一~三
一
目的地までGPSではあと一キロもない。
それなのに、実りのいいトウモロコシ畑が県道沿いに延々とつづくだけだった。
「ぜんぜん着かないじゃん」助手席で芽以が大きなため息をつく。わざとらしく非難してくるところは母親そっくりだ。
「待てよ。もうすぐだって」真須田エイジは夕陽に照らされる道とGPSにせわしなく目をやりながらつぶやく。無性にたばこが吸いたかったが、芽以の前では吸わないときめている、というかきめられている。
「ママだったらインター下りたところでちゃんと調べてるって」
「ママは来なかったんだからしょうがないだろ」
「だからやめればよかったのに。意地なんか張らないで」
「なに言ってんだ」かっとなるのをエイジは必死にこらえる。
「だってそうじゃない。無理に旅行なんて来なくてもよかったんだし」
「温泉行きたいって言ってたじゃないか」
「パパが行きたそうにしてるから、話合わせただけじゃない。あたしは温泉なんて行かないでもよかったんだけど」
「よしなさい、そういう言い方は」
芽以は黙りこんだ。しかしスマホに没頭するふりをしながら役だたずの父親をあきらかに非難している。こんなところばかり晶代に似てきている。まだ十歳だが、この先どんどんあいつみたいになったらと思うと、エイジはぞっとした。晶代はなにか起きるとここぞとばかりにいやみったらしく責めたててくる。それでいて自分のことは棚にあげて、都合よく“友だち”と飲み歩く。今回だってそうだ。まちがいない。思いこみが激しいのがエイジのよくないところなのだが、人の脳細胞なんて四十年以上使っていると、誰だってガタがくる。エイジばかり責めるわけにもいかない。それに晶代がエイジに愛想を尽かしはじめているのも事実なのだし。カマキリのメスは最後にオスを喰らうが、ヒトのメスはとっととほかに乗りかえる。どっちに情があるかといえば、カマキリのほうだろう。
エイジは道路に気持ちをもどした。およそこの場にはふさわしくないことでくさくさしているひまはないのだ。幻想的な夕焼けの広がる印象絵画のような光景が広がるが、ぐずぐずしていたら暗くなる。いくら真夏でも、こんなところで野宿なんてごめんだった。食糧だってなにも持って来ていないし、なにより温泉につかって日ごろの憂さを晴らすことこそが今回の遠出の目的だった。
ラジオでは、エイジのレコード会社から売りだした男女のデュオが田舎の景色にふさわしいのんびりとした歌を歌っている。しかしそれを口ずさめる気分じゃない。おなじところをぐるぐると巡っているのではないか。どれほど鈍い男でも察しがつきそうな事態となっている。人一倍、神経質なエイジは急速に不安に駆られ、胸がばくばくしだしていた。こういうときに冷静になれれば、会社でだってうまくいくはずなのだが、それがエイジにはできない。そのへんのところを晶代にも見透かされているのが悔しくてならない。エイジは元はミュージシャンだ。その神経回路は、人の気持ちを揺さぶるメロディーを生みだすのにふさわしく非常に繊細に編まれてはいるが、逆にままならぬ現実を乗りきるには脆すぎる。
バックミラーにバイクが出現した。
警察だ。といっても白バイなんかじゃない。スーパーカブだ。本能的にエイジは身をこわばらせる。子どものころから警察にはいい思い出がない。なにもしていないのによく職質された。高校時代は野球部のユニフォームを着ているというだけの理由で、下校中にしばしば呼びとめられた。ワルだったのは先輩たちの学年だというのに。そんなとき知らぬ間に背後から忍び寄ってくるのがカブだった。
夜中、会社から離れた場所にあるレコード倉庫から出てきたときにも、カタカタと乾いたエンジンの音をさせて近づいてきた。「ずいぶんと大荷物なことですね」昔の音源をあさって大量のEP盤で膨らんだ紙袋を抱えてきたのが、まるで事務所荒らしでもしてきたように見えたらしい。憤怒に駆られたが、そういうときはいつでもエイジはどもってしまう。それがまた、おどおどしているように見えてやつらのギアが入るきっかけとなった。
だが今回は停車を指示されたわけでなかった。わらにもすがる思いで自分のほうから路肩で停車する。ところがカブは気にもとめずに行ってしまう。あわててヘッドライトでパッシングシグナルを送ったが、バイクはとまらない。警察なんてやっぱり必要なときには役立たずなんだ。舌打ちしたとき、百メートルほど先で、まるで昼下がりのカフェにでも立ち寄るかのようにゆったりと優雅な感じでとまった。本当にその場で一服やりそうな雰囲気だった。しかしおもむろにUターンしてこちらにもどって来る。それもまたのろのろと。新車に買い替えてもらえぬまま酷使した結果、エンジンが断末魔の悲鳴をあげて出力がそれ以上出ないかのようだった。
「どうされたね」
ヘルメットをかぶっていたのは、初老の男だった。いたずら坊主を呼びとめた校長先生のような、やれやれという疲れた笑みを目に浮かべ、窓を開けたままの運転席をのぞきこんできた。
「レトロパーク的場に行きたいんですが」
すると不謹慎な言葉でも吐かれたような驚いた顔になり、車内そして助手席の芽以のほうをぐるりと見やった。「長いこと駐在しとるが、あんた、見ない顔さね。東京から来なさったんか」職業柄、すばやくナンバープレートを見たらしい。やましいところなんてなにもないが、尻の穴がひきつる。シャツの胸ポケットのタバコが気になる。もう中学生じゃないっていうのに。
「ええ、ずっと運転しどおしで。そろそろ着くと思うのですが」
「そうさな、すぐ近くさね。けど、あんたまた、どうしてあそこに」
「ネットで見ましてね。いま評判だっていうから」
「評判……? さあて、ほうなのかねえ。わしにはよくわからんけれど」
「あたしはもっとちがうところがいいって言ったの」ふいに芽以が声をあげる。「ディズニーランドとか。そっちのほうが絶対近いし」
「そうさね」駐在さんは芽以に話しかける。「おじさんもそう思うよ。若い人にはあんまり向かないさね」
「ほらみなさいよ、パパ。お巡りさんが言うんだからまちがいないわよ。いまからもどれば、ふつうに家で晩ご飯食べられるよ。ファミレス行ってもいいし、ママも呼んで」
「近いんですよね」エイジは話を元にもどす。「GPSだと――」ディスプレイを指さしながら駐在警官に不満をしめす。
「畑の向こうさね」駐在さんは革手袋をした手をトウモロコシ畑のほうに小さく広げ、ため息混じりに言う。「みんな、よく迷うんよ。曲がり道がわかりづらくてな。前は看板が出とったんだが、去年の台風で吹き飛ばされてしまった。ずっとそのままなんよ。それもどうかと思うがな」
「どのあたりで曲がればいいのですか」
「この先さね。ついて来るといい。教えてあげるさね」
「ありがとうございます」ようやくエイジはほっとした。だが芽以はむすっとしてまた黙りこくった。父親に軍配があがったのが気に入らないのだろう。年を追うごとに娘のあつかいが厄介になる。こっちの愛情が強すぎるのだろうか。それともそれはたんなる支配欲なのか。しかし結果的に振り回されるのはいつもこっちだ。どこの家でもそうだろうが、やつらの前で親の自我は存在しない。己の道なんて子どもが生まれた瞬間に捨て去ったも同然だ。でなけりゃ毒親になるしかない。
笑い話さながらだった。二百メートルも行かぬうちにカブがウィンカーを出して停車した。そこから左に小径が延びている。車一台がようやく通れるほどだが一応、舗装されていた。何度もその前を通ったはずなのに見落としてしまっていた。というか、たしかに看板かなにかが出ていなければ気付くわけがない。
「なあ、あんた」暑さに頭がゆであがったらしく、駐在さんはバイクにまたがったままヘルメットを脱ぎ、小わきに抱えた。飴色に焼けた腕は骨ばっていてまるで棒切れのようだし、頭頂部は禿げあがり、もやしのひげのような毛の束が耳のあたりにわずかに残っているだけだった。まるで平家の落ち武者だ。「お泊まりなのかね」
「はい、ホテルの予約は取ってあります」
「ホテル?」
「昭和の団地を改装したホテルらしいんです」
「ああ、炭鉱夫の団地かね」
「ごぞんじですか。どんなところですかね」
「さあて……」駐在さんはカラスでも探すように暮れなずむ空を見あげ、それから生い茂るトウモロコシの緑に一瞬、厳しい目を向けた。「ほな、お気を付けて」それだけ告げると、まるで何事もなかったかのようにバイクで走り去った。
二
五分も走らずにそれらしき場所に到着した。いつの間にかトウモロコシ畑はすっかり消え、田舎によく見られる狭い道の両脇にへばりつくように家々がつづく町が現れた。昔ながらの懐かしい風情の漂う町並みなんて、いまじゃめったにお目にかかれない。過度の一極集中の結果、ほとんどの田舎が限界集落と変わらなくなっている。
ここはちがった。
エイジは思わずハンドルから身を乗りだした。かつての温泉街の雰囲気が運転していても伝わってきて、子どものころの記憶がよみがえったのだ。湯煙のなか、車どうしが行き交うのがやっとの道の左右に軒を連ねているのは、数々の土産物屋や食堂、居酒屋、診療所、それにボウリング場や外湯、指圧処もあった。そこにおおむね浴衣姿の老若男女がエイジの車なんかに気兼ねすることなく、道いっぱいに広がっていたのだ。
どこからともなく流れてきた演歌を耳にするなり、芽以が泣きだしそうな声をあげた。「ちょっとマジにダサすぎない?」
エイジは娘のほうをいちべつすることもなく、穏やかな口調で告げる。「ヤバいよね。けどレトロパークだから。昭和レトロさ」
「ねえ、さっきの駐在さんも言ってたじゃん。帰ろうよぉ。こんなところにいたら気が狂っちゃうよ。絶対おかしくなる」
昭和といってもレトロパーク的場が再現しているのは、三十~四十年代だ。しかも場所は炭鉱町だ。三十年代前半から高度成長期にかけて、的場鉱山は全国有数の出炭量を誇り、そこで働く鉱夫たちが暮らしていたのがこの的場谷合の町だった。二つの鉱山に挟まれた谷にできたことからその名が付けられたのだが、渓谷沿いの風光明媚な場所で、羽振りのよかった時代、鉱夫たちにとっては桃源郷のような場所だったとネットでは説明されている。
ご多分に漏れず、その後急速に衰退し、廃鉱と同時に逃げるように町から人がいなくなったのだが、管轄自治体である茂利原市が民間の力を借りて往時の町をテーマパークとしてよみがえらせた。それがレトロパーク的場だった。
「ねえ、駅前のアパとかでいいじゃん。温泉もついてるみだいよ」必死にスマホで検索しながら芽以が訴える。
「だいじょうぶだって。ホテルはなかはきれいだって話だし、温泉なら絶対こっちのほうがいい。泉質なら調べてきた。露天風呂もいいぞ。川面をわたる風が気持ちいいはずだ」
「だけど、しみったれてない? 古っ臭いよ」芽以がそう感じるのも無理はない。こんな子どもの感覚に“懐かしさ”なんてそもそも存在しない。ぴかぴか光り輝く新しいもの、それしか目に入らないのだ。「どうしてこんなところに来ようなんて思ったのよ」
「ネットで評判だったんだよ」
「フェイクニュースなんじゃないの」
「そんなことないって。いろいろ調べたんだから。古めかしいのは、レトロパークなんだからしかたないさ。そういうところなんだから。歩いてみればわかるって、木のぬくもりが感じられる。パパが子どものころの温泉街なんて、みんなこんなものだった。まあ、一泊だからいいだろ。愉しまなきゃ損だよ。食事もおいしいって話だ」
「ケンタとかでいいよぉ。そっちのほうが絶対安いって。その後、うちに帰っても夜中には着くじゃん」
それでどうする? 泥酔して午前様になって帰宅した晶代をしらふでお出迎えしろっていうのか。そんな胸くその悪いことはない。当初予定した通りに物事を進め、すべて予定通りこなしてからでないと帰るわけにいかない。芽以が泣こうが叫ぼうがこれだけは変更不可だ。それはエイジにとって意地の問題だった。晶代はどこ吹く風という態度を見せているが、夫婦関係はまちがいなくデッドロックとなっている。すくなくともエイジのほうはもはや改善意欲を失っている。このまま疲れ果てて擦り切れるまで意地を張りつづけるしかなくてもかまわない。やつのやってることをこっちから認めるつもりはさらさらなかった。
「うわ、アンテナ、一本しか立たなくなってきた!」芽以はスマホを狂ったように振り回す。
「それも風情だって。昔はそんなもんなかったんだし。タイムスリップしたと思えばいい」
「ママに文句言ってやろうって思ったのに。一人ばっかし、脱走して」
「まあ、たしかにそうだよな」
きょうにかぎったことでないが、あいつからはメールの一本も入らない。忙しいのだろう。でもそれは本当に仕事なのか。いまごろどこでなにをしているか考えると腹が立った。きのうの夜になってドタキャンしてきたのだ。
「ダメ、急な仕事が入っちゃった。これ、逃すわけにいかないの」晶代は広告代理店の営業課長だ。身売りを繰り返すレコード会社を解雇され、やっとのことで系列の音楽教室の非常勤講師に転がりこんだものの日々、講座終了の電話にびくびくする夫とは、忙しさの度合いがちがう。そもそも傍から見たら輝いている。スーツ姿がさまになっているし。だから仕事の延長のお付き合いの時間も相当だ。コロナ明けのいま、それが増えてきた。でもそういうのもたいがいがいい。エイジは静かに怒りをたぎらせいた。
きのうだってそうだ。スマホから漏れてきたのは男の声だった。それでひと言「だいじょうぶよ」とタメ口で告げたのだ。相手が何者か察しはつく。家でもしばしば話題になるクライアントの宣伝部長だ。よく飲みに行き、あの店がいいとか、あれがおいしかったとか、聞きたくもないのに弁解がましくいちいち夫に報告してくる。
家計をささえてくれているのは事実だ。だからって家族三人、せっかくの夏休みの旅行に不参加を表明するほどの事情ってなんだ。いまは働き方改革の時代なんだし。でもそんなような理由を持ちださないと、妻を振り向かせられない自分ってなんなんだ。
幻滅に頭がくらくらするのをこらえ、そろそろと車を進めると、右手にくすんだ灰色の団地のような建物が現れた。鉱夫たちが家族とともに暮らした「的場住宅」のたたずまいを再現したホテルだ。当時としてはモダンで文化的な生活空間だったのだろうが、レトロ感を醸しだすためにあえてそれが寂れだした時分の外観にしたのだろう。再開発前、ここは息もつけぬほど生い茂る雑草のなかに取り残された廃墟だったという。それらをすっかり刈り取り、ゼロから造りなおしたのがこのテーマパークだ。雰囲気だけは往時をしのばせるが、じっさいにはなにからなにまで令和製。地面の下には電線や光回線が張り巡らされ、空中にはWi-Fiが飛びかっている。
ロビーもフロントも昭和の温泉地にありがちな赤を基調とした内装で、ソファやローテーブルの具合もやたらと大ぶりで重厚なタイプのものが並んでいる。スタッフは全員、着物か作務衣姿だ。現代につながっているのは、帯に挟んだスマホか小わきに抱えたタブレット端末ぐらいだった。
部屋は東棟の四〇二号室。見た目の古臭さとは大違いの高速エレベーターでさっと四階に到着し、臙脂色の絨毯が敷き詰められた廊下を幾度か曲がって到着した部屋は、十五畳ほどの広々とした真新しい和室だった。これで一人一泊二食付きで一万円を切っているのだから悪くない。伊豆なんかに行けば、もっと古びた黴臭い宿で三万ぐらい取られるところはざらだ。
窓辺にはかつての旅館では標準仕様だった障子で仕切る細長いカーペット敷きの次の間があった。そこに置かれているのは、二脚のいすとその間の小テーブル、そしてなんといっても小さな冷蔵庫。これだ。エイジは子どものころを思いだした。といってもエイジは昭和五十四年生まれ。家族旅行の思い出があるのは、ほとんど昭和の末期だったが、それでも滞在した旅館には、こんな感じの小部屋が付いていた。
ためしに冷蔵庫を開けてみると、予想したとおり、昔ながらの瓶入りジュースや復刻ラベルのビールの小瓶、それに子どものころは謎でしなかったマムシエキス入りドリングもちゃんとドアポケットに収納されていた。
きれいに磨かれた窓の向こうは、渓谷を挟んだ緑の森だった。そちらには吊り橋を渡ってハイキングができるらしい。
「マジにしみったれてるわ」部屋のあちこちを点検しながら芽以はまたしても文句をたれる。しかしじっさいにはめずらしい仕様にすこしは興味を持ってくれたようだ。「これならいっそ、江戸時代まで巻きもどして忍者屋敷とかにしちゃったほうがよかったのに。アニメっぽい感じにして」
「いいね、それ。ウケるかもな」
「ガイジンが好きそうじゃない、そういうの」
「円安だし、意外ともうかるかもな」
「やってみたら、パパ。人生の再出発よ」
いきなり意味深なことをぐさりと告げてくる。ひと昔前の時代なら、このへんで担当の仲居さんがずかずかと部屋にあがってきて、夕食の場所と時間や大浴場が閉まる時刻といったフロントで聞いたのとおなじ案内を繰り返し、物欲しげな目で見つめてくるのだが、ここではそんなこともなかった。だからようやく日常から解き放たれたとおぼしき娘が思わず口にした言葉がやけに脳裏に染みる。まだきょうは会社から電話はない。だからまだ首はつながっているわけだが、あすどうなるかもわからぬ身だ。本気で再出発を考えたほうがいいのかもしれない。
芽以はそれ以上は口にせず、座布団にべったりと腰を下ろし、ちゃぶ台にのったテーマパークガイドをめくりだした。彼女の艶のいいショートカットの黒髪をエイジは後ろから眺めた。もし再出発するなら、この子はついて来てくれるだろうか。離婚経験のある同僚たちはみな、子どもを妻に奪われていた。そっちのほうが子どもにとってはいいとわかっていながら、易々とは受け容れられない。ときどき愚痴る彼らの傷の深さは、エイジの想像を超えていた。
いや、待て。そもそも再出発とは、過去をきれいさっぱり洗い流すってことなんじゃないか。往時を懐かしむなんて弱っちいことは言ってないで、ただ前だけを向いて時間を切り拓いていく。
なんでだよ。
まるで異空間のような部屋に娘とされる女の子といっしょにいる。痛みを伴う閃光とともにその事実が突きつけられたとき、いやでも考えないわけにいかなかった。
どうしてあいつと結婚してしまったのだろう。
後もどりできないとわかっていながら、つい思いをめぐらせてしまう。学生時代から付き合っていた延長で晶代とはゴールインした。しかしそうしない選択肢だっておれにはあったはずだ。入社当時のレコード会社には、女性スタッフは大勢いたし、なによりアーティストをふくめ、取引先の半分は女性だった。出会いには事欠かない状況だった。それを生き急ぐように結婚してしまった。だから晶代以外の女性と結ばれていたら、いまごろどんな暮らしを送っていただろう。一度きりの人生だ。慎重に歩まねばならない。それをおれは向こう見ずにスキップでもしながら飛ぶように進んでしまったのではないか。離婚した同僚もいるが、五十代でなお独身もすくなくない。べつに人間的な魅力に欠けているわけでなく、ただ自由に気ままに暮らしているだけのように思えた。それに強烈な憧れを感じる自分がいた。
いまからでも遅くはないのかな。
そうなったら芽以のことも心から締めだせるだろうか。そこが一番難しいところだ。娘まで自分のほうから手放すなんて考えられないし、芽以だって両親が離婚したら困るだろう。娘を困らせる挙に出るほど追い詰められているかというと、そうでもない。つまるところ、エイジ一人ががんじがらめのなかで苦闘をつづければいいだけなのか。
おいおい。
せっかくの夏休みじゃないか。仕事は不安定でも休暇は休暇だ。妻はもちろん、娘のことだっていちいち気にかけることなんてない。自分自身が愉しまないでどうする。
「なんなの、これ。『見た目も言葉づかいも“怖い”おにいさんが並んでいますが、根はやさしいですから』だって」ホテルに隣接する「的場遊技場」のページに芽以は食い入っていた。
そこはこのテーマパークのなかである意味、象徴的な場所だった。かつて都会から遠く離れた山中に無理くり男たちを集めて働かせたのだ。それなりの娯楽がないと不満が募る。それで三十年代としては最大限愉しめるアミューズメント施設として、ボウリング場のほか、スマートボールやパチンコ台、射的、それに当時最新式のアーケードゲーム機がどんどん導入されていったのだ。それらを取り仕切っていたのは、鉱山会社から委託を受けた地元の興行会社、つまるところかつてのヤクザたちだ。どうやらそんなところまで再現しているらしい。
「行ってみるか。まだ風呂に入るには早いし」
「インスタアップするわ」芽以は自分からすっと立ち上がった。
三
「お嬢ちゃん、いいものあげるから、寄っていきなよぉ」
額のわきに深々と剃りこみを入れた角刈りの若造が、土産物屋をのぞく芽以に近づいてきて猫なで声でささやく。着物の袖から突きだした両腕と襟元からのぞく胸を覆う青々とした彫り物は、ペイントにしてはリアル過ぎる。思わずエイジは娘の腕を引っ張り、自分の背後に隠した。
遊技場の呼びこみだった。ほかに三、四人の似たような男たちが道行く客たちに声をかけている。
「だんなさんもどうですかい?」おなじ男がこんどはエイジを誘ってきた。「いいことしていきましょうよ」
なにがいいことなのだ。これじゃ歌舞伎町のポン引きと変わらない。いかがわしいったらない。しかしこれも巧みな演出なのだろう。大学の演劇研究会のアルバイトかなにかが、客たちを本当に往時に引きずりこむために演じているのだ。ふとエイジは思った。もしかすると本当に「いいこと」も用意されているのかもしれないぞ。ここには温泉地特有の解放感が漂っているのも事実だった。
芽以が土産物の写真を撮っている間にエイジは訊ねてみる。「いいことってなんだろうね」
若造はちらりとあたりをうかがい、芽以にも目を走らせてから声を潜める。「べっぴんさんとしっぽりできますゼ」
「よくわからないな、しっぽりって。メシでも食うのかい」
「いえいえ、そんなヤボは申しませんて。だんなさんの好きになさればいいってことッス」そう言うと若造はくすくすといやらしく顔をひきつらせた。
「好きにってなあ……よくわからんね」
「だいじょうぶ、ご安心なさい。なんでもしてくれますから」
「なんでも……」
「そうでさあ。さあ、どうぞどうぞ」
芽以とともに、男に先導されるようにして遊技場に吸いこまれる。ずらりと並ぶパチンコ台にスマートボール台。出玉や点数に応じて施設内で使えるクーポンに交換できるらしい。浴衣姿の客が十人ほど台にへばりついている。その奥に懐かしのアーケードゲームが並んでいた。UFOキャッチャーなんかよりずっと前の時代、レーシングゲームに映しだされるのは、幻灯機さながらのぼんやりとしたレースコースのアニメ映像だったし、「サブマリン」は潜望鏡をのぞいて移動する敵艦に向けて魚雷を発射するタイプだ。意外にも芽以が興味をしめしたのは、十円玉を弾いて転がしながらゴールまで進める「日本一周」だった。彼女はそこにずっと張り付いたまま動かなくなった。
その姿を見ながらエイジは小学生のころにもどっていた。学校帰り、駄菓子屋わきに置かれたこんなゲーム機の前に群れをなしたものだ。あのころでもレトロなタイプだったが、アナログ感がかえってわくわくし、大いに盛りあがるのだ。小さな駄菓子屋だったが、まるで時間がとまったかのような、子どもたちだけの王国だった。あのころの仲間たちはいったいどこで、なにをしているだろう。無性に会いたくなるが、それがもはやかなわないことは痛いほどわかっている。時はとまらない。あくせくと日々に追われるうちに、おそらくおれの生涯は終わりを迎える。振り返ってみてどうだ。ばたばたと忙しいだけで実りのない、なんて薄っぺらな人生なのだろう。
ちくしょうめ。
きっかけだ。おれに必要なのは、おなじことを繰り返すだけの無限軌道から飛びだす手がかりだ。
パンパンと弾ける音で夢想から醒めた。芽以の興味も動き、二人してそちらに近づくと、さっきの若造よりも年かさの入れ墨野郎が呼びこみをしている。射的場だった。
「さあ、おとうさん、娘さんにプレゼントしてやりましょうやぁ!」そう言って小型ライフルのような空気銃を胸に押しつけてきた。銃口にコルクを詰めて二メートル先に並ぶ菓子やおもちゃのたぐいを撃ち落とすのだ。十発三百円と料金も手頃だった。これにも芽以は反応した。さっきの十円玉転がしといい、見るのもやるのもはじめてなのだ。父娘が並んで狙いを定め、嬉々としてつぎつぎとスナック菓子を手に入れていく。エイジ自身、意外なほど愉しむことができた。こんなことで人生に変化は起きないが、ほんの一瞬でも日ごろの重荷を下ろせたような感じがした。
「けど、こんなに食べられないわ。太るし」ケンタならいくらでもむしゃぶりつくくせに。どうせあとでぜんぶたいらげてしまうのは目に見えている。
「いいよ、パパがもらうから」
「あたしはあっちの景品のほうがいいな」芽以は射的場のさらに奥にできた人だかりのほうに目をやった。
「さあさあ、お客さん、みんな寄っといでよぉ! きょうかぎりの特別大サービスの始まりだよぉ!」
人垣の向こうからだみ声とともに、でっぷりとした腹を抱えた中年オヤジの姿が見えた。入れ墨こそないが、短髪に手拭いの鉢巻き、股引に下着のようなシャツ、それに腹巻きという、いかにもその手の香具師といった風情だ。町の職員に扮装させるのでなく、本職を呼んできたのかもしれない。
「秋葉原に行ったって、これだけ値切ることはできないよぉ。十球五百円。けど、大当たりなら、最新式のスマホからゲーム、スマートスピーカーまでなんでもござれだぁ! 持ってけ泥棒、こんちくしょうって感じでさぁ! さあさあ、みなさん、早いもん勝ちだよぉ! 十球五百円ぽっきり。十回も投げりゃ、そりゃ当たりますゼ!」
それも射的の一種だったが、空気銃でなく、木製の玉を的に向かって自力で投げつける、純然たる的当てだった。的までの距離は十メートルほど。そこに高さ一メートルほどの丸椅子が五脚並び、それぞれ一等から五等まで木札が掛けられている。玉を投げて倒すのは椅子ではない。直径三十センチほどの座面の上にある的を弾き飛ばすのだ。一度に一人ずつ挑戦するから、つぎなる挑戦者や観客はホテルとおなじ赤い――趣味の悪い――絨毯を敷き詰めた会場のまわりに集まり、野次を飛ばしながらゲームの行方を見守っている。
狙いやすいのは左右に二つずつ並ぶ五等――景品は地元サッカーチームの公式戦観戦ペアチケット――で、立てかけた直径二十センチほどの木皿を倒せばいいだけだった。それでもコントロールの腕前は要求される。四等から二等までは見るからに難敵だった。コースの真ん中に置かれているが、なにしろ的が小さい。どれも高さ十センチほどのカエルの木像だった。しゃがんでじっとしているポーズだから当然、下のほうが広がっていて安定している。かなり重量がありそうだから一度や二度、当たっただけでは椅子から弾き落とせないようだ。しかも三等の背後には金属製の壁のようなものがあり、的のカエルが安易に憂き目を見ないようガードしている。狙うなら左右に弾き飛ばすしかないが、二等となるとなんとその左右にも壁がある。つまりまずは壁を破壊したのち、満を持して敵と対峙せねばならないのだ。
その意味では、一等のほうが狙いやすい。どう考えてもそうだった。そちらは座面の上に木彫りの人形が置かれていた。エイジは近づいてそれがなんであるかたしかめた。
人間だった。
それも少年のようだ。
高さは三十センチほど。両手を左右に広げ、台座の上で片脚立ちしている。丸刈りで服は着ておらず、ふんどしを締めているだけだった。細部まで彫りこまれ、口もとは引き締まり、仏像のように半眼を開いている。インドの行者が瞑想をしながら何年も立ちつづけ、しまいには縮こまって木片となったしまったかのようだった。
「うわ、一等すごいよ。こないだ売り出したばっかのiPhoneの最新型。あれでいいよ、パパ」
「あれでいいって、おまえなあ……」と口走りつつも、エイジはもう狙いをつけていた。人形の広げた手のどちらかに命中させれば、バランスがくずれ、一気に椅子から転げ落ちるはずだ。
前に並ぶ挑戦者もおなじことを考えていた。十球すべてを少年像に費やした。だがそもそもコントロールが悪く、どれもかすりすらしない。
エイジの番になった。
「はい、十球五百円さね」オヤジはエイジから五百円玉を受け取ってから、さも高価な盃でも授けるように木玉を入れた竹かごをもったいぶった手つきで渡した。「ようく狙ってなあ。まずは五等からはじめたほうがいいですゼ、だんな」ヤニ臭い息を吐きながら喉にからみつく声でささやく。
ふん、そうはいくか。
エイジは自信があった。高校まで野球部でピッチャーだったのだ。県大会ではベスト8まで勝ち上がった。すべてエイジが先発し、投げきった。球威より制球力が武器だった。大学では草野球のチームで投手を務めた。社会人になってからは音楽業界の野球大会に駆りだされる程度だったが、肩にとってはそれが年相応の適度な刺激となっていた。だからほんの十球程度、全力投球したところで痛みなんて走るまい。そういえばエイジにとって、この人生で自慢できるのは、野球が他人より上手なことぐらいかもしれない。
木玉を手にとり、重さをたしかめる。硬球よりひと回り小ぶりで、かなり軽い。それでも肩や手首の力の入れ具合を頭のなかでシミュレーションし、玉を握ったまま何度かシャドウピッチングしてみる。うん、これならいけそうだ。
「どうするの、パパ」芽以が目を輝かせる。ほかの客も遠巻きにしながら固唾を飲む。
「スマホがほしいんだろ。なら、一等狙いさ」
するとオヤジが横からささやく。「長いこと成功していないんでさあ、あれは。わしも見たいもんですよ、あいつがぶざまに倒されるところを」そしてくっくとほくそ笑む。「きっとうまくいきますゼ、だんなさんなら」心にもないことを口にしたせいで、オヤジは咳きこみだした。
それを無視してエイジはクイックモーションで一球目を投げる。個人的には、ワインドアップなんかより体のバランスがとりやすい。それが制球に反映するのだ。
どよめきがあがった。
浴衣にほろ酔いのそれまでの挑戦者とは球筋がぜんぜんちがった。百二十キロそこそこだろうが、玉は一直線にコースを横切り、少年像の左の指先にぶつかって大きく跳ねあがった。
自分の足下にまで転がってきた玉を驚いたようすで拾いあげ、オヤジが顔色を変えて苦々しく口走る。「プロは禁止さね。書いてあるだろうが」
「プロはもっとすごいさ」エイジはさらり言って娘にウインクする。「高校で野球部だっただけですよ」
それから二球、三球とつぎつぎと放っていく。木玉は確実に片脚で立つ少年像の体のあちこちにヒットし、そのたびに激しく跳ね返る。だが物理的に不安定なはずなのに、どれだけ衝撃を受けても、まるでつま先が椅子の座面に釘付けでもされているかのようにびくともしない。エイジは木彫りの像を凝視し、はっとした。心なしか少年の顔つきが変化したようだったのだ。まるで怒りをたぎらせにらみ返しているかのようだった。
たちまち残りが一球となってしまった。だから長いこと成功者がいないのでは――。もやもやした思いが募ったとき、ほかの観客たちの間から声があがった。
「インチキじゃねえのか」
「あれだけ当たってて倒れないなんておかしいぞ」
それにはオヤジが反論し、つかつかと的に歩み寄ると、少年像を片手でつかみあげ、高々と掲げてギャラリーに見せて回った。「釘付けもなんにもしとらんさね。ほら、持ってみるといい」
そう言って何人かに像を持たせてやった。なかの一人はそれを床に置いて安定性をたしかめてもみた。
「どうだい、見た目からはわからんけど、重心が下のほうにあってどっしりしているんさね。だからなあんもインチキなんかでねえよぉ。言いがかりはよしてくれんかね。さあ、あんたも持ってみるといい」オヤジは木彫りの両手を広げる少年像をエイジの顔の前に突きだした。
石のようにずしりと重い。見た目と大違いだ。五キロ近くある。まるで金属でできているかのようだった。エイジはそれをためつすがめつし、顔もたしかめてみたが、いまは先ほど同様、目は半眼に閉じられ、穏やかな表情をしている。像は作られてからずいぶん時間が経過しているようで、表面は自然な感じの濃い飴色で、体のあちこちに細い稲妻のようなひび割れというか、人間でいえばしわのような筋が幾本も走っている。
そのとき像を握りしめるエイジの左手に気色の悪い感覚が走った。まるで薄い樹皮の内部でなにか柔らかな肉塊のようなものがぐるりと不快そうに蠢いた感触だった。あっと思ったときには、エイジは像を取り落とし、ゴンという鈍い音が場内に響いた。
「あんた、気をつけてもらわんと困るさね。さあて、最後のひと投げだが、どうするね」オヤジは元の台に少年像を置き直し、エイジのほうにもどって来る。
「もちろん投げますよ。こんどこそ」
「そうさね。その意気さね。だったら一つだけ教えとこうかね。頭さね。頭をしっかり狙うさね。そこがバランスを崩すのに一番いいさね」
ところが最後の一球は確実に少年の顔にヒットしたものの、どうあっても像は倒れない。
「もういいよ、パパ」芽以が心配そうな声をかけてきたが、エイジには聞こえない。ただじっと像をにらみ返していた。向こうがにらみつけてきたからだ。
「じゃあ、あんた、特別サービスを試してみるかね」オヤジはすでにべつのかごを用意していた。「こいつは五球で五千円。まあ、奥さんが怖いんなら、こんな無駄遣いはよしといたほうがいい。けれど、破壊力は抜群さね」
それは木でなく鉄製の球だった。手にずしりとくるし、サイズも大きい。硬球とおなじぐらいだった。
「五千円だね」エイジは財布を取りだす。声をあげる観客はいなかった。雇い止め寸前の音楽教室講師らしからぬ思いきった決断だった。
「ちょっと、だいじょうぶなの、パパ」
それには答えず、エイジは深呼吸を二度くりかえした。頭のなかを空っぽにする。それからおもむろにこんどは、セットアップモーションから一球目を投じた。もはや試合の感覚だった。あと一点もやれない。絶対に抑えるつもりだ。
ずっしりとした鉄球が人形の頭部に命中した。その瞬間、人形はぐらりと後方に揺らぎ、場内がどよめいた。まさにスタジアムにいるかのようだった。
それでも人形はバランスを取りもどし、台座の部分がすこしばかり後方にずれただけで倒れはしなかった。エイジは黙って二球目を投じた。だが力が入り過ぎたらしく、球は頭部すれすれのところをヒュッと鋭い音を立てて後方のネットに吸いこまれた。
気を取り直し、もう一度深呼吸してから三投目を行った。それは一球目同様、人形の顔面を直撃し、先ほどよりも大きくぐらつかせた。台座がはっきりと五センチ近く持ちあがるのが見えた。
人形はいまや丸椅子の端にまで追いやられていた。敵軍の砲撃に後退を余儀なくされた敗軍部隊のようだった。観客はもはや声一つあげない。真剣勝負をじゃますまいと息を殺しているのだ。
そのときエイジは目を疑った。十メートル先で向かい合う相手の額からどす黒い液状のものが滴っているように見えたのだ。それに気付いているのは、どうやらエイジだけのようだった。ふいに罪悪感のようなものが胸にわきあがり、集中力がかき乱される。まるで本当に少年をいたぶって愉しんでいるみたいだった。
ちらりと娘のほうに目をやると、帰ろうと促してきた先ほどとは打って変わって、チャンス到来とばかりに頬を紅潮させ、父親に愛らしい笑顔を振り向けてきた。そうだ。これで一等が取れたら、娘を喜ばせることができる。ふいにそれこそが人生を変えるきっかけになるのではないかとの妄想に駆られる。
だめだ。
雑念を払ってエイジはセットに入り、四球目を投じる。だがそれは頭部でなく、水平に広げた少年の右手の先をとらえ、あらためでぐらつかせた。そして、もはやこのまま放っておいても自然と椅子から転げ落ちるのではないかと思えるぐらいの崖っぷちでやつは踏みとどまっている。顔は真横を向き、さっきの血の滴りのようなものは都合よく見えなくなっている。
「だんなさん、これが最後の球さね。いくらカネを積まれてももう球は貸しませんよ。だからようっく狙うんですね、せいぜい」鉄球サービスで五千円稼げたのはいいが、結果的に大損をこくことになりそうだと、オヤジは焦りだしている。それでなんとしてもこの高校野球崩れの父親の気を散らせようとしているのだ。
これは本当にマウンドにいるのとおなじだった。草野球なんかじゃない。高三の夏、ベスト4をかけた試合の九回だった。観客席の声援、ブラスバンドのマーチがよみがえる。すべてが自分に味方している。あのころ、何度も繰り返してきたイメージトレーニングをいま一度、呼び覚まし、勝利の瞬間を思い浮かべる。
球威よりコースだ。あとはなにも考えずに腕を振った。事実、それまでよりも緩やかな球が静かに空を切り、片脚で踏ん張っていた木彫りの少年の頭部にふたたび命中した。それはこともなく丸椅子の向こう、赤絨毯の床へと転げ落ちた。
やんやの歓声をあげる客たちをオヤジがさも悔しそうににらみつける。「てやんでえ、やらせるんじゃなかった」と吐き捨てるのが、エイジにはわかった。ひさびさの全力投球に肩で息をしながら、エイジはみんなが見ている前でオヤジに言った。
「一等を獲ったぞ。景品はなんだったかな」
「わかっとるさね。あんたはあれを倒した。一等だよ。景品持ってくるから、ちょっと待っとってくれるかね」そう告げるとオヤジは会場わきの小部屋に入っていった。
いい見世物が終わり、客たちがぞろぞろともどって行くのとは反対に、エイジは的のほうへ近づいて行く。一等の椅子の向こうを見やると、木彫りの人形が逆さまになって椅子の脚にもたれかかっていた。さっきの生きた肉のような感触が気になった。怖々と指をのばし、横に広げた片方の腕をつまみあげる。相変わらずずしりと重い。まるで鉄アレイのようだった。
血など流れておらず、穏やかな表情のままだった。先ほどの恐ろしい形相は錯覚だったのか。あたりまえだ。ただの木彫りの人形にすぎない。反対の手でその頬に触れてみる。優美なカーブを描くそれはひんやりと冷たかった。そのときエイジははっとする。半眼に開いたまぶたがぴくりと動いたような気がしたのだ。
直後、指に激痛が走る。
「うっ……」頬に触れる手を思わず引っこめたが、こんどは取り落としたりはしない。反対の手で人形の腕を持ったままそっと椅子に横たえる。
中指の先から出血していた。
まるでヘビに噛まれたみたいだった。後ろに芽以が近づいてきていた。とっさにハンカチを取りだし、指先をぎゅっと押さえる。
「ほら、あんた、景品さね。持ってけ泥棒」
「泥棒じゃないわよ」芽以がオヤジの手から最新のスマホの箱が入った紙袋を奪い取る。「当然の権利でしょ」
オヤジは舌打ちする。「あいつが倒れるなんて見たことねえだよ。この仕事、五十年もやってるがはじめてさね。わしはズルはせんから、景品はたしかにやるさね。けどなあ、決して倒れまいと思うて、そのスマホ、わしが自分で使うつもりで一週間前にアマゾンで買うたんさね」
「なにそれ」芽以はさっと紙袋を背後に隠す。
「なんだあんた」エイジは止血をつづけながら苦々しく言う。「見せ金みたいなものだったのか。客寄せのための」
「ふん、なんとでも言うがいい。そいつはもうあんたらのもんさね。けどまあ、あいつを倒すなんていまだに信じられんなあ」オヤジは椅子に横たわる人形をまるで傷ついた息子でも見るように見つめた。そしておもむろにエイジの顔を見る。「だんなさん、あんたの景品も入っとるから、ぞんぶんに愉しむといい。なに、気にすることなんかないさね。あんまり欲はかかないで、そこそこにしてるぶんには問題ねえですから。ヒヒ……」
薄気味悪く顔を引きつらせるとオヤジは小部屋に引っこみ、きつく扉を閉めた。
「やったね、パパ」物欲の強いところは本当に母親そっくりだった。ホテルにもどる道すがら、芽以はがまんできずに紙袋からスマホの箱を取りだし、なかを確かめた。
「部屋に帰ってからにしなよ」エイジは娘の手から箱を取りあげ、紙袋にもどそうとした。
袋の底に封筒が入っている。
自分にも景品があるとオヤジは言っていた。それがこれなのか。スマホの箱を娘に返し、エイジは封筒を手に取った。
なかに鍵が入っていた。キーリングには色あせた小さなプラスチック製のプレートがついていた。
西棟三階イ号――。
中太の黒マジックで手書きしてある。西棟とはエイジたちの部屋のある棟とは反対側の建物のことか。そっちの部屋の鍵だろうか。なにげなくプレートを裏返してみてエイジは首をかしげた。
午後五時カラ――。




