七~九
七
呼び鈴を鳴らし、足音が近づいてくるのが聞こえてもエイジは安心できなかった。
ドアが開き、Tシャツに着替えた芽以が顔をのぞかせる。
「いつまで入ってんのよ。のぼせちゃったんじゃないの」
「だいじょうぶか」息をあえがせながらエイジは訊ねる。
青ざめた父親の表情に娘はぽかんとする。「はあ?」
「だいじょうぶだったか」それでもエイジは繰り返す。「おかしなことはなかったか」
「なに言ってんの、パパ?」そのとき芽以が足もとに目をやり、騒ぎだす。「ちょっと! なにそれ! きったない! なに踏んだの? ウンコ? やだ! やめて、そんなんで入らないで!」
それでエイジも気付いた。足が泥だらけのままだった。最後はスリッパが脱げそうになりながら駆けてきたからくるぶしから下は真っ黒だった。だがクソなんかじゃない。
「あ……泥だ、ただの泥だよ」そう言って娘を押しやってなかに入り、そのまま浴室に飛びこんだ。
結局、もう一度、頭からシャワーを浴び直し、全身を石けんでくまなく洗う。冷静に考えればそうすべきだった。ほかの女性とあんなことになったのだ。娘の前で余韻を残しておくなんてまねはできない。おれはいったいなんてことをしたんだ。自らを責める拷問のように熱湯を頭から浴びながら、エイジは恐怖におののいた。
恐怖は本物だった。
あの木彫りの像だ。
幻覚なんかじゃない。どうしてあそこにあったのだ。
「いったいなにしてたのよ?」自分もTシャツと短パンに着替えて部屋にもどると、芽以が訊ねてくる。
「……湯上り処でビール飲んでたんだよ。そこのおねえさんと話しこんじゃって。ウッドデッキが意外と汚れてたんだな」
「意外とってなによ。ありえないわよ、あんなウンコみたいなの」
「ちがうって。それにちゃんと洗ったから」
ちょうど夕食が届く時間だった。仲居さんたちがやって来ててきぱきとお膳を並べていく。窓辺のいすに二人して腰掛けて準備ができるのを待つ。芽以は景品のスマホと自分のスマホを握りしめ、あれこれと格闘している。
「なんかおかしいんだよなぁ」
「どうした?」
「SIMカード入れ替えたんだけど、なんかうまくいかない。つながらないのよ。ほら、これ」芽以は新しいスマホのほうを手渡してきた。しかしそんなこと言われてもエイジはこの手のことは苦手だ。
「あとにしよう。まずはメシだ」
ちょうど配膳が整ったところだった。いわゆる温泉旅館の代わり映えのしないメニューだったが、腹はすいていた。妙に動いたから心も体もすり減っている感じがした。
「だけどパパ」デザートから食べはじめた芽以が訊ねてくる。「男湯の石けんって、いい匂いするんだね」
「え……なんのこと」
「だって、パパ入って来たとき、いい匂いしたもん。甘いバラの香り」心臓がつぶれるかと思った。ウンコ騒動のとき、娘はちがうことにも気付いていたのだ。「浴衣についてたよ。さっき確かめたもん」
「確かめたって……」
「シャワー浴びてるとき、嗅いだのよ。だけど香水みたいな感じもしたな。もしかして湯上り処のおねえさんとなんかしてきたの?」
どきりとすることを訊く。
「なんかってなんだよ。でもたしかに香水は強かったかな。地元の人で、炭鉱町の歴史とか、いろんなことを話してくれた」落ち着きを装いつつも、手では短パンのポケットをまさぐっていた。しまった。たばことライターをポーチごとあの部屋に置き忘れてきてしまった。荷物を詰めたバッグになにげなく手をのばし、エイジはべつのひと箱と予備のライターをつかみだしてポケットに突っこむ。
「あたしはそんなの聞かなくていいわ。そんなことよりこっちよ」そう言ってわきに置いた新しいスマホのほうにあごをしゃくる。「ママから連絡が入ってるかもしれないのに」
「古いほうにSIMカード戻せばいいじゃないか」
「いやよ、新しいの手に入れたってメールしたいのよ。パパにはママから連絡入ってないの?」
不愉快なことをへいきで聞いてくる。だが確かめるふりをしないわけにもいかず、エイジはスマホを手に取る。もちろんメールの一本も入っていない。いまごろお気に入りの部長さまとしっぽりやっているにちがいない。腹が立ってきた。
ふいにあの柔肌が頭をよぎる。じゃまさえ入らなければ、最後までできたはずだ。あんなに弾力のある体ははじめてだった。それに……あの声だ。女というより獣のように激しかった。それまで話していたときとは別人のようだった。彼女があの部屋に住んでいるとは思えない。ワンピースがかけてあったが、あそこはあくまで“職場”なのだろう。きっと町から通っているのだ。人目を忍んで。射的場のオヤジはなんと言っていた。
あんまり欲はかかないで、そこそこにしてるぶんには問題ねえですから。ヒヒ……。
欲をかくつもりはない。対価を支払って春を買ったりなんかしない。そうでなくもう一度会って、話をしてみたい。いったいどこのどんな女性なのか知りたくてならなかった。
「ねえ、どうなの」
「ん……」
「ママからメール来てる?」
「あぁ……ないよ。来てない。来るわけないさ。仕事が忙しいんだから」
「ちぇっ、つまんないの」
「ママは仕事優先なんだよ」
「パパはちがうの?」デザートをたいらげ、こんどはエビフライにかぶりつきながら訊いてくる。
「パパは……そりゃ、仕事はだいじさ。けど、家族よりもだいじなことなんか、この世にありゃしないよ」
「だけどパパだって」やっぱりおなかが空いていたらしい。ご飯とおかずを猛然とかきこみだした。けれど野菜だけは払いのけている。こういうところは直さないと。「仕事が入ったら旅行なんて来られないでしょ。うち、そんなに余裕ないんだし」
つい先ほどの甘美な思いがかき消え、逆に身勝手な妄想に苦みを覚えた。まるで晶代のようなことを娘は口にする。父親の仕事が思わしくないことに勘づいているのだ。いや、あいつが話したのだろうか。レコード会社をリストラされて、やっとのことで見つけた音楽教室の講師の仕事も青息吐息だって。小学四年生の娘に向かってそこまで事細かに聞かせたのか。
「いや、そうじゃないよ」口にしてみたが、声は震えていた。体は正直だった、意思が無理をしているとすぐに拒絶反応をしめす。だが口を開いた以上、最後まで言いきらないと。「仕事は家族のためにしているだけさ。家族にとってもっとだいじなことがあったら、仕事は後回しにしないと」
「じゃあ、ママはよくないことをしているの?」
「さあ、どうかな。それはママが考えればいいことだ」
「けど、この部屋でパパとご飯食べて……うーん、どうなんだろうなあ」
「どうなんだろうって、なんだよ」
「まあ、スマホ当たったからいいかな」芽以はそれ以上残酷にならずにいてくれた。だが冷や汗をかきながらエイジはさまよっていた。
家族か……。
まだ四十だ。やり直している人はいくらもいる。
「あれ?」芽以が玄関のほうに目をやる。ふすまは閉じてあるが、その向こうで物音がしたのだ。まさかもう仲居がお膳を下げに来たのか。ちょっと早過ぎやしないか。
父親よりも先に娘のほうが四つん這いになってふすまに手をかけ、開くと同時に悲鳴があがる。転がるようにしてエイジは娘を抱きあげ、ふすまから遠ざける。
木彫りの少年。
それが両手を大きく広げ、玄関の内側に立っていた。
八
仲居のしわざか。それともあの的当て屋のオヤジか。景品を取られて悔しくていやがらせをしているのだろうか。
憤怒にかられ、エイジは部屋に備え付けの洗濯物を入れるビニール袋を引っつかみ、人形をそのなかに突っこんだ。冗談じゃない。こんなことをされて黙っているわけにいかない。エイジは証拠の人形を詰めたビニール袋を抱え、素足のままスニーカーを履いた。
「ちょっと、どこ行くの」
「いいから。部屋から出るんじゃないぞ。いま、文句言ってきてやる。なんなんだ、いったい。こういうの、許すわけにいかないから」
「ちょっと、パパ!」
異議を唱えようとする娘の声をドアで遮断し、憤然として大股で廊下を進む。エレベーターを待っているひまはない。階段を駆け下り、フロントを通過してそのまま外に出る。レトロタウンは色とりどりの提灯とネオンで赤々と輝き、夜市の真っ最中だった。さっきまでなかった出店が道の両わきに並び、お祭りの屋台のようにお好み焼きや焼きそば、から揚げ、それに中華の点心のたぐいが、いかにもうまそうに並んでいる。だがそんなものには目もくれず、エイジはまっしぐらに遊技場を目指す。
「遊んでいくかい! にいさん」
夕方、声をかけてきた角刈りのチンピラ役の若いやつが、間抜けにもふたたび声をかけてくる。遊技場は先ほどまでよりも混み合っている。みんな浴衣姿だ。ホテルで夕食後、ふらふらと遊びに出て来たのだ。黙々とパチンコやスマートボールに興じ、スプリングで弾かれた玉が転がるシャーという音だけが響いている。しかし歓声はあがっていない。射的場はがらんとしていた。その奥の的当て屋のほうは明かりも消えている。
「的当てはやってないのかな」
エイジが訊ねると若い角刈りが急にまじめな顔になった。「いつもは夜もやってるんですけどね。外から呼んだ業者なんでよくわからないんです」いかにもスタッフといった口調で説明する。「じつはわれわれも困惑しているんです」
「困ったな。あそこにいたオヤジさんに用があるんだけど」
「お急ぎですか」
「お急ぎじゃなきゃ来ないだろう。問いただしたいことがあるんだ。控室が奥にあったろう。見てもいいかな」
エイジの剣幕に気圧され、角刈りはおどおどしながら入れ墨をペイントした手で頭をかく。「かまいませんけど……もう誰もいませんが」
若造の言うとおりだった。会議室のような小部屋は明かりも消え、無人だった。
「業者さんが来るときに控室として使っているんです」
「連絡は取れないかな」
角刈りはエイジがぶら下げるビニール袋に眉をひそめる。「事務所のファイルを見ればわかります。近くですから」そう言うとエイジをいざなって遊技場を出た。
ファイルには出店業者の申請書が収まっていた。そのなかの一枚を引き抜き、エイジから見えないようにして中身をたしかめる。事務所にいた上司とおぼしき中年男が横からのぞきこむ。
「なにかございましたか」事情を察した上司が訊ねてくる。
「これなんだけどね」エイジはビニール袋を広げ、なかを見せてやった。「わかるかな。こいつは的当ての的だったんだ。それでわたしは大当たりして景品をもらった。ところが、どういうわけか、こいつが部屋のなかにあったんだ」このさい、西棟のあの部屋の前に置かれていたことは割愛する。「誰かが侵入して置いていったのはまちがいない。気色が悪いったらないぞ」怒りがふつふつと燃えさかり、声が震えてきた。
「それが景品というわけではないのですね」上司はとんまなことを訊ねてくる。エイジは怒鳴り散らしたい衝動を必死にこらえる。
「こんなもの誰が欲しいと思う? いやがらせとしか思えないんだけどな。とにかく業者のあのオヤジと話がしたいんだ。携帯の番号とか書いてあるんだろ」
事務所にはほかにも何人かスタッフが待機していた。その全員が遠巻きにしながらエイジのようすをうかがっている。
「的当ての業者さんは、外部の方でして」興奮した男に向かって上司は説明をはじめる。「あちこち回っているんです」
「テキヤってことだろう。誰だってかまわないさ。とにかく電話番号を教えてくれ。さもないと警察に言うぞ」
「わかりました。まずはわたしのほうから電話を入れてみます。先方が出たら、お渡ししますので――」だがいくらかけてみても、電話はつながらない。電源が切られているようだった。
エイジの怒りは収まらない。「電話番号を教えてくれ、それと住所も」
「夜だから電話を切っているのかもしれません。あす、わたしどものほうからもう一度、電話を入れてみます。もうすこし詳しく話を聞かせていただければ」上司はこの期におよんで個人情報の管理を徹底しようとしている。
かっとなってエイジはビニール袋を高々と掲げる。「こいつだよ。こんな化け物みたいなやつが部屋にあったんだ。それだけだよ。住居侵入なんだぞ。いますぐ警察に行って被害届を出してくるよ。あんたたちじゃ、らちがあかない。カネばっかり取りやがって」
捨て台詞を吐くなり、エイジは踵を返して事務所を後にする。警察はどこだ。近くの土産物屋にいた老主人に訊ねてみる。
「警察ですかい? 茂利原の駅前駐在所まで行かないとダメさね」それまで以上に背中を丸め、恐縮して主人は教えてくれた。
「ここには交番とかないのかな」
「ないんですわ。消防団ならあるんですが」
「なんてところなんだ、ここは」怒りのやり場がない。そのときずっと問題のビニール袋を握りしめていることに気付く。そこから邪気が這い登ってきて、エイジを正気の瀬戸際へと追いこもうとしているようだった。
あたりを見回す。
あった。
夜市の客が屋台の紙皿や割り箸を捨てる大きな青いゴミ箱がある。つかつかとそこに近付き、袋ごと人形を投げ捨てる。証拠品ではあるが、手に持っていたくなかったのだ。怒りに肩を震わせ、エイジはたばこを取りだした。たてつづけに三本ぐらい吸わないと落ち着かない。そのとき後ろから声をかけられた。
「どうされたね」
落ち着いた女の声だった。
振り返ると、どこから現れたのか、着物姿の高齢の女性が真後ろに立っていた。まわりの屋台のおばちゃん連中とはちがう、凛とした空気がそのまわりに漂っている。
「なにかお困りかね」
九
「あの神社はもとは炭鉱町に作られたものさね」
駐在さんは東京なんかで走っているものよりかなり小ぶりのパトカーの後部座席に晶代を乗せて走りだした。すぐにまわりに建物がなくなり、真っ暗になる。こういう場所なら星がきれいだろうが、今夜は雲が出ていた。駐在さんはまるで町の観光ガイドさながらにうれしそうに話をつづける。
「廃鉱になって駅前に移築したんですわ。いまは権現堂という小さな社のみが残っておるさね。そこを見に行かれる方もいらっしゃいますさね。けれど山道は意外とけわしくてな。登るのは若い方でも骨が折れるんですわ」黒い革手袋をした手でハンドルの下をそっと握り、ゆっくりと走らせる。晶代としては急いでほしかったが、パトロールも兼ねているのだから急かすわけにもいかない。話に付き合うほかなかった。
「一人旅ですかね」職業柄か訊ねてきた。だが他意はないようだ。警察官というより、町のシルバー人材センターに登録したスタッフのようだった。
「家族のほうが先に到着しているんです。わたしは仕事で遅れてしまいました」
「そうかね。そりゃ、おつかれさんでございますう。そういう方もいるさね。ホテルのほうでもすこしは考えて、出迎えのバスでも出せばいいもんだが、なかなかうまくはいかないさね」
「でも助かりました」
「ふつうに車で来られても、わかりづらい場所さね。きょうも道に迷っただんなさんがおってな。娘さんがぶうたれとったよ。小学生ぐらいのかわいらしい子だったな。曲がり道を案内してあげたさね」
はっとして晶代はスマホにあった写真を見せる。駐在さんはいったん路肩に車をとめ、しげしげと眺めて目を丸くした。
「こんな偶然もあるものさね。ご主人と娘さんでしたかね。もう着いてゆっくりしとるさね。てっきり父子家庭なのかと思ったさね」
シングルファーザーという言葉を知らないのだろう。古風な言い方なぶん、現実以上に悲哀に満ちた響きが感じられた。たまらず自分のほうから付け加える。「急な仕事が入ってしまったものでして。それがなければ、いっしょに来られたのですけど」
「ああ、いまの時代は女性がよく働くさね。いいことだと思いますわ。でもちゃんと駆けつけるところは、さすがは母親さねえ。えらい、えらい」
えらくはない。
じっさい来るべきか迷ったのだし。晶代は後部座席でスマホをいじる。あの人からLINEが入っていた。ちょっと冷たくしてしまったかもしれないな。ほんとは晩ご飯もいっしょに食べる約束だった。仕事の延長というわけではない。でも晶代は愉しみにしていた。娘を夏休みの旅行に連れて行くことより優先させたのは、自分の気持ちにすなおだったからだ。それをぎりぎりになって翻意させたのはなんだったのだろう。夫婦、母親としての倫理観だとは思いたくない。そんなきれいな気持ちが芽生えたわけじゃない。すくなくともいまは、そういうふうに自分に言い聞かせたかった。いうなれば、火のついた導火線をもうすこし、ほんのすこしだけ延ばしてみただけ。ただのわがままだ。だから火が消えたとは思いたくない。子育て資金を稼ぐためだけにあくせくするのはごめんだったし、わたしだってまだ女なんだから。
「やっぱり子どもは母親が一番さね」駐在さんはジージーいうだけで一向に反応しない無線をいじりながらぼそぼそとつぶやく。「守ってやれるのは母親だけさね。いつの世もそこは変わらんさね」
「お恥ずかしいかぎりです。主人に押しつけてばかりでして」
「なあんも、なんも。仕事ならしかたないさね。娘さんもわかってくれるさね。だけど、お子さんが女の子でよかったなあ。男の子はがまんがきかないさね。おふくろさんがどんなに苦労してるかなんて知る由もないまま、ただ乱暴にさびしさをぶつけてくる。それがまた母親にはつらいからなあ」
道の両わきには背の高いトウモロコシ畑が延々と広がるようになった。駐在所のパトカーは装備もいまいちで、いまどきめずらしくGPSがついていない。晶代はスマホでマップを開こうとしたが、電波状況がよくないのかうまく開けなかった。だからどこを走っているかまるで見当がつかない。のろのろと走りつづける駐在さんの運転にまかせるほかなかった。
「わしが生まれたのもあの町さね」訊ねもしないのにしゃべりだした。「炭鉱が一番栄えておった時代でなあ、子どもも大勢おって、みんなしておんなじ学校に通っとった」
「学校まであったんですか」
「そうさね。さっき茂利原の駅前を見ただろう。人が減ってシャッター銀座さね。あのころの的場谷合とは正反対だよ。ほんてにぎやかだった。小学校と中学校があってな。小学校は全校生徒六百人。どうさね? そんな学校、このあたりにもうあるまいよ。そこにわしら、通っとってな。九割以上が炭鉱夫の子どもたちさね。なあ、あんた、娘さんはお受験させるのかい? それともお受験して学校に上がったのかね?」
いきなりプライベートに踏みこんできたが、ここでへそを曲げられては困る。駅に逆もどりなんて冗談じゃないし、こんなところで強制降車させられたら生きた心地がしない。狐狸のたぐいならまだいいが、変質者が潜んでいない保証はない。だから適当に話に付き合うことにした。「いま四年生ですけど、小学校は公立ですから。だけど中学受験はみんなやってますからね」
「やっぱりそうかね。そうするとさしづめ夏休みは、塾の講習とかで大忙しなんじゃないかね」
「まあ、そんな感じですね。旅行も今回だけ。たったの一泊二日です」
「おつかれだねえ、お子さんも。いやはや、あのこころはそんなのが全くない時代でよかったよお。勉強なんてした覚えがないさね。みんな、毎日遊んで暮らしとった。まあ、炭鉱夫のせがれや娘なんてのは、みんなそういうものだけどな」
「たのしそうですね。屈託がなくて。自然のなかでのびのび暮らせるのはとてもいいことだと思います」
「そうさね。けどなあ、町が町だけにつらい話もないわけでなくてなあ」
「つらい話……ですか」
ヘッドライトはいつしかハイビームに切り替わっていたが、眼前に迫る闇はさして切り拓かれない。しがみつくようにハンドルを持ち直し、前方に目を凝らしながら駐在さんは独り言のようにぼそぼそと語りだす。
「ほとんどが炭鉱夫の子どもなんだが、それだけじゃない。ほかの子たちもおったんよ。まあ、当然さね。大きな町が一つ、山んなかにできたんだから。郵便局もあれば、いろんな商店もある、診療所もあったし、映画館もあった。そういうところにも子どもたちはおった。そういう子たちのほとんどは、炭鉱の子たちと仲良くやっていたんだがなあ。町外れの“別荘”に住んどった子たちはちょっとかわいそうだった」
「なんですか、その“別荘”って」
「子どもたちがつけた呼び方さね。ほんとは『野辺津荘』というアパートのなんだが、母親がお店に勤めてる子たちが暮らしとったさね」
「お店というと……スナックとかですか」
「まあ、そんなようなもんだが、あのころはそんな中途半端なところでなく、ふつうに置き屋があったのさね」
あの時代、しかも荒くれ者たちが集う炭鉱の町だ。容易に察しはつく。「つまり、その……そういうお店ですか」
「そうさね」よみがえった記憶を頭のなかでうっちゃりきれず、駐在さんはため息をつく。「そういう家はぜんぶ母子家庭さね。みんな、子連れでどっかから流れて来たんよ。母親は日中は寝とって、夕方になると派手な化粧をして出かけていく。けれど、子どもは子どもさね。なんの罪もない。でも残酷さね、子どもっちゅう生きものは。ちょっとでも自分たちとちがうと、徹底して追いだそうとする。そのころ小学校の昼は給食でな。お店の子たちはそれをほぼ一日ぶんの食事にあてがわねばならんかった。だからふつうに食べて足りないと、調理場に忍びこんで残飯あさりせざるをえなかった。それをべつの子たちに見つかって――」
結果はいつの世もおなじだ。
「風呂に入ってない、クソをもらした、まともに話せない、盗みを働いた、強姦で生まれた子……あげくの果てに“梅干し”呼ばわりさね」
「なんですかそれ?」
駐在さんは運転しながらちらりと晶代の顔に目をやった。「あっちの世界で梅っちゅうたら性病のことしかないさね。たしかにいまとはくらべものにならんほど蔓延しとった時代だし、そういう職業だからねえ。だけど親の病気が子どもに伝染って、学校で感染が広がるなんていうのは、いかにも子どもらしい残酷きわまりない発想さね。そう思わんかね、奥さん」
「まったくです。ひどい話ですね。教師たちも見て見ぬふりだったんでしょうか」
「それどころか、体が腐ったような臭いがするから廊下に出ていなさいって叱りつけることもあった。いっしょになっていじめに加担していたんさね。けれど、そんな教師にかぎってお店の常連だったりする。わしが四年生のときは、校長が通い詰めとったよ。うわさじゃ、花代をケチっていたって話さね。あんまり法外な要求をすると、子どもがかわいそうだろうって。置き屋には女が自分で払う仕組みだったから、カネは額面通りきっちり搾り取られる」
「差額を泣き寝入りさせられるというわけですか」
「そうさね。カツアゲと変わらんよなあ。子どもを守ってもらうためのみかじめ料。ところがじっさいは、教師たちによるつらい仕打ちが待っとる。校長は知らん顔だ。自分ばかりスッキリしてなあ」
「暗たんたる気分になりますね」
「まあ、全体からすればほんの一部、取るに足らん話とされていたさね。とにかく町では、鉱夫たちが毎日、元気よく仕事をしてくれることが第一だった。賭博やけんかも多少のことなら目をつぶっていた。それに“別荘”は入れ替わりが激しかったから、そんなに長居する女はおらんかった。そうやって子連れのまま、流れ流れていったんだろうねえ。その子たちがいまどうしているか、いまも生きているのか……考えると涙が出てくるさね」
そんな家庭にくらべたらどうだというのだ。夫が失業寸前だとしても仕事なんて探せばいくらでも見つかるはずだ。晶代だっていまの仕事にしがみつくつもりだ。芽以に悲惨な思いをさせるなんて考えるだけで恐ろしい。
「でも心配することはないさね。いまから行くのは古き良き時代を懐かしむだけの時間旅行さね。健全そのものの温泉と温泉街でゆっくりされるといいさね」




