りだ。
女の部屋のようだった。
いつの間にかエイジは小さな玄関に入っていた。ドアから手を放すと自然と閉じ、背後でカチャリと小さな音を立てる。
エアコンが回っているかのように涼しかったが、どこを見ても空調設備のようなものは見あたらない。窓が開いているのかもしれない。
畳はたったいま拭いたみたいに清潔感を漂わせている。まるで客の来訪を待ち受けていたかのようだ。いや、もしかすると改装工事は虫食いで行われているのかもしれない。どう見ても廃墟の一室とは思えなかった。エイジは汚れたスリッパを脱ぎ、そっと部屋に足を踏み入れる。ちゃぶ台には、せんべいなどの菓子をのせたカゴと湯飲みに急須、茶筒が置かれ、部屋のわきにガスコンロのある小さな台所があった。しつらえはともかく、細かな備品の一つひとつがどう見ても時代がかっている。というか、現代的なにおいをさせるものが一つもなかった。
「おじゃまします」
腹に力を入れて呼びかけながら、エイジは部屋のなかを見て回る。玄関わきの木戸の向こうは洗面所で左側がトイレ、右側が風呂場だ。どちらも水色のタイル張りでほのかな塩素臭が漂っている。和式便器は年季こそ入っていたが、きれいに磨きあげられていた。ロールでなく四角いちり紙が積んである。
部屋はいまでいえばワンルームで十畳ほど。単身で暮らすにはちょうどいいサイズだが、家族持ちには狭い。しかし広々とした窓の向こうには、ホテルの部屋から見えたのとおなじ渓谷と緑深い森が一望できた。窓は閉まって錠がかかっている。
「こんにちは……景品があると聞いたのですが……」
自分の声がばかみたいに聞こえる。いったいここになにがあるというのだ。盗っ人さながらに押し入れを開けてみても布団がもう一組とタオルのたぐいが入っているだけだった。エイジはちゃぶ台わきの座布団に腰かける。まるで死体でも寝かせるようにきちんと敷かれた布団は真新しく、二つ並んだ枕のカバーもアイロンがかけてあった。ここに泊まっていってくれとでも言うのだろうか。しかしそれが景品だとしたらしょぼすぎる。
そう思ったときだった。びくりとしてエイジは短い悲鳴をあげ、四つん這いになった。
ノックがしたのだ。
だがそれはエイジを脅かすようでも、せかすようでもない。コツコツコツと三回、なかにいる者にひっそりと来訪を知らせるだけの控えめなようすだった。
さらに三回ノックが響き、エイジは立ちあがった。ホテルじゃないからのぞき穴はない。外に誰が来ているのか想像もつかない。景品配達業者か、それとも射的場のずるがしこいあのオヤジか。
コツコツ……。
こんどは鉄扉のこちら側に先客がいるのを確信し、合図を送るようなしっかりした響きだった。返事をすべきか迷う。魔物のたぐいがドアに張りついているようすが頭をよぎる。だがこれも余興の一つなのだ。なにをビビッているんだ。
「はい……」喉の奥からかすれ声を絞りだして応じてみる。
「すみません……」
女の声だった。
「開けておくんなさいまし」やや鼻にかかった若い声だった。「大当たりの方でいらっしゃいますね」
エイジは唾をのむ。そうか。景品を運んできたのだ。ここで豪勢な食事でもしろというのだろうか。いや、メシはまずい。部屋で芽以が待っている。
「いかがなさいますね」せっかくの景品を持ち帰るぞと言わんばかりに女は訊ねてくる。
「開いてますよ……カギはかかっていません」玄関に立ちつくしたまま、やっとのことで伝えることができた。
一拍おいてノブが目の前でゆっくりと回りはじめる。ドアが開いた途端、黒カビまみれの化け物に飛びかかられるさまがどうしても脳裏に浮かんでしまう。これが愚かな父親の最期なのか――。
響子さんだった。
いや、そうじゃない。ちがう女性だ。白地に藍色の草木模様が入った浴衣姿で、たったいま風呂からあがってきたかのように真っ黒の濡れ髪を結いあげている。響子さんと同年代だが、彼女より鼻筋がくっきりとして目に憂いがあった。入浴のせいなのか、気恥ずかしいのかわからないが、頬は桃色に染まっている。わずかなそばかすがかわいらしかった。
「入ってもよろしいですかね」女は許し乞うてエイジをじっと見あげてきた。
ふとここがそもそも彼女の部屋なのではないかという疑心に駆られる。勝手に入ったのはこっちのほうなのだ。「ええ……はい……」ろくに返事もできずにエイジはわきにどき、女が通れるすき間を作る。
女はすっと風のようにエイジの横を通って部屋にあがると、そのまま窓辺に進み、錠を外して窓を開ける。さわやかな川風が入ってきて涼しさが増す。蝉しぐれと清流の響きが部屋いっぱいに広がった。ちゃぶ台わきの座布団にそっと腰を下ろして正座し、たおやかに両手の指先を畳につく。
「いらっしゃいませ。サユリと申します」
呆けた顔で立ちつくすエイジに向かって顔をあげ、にっこりと微笑む。それでエイジのなかの緊張が解ける。
自分も腰を下ろし、怖々とエイジはあいさつを返す。「大当たりって……射的場のことですよね」
「はい、さようでございます」真後ろに敷かれた寝具のほうを振り返り、そっと掛け布団を半分ほどめくりあげる。シーツは洗いたてらしく、つるつるに糊がきいている。
「カギが入っていたんです。それで部屋番号を頼りにこちらに来たのですが……正直、驚きました。とても古い……というか改装中の建物のなかにこんな部屋があるなんて」
しっとりとしたタイプの落ち着いた女性だが、くすりと口もとに笑みを浮かべると、たまらなくかわいらしい。「大当たりの方にしか教えていなくて。ゆっくりしていってくださいな」サユリさんは慣れた手つきで茶を淹れはじめる。
ゆっくりってまさか食事でも出てくるのか。焼き魚に煮物……昭和の典型的な家庭の夕餉が。そう思った途端、芽以のことが気になる。早く帰らないと。
そのときぞくりとする。
緑茶を注いだ湯飲みを差しだそうと体を前に屈めるなり、きゃしゃなわりに豊かな乳房の全体が露わになったのだ。しかもノーブラだった。ツンと立った乳首は浴衣のうえからもはっきりとわかる。彼女も緊張しているのだろうか。
たまらずエイジはビニールポーチからたばことライターを取りだす。するとどこからともなくガラスの灰皿が目の前に現れる。
茶菓子もすすめる。「どうぞ一服ついて、めしあがってくれますかね。おいしいですよ。地元の餅菓子さね」
エイジは震える手でたばこに火をつけ、気持ちを落ち着かせてから彼女の説明を待った。大当たり、景品、離れの小部屋、そして浴衣の美女。いやでも目に入るのは敷かれたままの布団だ。枕は二つ――。
「的場にはおひとりで?」当たり前のように訊ねてくる。
「いや……」エイジのなかで娘の姿がぐるぐると回る。「というわけでも――」
「そうですかね。でもここでは気になさらず、ゆっくりしていってくださいな。なに、誰も余計なことは言わんさね。好きに遊んでいってくださいな」
遊んで――。
湯飲みに手を伸ばしながらちらりと彼女の顔をのぞきこむ。潤んだ瞳で見つめ返された。化粧はほとんどしていない。すっきりとして清潔な印象の女性だった。
「景品というのは……」
「いいんですよ、お好きになさってくださいましよ。うちはお風呂はもう入っておるさね。あんさんもお入りになるんなら、お湯を沸かしますさね」
「いや……お風呂はさっきホテルのほうで……あがったばかりなんです」
「ほうですかい。いいお湯でしょう、ここの温泉は」
「ええ、たしかに」灰皿にたばこを押しつけてから残りの茶をすする。「とても気持ちよかったです」そのとき足が泥、というか黒カビまみれなのに気付き、あわててエイジはあぐらを引っこめ、浴衣の裾で隠した。
「的当てがじょうずなんね」
エイジは肩をすくめる。「昔、野球をしていただけです」
「野球かあ。うちも好きさね。見るほうですけどね。でもあの的当てはとても難しいさね。決して倒れない子どもだとか」
「はい、たしかにそうでした。だからこっちもむきになっちゃって」
サユリさんは小さくため息をつく。「大当たりの方はめったにおらんね。あんさん、すごいさね。だからゆっくり愉しんでいくといいさね」
全身に鳥肌が立った。
サユリさんがすっと手をのばし、エイジの太ももをなでてきた。さらに前屈みになったぶん、ゴムまりのような二つの胸が浴衣のなかであらためて露出して目の前で揺れる。こっちがどぎまぎしていることなど、サユリさんは気にとめない。正座を崩すと、わなわなと震えるエイジの右手をそっと握り、そのまま露わになった胸の谷間に押し入れた。
「あの子を倒すなんて、ほんてすごい人さね、あんさん」
体じゅうの血液がぶくぶくと沸きたつ。頭のなかもかっと熱くなるが、それでいて真っ白なままでなにも考えられない。こんなのははじめてだった。
「さあ、たっぷり愉しんでいくといいさね。あんさんが悦んでくれないと、うちも困るさね」谷間のさらに奥へとサユリさんはエイジを導く。これまでただの一度も触れたことのないすべすべとしたマシュマロのような感触だった。そのまま体を後ろに傾け、エイジの手を握ったまま、まるで気が遠くなったように目を閉じたまま布団に倒れこむ。
たまらずエイジはそちらに引っ張られ、サユリさんの上で四つん這いになる。左手はシーツの上、右手はいつしか片方の乳房をぎゅっと指を広げてつかんでいた。
サユリさんは小さくあえぐ。「うちが景品さね。さあ、お好きにするさね……」目を閉じたまま、吐息とともにささやく。エイジの右手から手が放れ、両手を無防備に左右に広げる。「したい放題でいいさね。お好きにするさね」まるで人形のようだが、閉じた目の奥にかすかな緊張が走るのがわかる。
新しいスマホをいじる芽以の姿が頭をよぎる。だがせっかくの旅行をドタキャンした中年女がどこかのバーで見知らぬ男と酔っぱらってゲラゲラ笑っているようすが、娘の姿をかき消す。あいつにくらべたら、こっちはたいしたことないぞ。ただの景品じゃないか。おれはそれをあたえられ、断るわけにもいかない。
刹那だ。
「あぅ……」サユリさんがうめきだす。エイジの右手は柔らかな胸をもみしだき、薬指の腹が木の実のように硬くなった乳首を弄んでいた。
あとは自分を抑えられなかった。浴衣の胸元を両手で乱暴に開き、そのまま顔をうずめた。何年ぶりだろうか。高まる甘やかな香りに卒倒しそうになりながら、エイジは赤子のようにむしゃぶりついた。こらえきれずにサユリさんは手の甲を口元にあて、前歯で皮を噛んで声を押し殺す。
エイジの右手はそのままわき腹を通過し、くびれた腰、そして豊満な尻を撫でまわす。こちらも信じがたい柔らかさだ。それで気付く。下着をつけていない。浴衣の下は生まれたままの姿だったのだ。欲に衝かれた指先がついに陰毛をかき分ける。サユリさんの太ももがそっと開き、指は難なくなかに導かれる。もはや驚くほど濡れている。もうエイジは息がつけぬほど硬くなっていた。じっくり愉しみたい気持ち半分、しかしこれが夢なら覚める前にすまさないと……。ぬるぬるした蜜壺で溺れる指を志半ばで引き抜くなり、彼女の脚を大きく開き、自分の帯を解く間も惜しんでそのままのしかかる。サユリさんはたまらずあえぐ。
そのときだった。
玄関の呼び鈴が鳴った。まるで警報のように立てつづけに何度も鳴り渡り、つづいて狂ったようにノックが繰り返される。
「なんだよ……」
あわてて立ちあがり、浴衣の前をはだけたままエイジは玄関に急ぐ。いったいなにが起こったのか見当もつかない。まさかホテルのサービスでビールと軽食でも運んできたのだろうか。いや、そんなわけはない。ここに来ているなんて誰が知る。それに激しいノックは、なかにいる者の動きを無理にでもとめようとする敵意が感じられた。
玄関の前に立つなり、ノックがやんだ。
こっちに気付いたのだろうか。ドアにのぞき穴がないから確かめようがない。スリッパをつっかけ、顔を近づけても物音がしない。逃げたのなら足音がしそうだが、それもしない。エイジはノブを握りしめる。いったい何者だろう。この部屋でときどき繰り広げられる秘め事を不愉快に思っている隣近所か。いや、すくなくともここにはいまは誰も住んでいないはずだ。“景品”についてほかに知っているものといえば、もちろんあの的当て屋のオヤジがいるが、例の客引き役の連中やほかの店、それにホテルの従業員たちだって薄々知っているのだろう。それで冷やかしに来たのか。まったく底意地の悪い連中だ。
ノブを回し、思いきってドアを押し開ける。三十センチほどできたすき間から、恐るおそる顔をのぞかせてみるが誰もいない。これじゃ、子どものピンポンダッシュと変わらないじゃないか……と思ってさらにドアを開けたとき、下のほうでごつりとなにかにぶつかった。
エイジはヒッと息をのむ。ひと目でわかった。でもなぜここに――。
木彫りの人形だった。
ドアにぶつかって倒れ、じっとエイジのことを見あげている。例のふんどし姿の子どもだ。的当て屋でそれを手に取ったときの気色の悪さがよみがえる。それに指先に走ったあの疼痛……おれに噛みついてきたのだ。
誰かが置いていったのだろうか。でも足音一つ聞こえなかった。ということはまさか――。
沸きあがる恐怖にエイジはあっという間に現実に引きもどされた。芽以のことが急に心配になってきた。
もう振り返りもしなかった。エイジはそのまま外に飛びだし、一目散に廊下をかけもどった。
六
上野駅からの特急は予定通り十七時三十九分に茂利原駅に到着した。
書類とパソコンで膨らみきったキャリーバッグを転がしながら真須田晶代は改札を抜け、コンコースに貼りだされた観光案内図で確かめてみる。しかし地図が古いらしく、レトロパーク的場のことは出ていなかった。やむなくスマホをたたき、グーグルマップで場所を確認する。どうあってもタクシーを使うほかなかったが、この手の田舎駅の常でタクシー乗り場には一台も待っていなかった。
芽以にはさっきLINEを送っといたけど、既読にもならない。エイジに連絡するのは気が進まなかった。
ドタキャンなんてありえないでしょ。
目も合わさず蔑むように吐き捨てた。ありえないのはわかってる。でも仕事なんだから。ほったらかしにできるわけないでしょ。もうすこし冷静に考えてほしい。夫婦共働きのようだが、エイジのほうはじっさいアルバイトのようなもので安定していない。だったら自分がちゃんとした収入を稼ぎださないことにははじまらないじゃない。わたしまで下手なことをして干上がってしまったらどうするの。
晶代の実家は、仙台で代々味噌造りをつづけている。地元の名士であり、それなりの資産家だ。だから両親を頼るのは造作ないことだったが、それだとエイジの肩身が狭くなる。晶代がワークホリックのように働くのは、それが大きな理由だった。
でもどうだろう。
やっぱり要は芽以がいるからにほかならなかった。最近では父親ばかりか母親までもが、芽以を連れて仙台で暮らさないかと持ちかけてくる。エイジの仕事が不安定なのは伝えていた。そこに付けこむようにして両親は幾度となくささやいてきていた。父親よりも母親のほうが大胆だった。堂々と「離婚」の二文字を口に出し、早いところ見切りをつけたほうがおたがいのためだと説得を試みてきている。とはいえ、晶代だって本当に仙台で暮らすとなれば、いまの仕事は辞めねばならない。それに見合うだけの収入が得られる職が見つかるかどうか保証はない。家業のほうは正式には兄が継いでいるし、味噌造りなんて興味もないから、せいぜい家の仕事でやれるとしたら、事務作業ぐらいだろう。エイジといまの仕事を失う代償がそれだとすると、ちょっとさびしい気もする。芽以だっていまの学校を転校するのはイヤだろうし、あの子はわたしなんか以上に東京っ子だ。
そもそもだ。
べつにエイジが心底嫌いになったわけじゃないんだよね。
晶代は自分に言い聞かせるように改めて思った。ただ、わたしはいまの仕事がいい感じで回っているし、収入もあがっている。うまくいけば、いろいろなプロジェクトが想定以上の成果を残してくれそうだった。だからいまの好機を逃したくない。それはエイジだって理解できる話のはずだ。ところがだ。男って生きものは、どうしても女子どもを自力で養わないとパニックに陥るらしい。いくらこっちが理性的に話を進めようとしても、すぐにカッとなって怒鳴り散らす。いつだって話はそこでおしまいだ。そういうのってものすごいストレスなんだよね。そのあたりのすれちがいが、最近はかなり大きな問題になってきた。だけどまだポイント・オブ・ノー・リターンではない。彼の仕事さえ安定してくれれば、いろんな問題が自然と片付くはずだ。
タクシー会社の事務所なら駅前ロータリーのすぐわきにあった。そこで一台、呼んでもらうしかないか。
「なかで待っててくださいな。四十分ぐらいかかりますから」
カウンターの向こうに一人だけ残っていた太ったおばちゃんが、有線電話の受話器を置くなり、にっこり微笑んで晶代に告げる。エアコンがぜえぜえとあえぐような音を立てながらかろうじて回っていた。たいして涼しくはない。
「四十分ですか?」
「たったいま出たばかりでなあ。土曜だし、もうこの時間だと車がすくなくて。すんませんなあ。いま、お茶も出しますから」
「ほかにバスとかってありますか」
ないとわかっていながら聞かずにいられなかった。頭のとろい大人を相手にするように、おばちゃんはゆっくりとかぶりを振った。
選択肢はほかになさそうだった。「待つなら外で待ってますからだいじょうぶです。ちょっとあちこち電話を入れないといけないですから」
「そうですかね。ほいじゃあ、たいして見るところはありませんが、このすぐ先に神社がありますさね。足を運んでみるといいですよ。夜でも明かりがついてますし、まだ社務所も人がいますから」
きょう最後の残照が西の地平線上空を赤々と彩っていた。地平線が見えること自体、東京ではありえない。蒸し暑さのなかにもどり、晶代はふらふらと歩きだした。べつに電話するところなんてない。適当に言っただけだ。だってあんなところに四十分もいたら、どう考えても退屈極まりないこの界隈の世間話に付き合わないといけなくなる。もうそれだけできょう一日の残りの体力を消耗してしまいそうだった。カフェかファミレスのたぐいを探してみたが、ミスドさえ見つからない。
行く当てがあったわけではないが、いつしか神社の前に来ていた。参道に並ぶ提灯が赤々と灯りだしている。どの提灯にも「的場権現」と朱書きされている。おばちゃんが言っていたのはここか。晶代は参道の前でお辞儀してから敷地に足を踏み入れる。
ほかに何人か参拝客がいた。自分よりずっと年上の女性たちのグループだ。パンフレットを広げているところを見ると、観光客らしい。こんなさびれた町に物見遊山にやって来る人なんているんだ。感心しながら晶代はお賽銭を投げ、柏手を打った。
社務所では、お守りや護符も売っていた。先客たちはそこにひしめいている。晶代ものぞいてみた。お守りは一番安いやつが千二百円。あきらかに暴利だった。でもおみじくは対照的に100円と良心的だった。女性グループもすばやく値札を読み取ったらしく、代金を支払ったのはおみくじだけだった。じゃらじゃらと箱を振って出てきた竹べらの番号をバイトの巫女さんに告げ、番号のついた引きだしから大げさな託宣を記した紙を一枚取ってもらう全国共通のアナログ・システムだ。
「うわっ! 大吉!」
子どものようなはしゃぎ声があがる。百円でこんなにいい気分にさせてくれるなら、自分もやってみよう。お守りを物色するふりをしながら、一団がその場から消えるのを待ち、満を持して晶代はおみくじを引いた。
それを見て巫女さんがちらりと晶代の顔をうかがう。日がな一日、そこに座っているから、何番が良くて、何番が悲惨か、高校の中間テストさながらに暗記してしまっているのだ。
凶だった。
もう一度チャレンジしたい衝動を必死にこらえ、殴られずとも、罵声ぐらいは浴びせられるのではないかとびくつく巫女もどきの前からそそくさと立ち去った。
凶っていうのは、いろいろなことに気を付けましょうという励ましだ。自分に言い聞かせ、灯ったばかりの水銀灯の下で改めて読んでみる。
近しい人の安否注意。
唇を噛みしめると、昼に食べたシナモンロールの味が口のなかによみがえった。だがこの気分の悪さはなんだ。晶代はおみくじを木の枝に結ぶこともせず、参道のゴミ箱に投げ捨てて逃げるように神社を後にした。タクシーがもどって来るまでまだ三十分以上あった。駅前にたしかベンチがあったはずだ。そこで時間をつぶそう。
「あんなもん、引いたって何の慰めにもならんさね」
いきなり声をかけられた。
暗がりに男の人が立っている。警官だ。おみくじを捨てるのを見られたようだ。しかしゴミ箱に捨てたのだし、違法なことはしていない。
「百円の運だめし、遊びさね。だから気にすることなんか、ぜんぜんないさね」
暗がりから一歩踏みだしてくる。定年間近かシニア雇用か、しわくちゃの人懐っこい顔が白々とした明かりに浮かびあがる。
肩をすくめ、晶代は返事をする。「そうですよね、百円ですからね。そんなんじゃ運は買えない」
「いまの特急でいらしたのかね」
何時に特急が着くなんてぜんぶ頭に入っているのだろう。それでタクシーを予約していなかった人々がどこで時間をつぶすかもインプットされているというわけだ。しかしこんなところに来る観光客を監視したところで、テロリストが見つかるわけでもあるまいに。
「ええ、そうなんです。タクシーが来るまで時間があるものでして」
「東京の方かね」
「ええ、まあ」
うれしそうに微笑み、警官は一歩近づく。「どこへお行きなさるさね」
並んで立つと晶代よりずいぶんと小柄だ。それに痩せている。まるで棒切れのようだった。
「レトロパーク的場ってごぞんじですか。駅の案内図にはなかったんですけど」
「そりゃ、知っとるさね。三年前にできた遊園地さね」
「遊園地なんですか?」
「いや、ちがうかな……なんていうか……」
「テーマパーク?」
「そうさね。それさね。うちの町の観光資源さね。しかしなあ、車で一時間ぐらいかかるんよ。だいじょうぶかね」
タクシーで一時間か。そこまでは考えていなかった。こりゃ、相当取られそうだぞ。やっぱり追っかけてなんて来なければよかった。こういうところで意地を張るのが晶代のよくないところだ。要は腹がすわっていないのだ。
「タクシーが来るの待っていたら、向こうに着くのが八時ぐらいになってしまうさね。よかったら乗っていかんかね」
「乗っていくって……?」
「いまからパトロールさね。的場のほうへも行くさね。前にも連れて行ったことがあってな。料金なんて取らんから心配せんでいい。あんたがタクシーを待ちきれずにふらふらと夜道に歩きだして、事故にでもあったらかわいそうだからな。それにわしもきょうはもう余計な仕事はしたくないさね。あとひと回りしたら、駐在所は閉店さね。あとは、うちでうまい酒を飲むつもりさね」
そう言うと老警官は神社の隣にひっそりとたたずむ駐在所に手を広げた。




