珈音の覚悟
「珈音! 連中の好きにさせていいんですかっ!」
エルゼの声が珈音の意識を呼び戻した。
「別にいいよ」
珈音の返事はそっけない。公安としての仕事を放棄したかのように。
「どうしてですか!」
当然だがエルゼは釈然としていない様子。
男はエルゼの背中に汚い靴を乗せ、
「ふん、ずいぶんと諦めのいいガキだ。おい赤髪の女、お前もコイツを見習って大人しく――……」
「だって」
珈音が男の言葉を切った。
「こんなゴロツキが“街”に勝てるわけないし」
「なんだ……と?」
目をつり上げる男だが、男の持つスマホが振動した。
「おい、どうした? トラブルか?」
『来るなッ! うわあああああヤメッ! おい! 助けてくれ!』
「な、なんだ!?」
スピーカーからは、珈音とエルゼにも聞こえるような音量で、悲鳴と助けを求める声が寂しい路地に響いたのだ。
「おい! 対策は万全だっただろう!」
やれやれと、それ見たことかと言わんばかりに珈音は、
「言っとくけど、街を守る主役は《治安維持対策本部》じゃないよ。街だから」
「ハァ?」
「それにあんたたちの目的……“限りなく神に近づいた人類”だっけ? それ、目指そうとする意味ないよ」
「どういう……ことだ」
ぶわっと吹き出た冷や汗が、男の無骨な顔を濡らしていた。袖で乱暴に汗玉を拭う男。一方でエルゼもまた、固唾を呑んで珈音の言葉に注目する。
「だって〈.orion〉の正体って――ヒトから進化した《情報生命体》が、街のネットワークを巡り巡って生み出す演算システムのことだから」
奇妙な間が生まれた。
男もエルゼも、珈音の説明を飲み込むのに時間を要している。
「情報……生命体? ヒトが……デジタル化した存在……ということですか? AIとは……違いますよね」
先にエルゼが確認。珈音はうなずく。
「反吐が出る研究者が考えたヒトの進化理論の賜物。ヒトの意思を持った街に勝てるわけないよ」
「ふざ……けるなよ。それってつまり、俺たちの行動はすべて監視されているってことかッ?」
「そういうこと。たとえ何か対策してようとも、デジタルの中にヒトの意思が働くから、敵の対策を破って街を守ればいい。それだけの演算ができちゃうわけだし」
「先ほど珈音が〈オリオンタワー〉とわざわざ伝えたのも、見えない《情報生命体》に伝えるために……?」
「正解。何十人かいるから、誰かが聞いてくれてたんじゃないかな。この街、全部監視されてるし」
「進化した人間が街のネットワークに潜ってるってことかよ……クソがッ」
「うん。《情報生命体》を介せば街のあらゆるロボットにも、システムにも簡単に命令が届く」
「なるほど、だから高校生でも公安が務まる……」
エルゼが独り言を口走る。
「クソッ、雇い主の目的はとっくに達成されてるってわけか!?」
頭を抱え、ふらついた足で狼狽える男だが、
「いや、話は早いじゃないか! だったらその《情報生命体》の理論ってヤツを持ち帰ればいいってことだ! 論文でもなんでもいい、よこせ! さもなければ本気で殺――……」
「隙ありですよ」
横倒れのエルゼが、男の足を掬うように滑らかな蹴りを入れる。
「うあっ!」
バランスを崩した男は尻餅をつき、すぐに形勢逆転。エルゼは男の背を足裏で蹴り、
「さんざん足蹴りしてくれましたね。こちらだってプライドがあるんですよ?」
うつ伏せの男に馬乗りになって、後ろに引っ張った両手に手錠をかける。
「確保!」
「しまった!」
しかし、
「動くな!」
声を出したのは、当初追いかけられ、粘着弾で倒れていた男だ。男は粘着状態から立ち上がり、警戒してかずいぶんと離れた位置でエルゼに拳銃を向け、
「仲間を解放しないと撃つ!」
だが銃口を向けられても、エルゼは動じなかった。
「構いませんが。こちらは撃たれる覚悟で臨んでいます」
髪色に似た赤い瞳は揺らがない。
「そんなこと言わないで、エルゼ」
珈音は辛うじて空いている左手で拳銃を握るが、重さに腕が耐えられずにグリップを地面に立てる。網でもみくちゃにされた体勢ながらも銃口を敵に向けたのだ。
「珈音、その体勢では無茶ですよ。それに右利きじゃありませんか?」
「エルゼは一つ勘違いしてる」
「……?」
「たしかに《情報生命体》や〈.orion〉は強力だよ。人数の少ない《治安維持対策本部》が成り立ってるのもそのおかげだし。でもね、私が公安やれてるのはそれだけじゃないから」
銃を構える男は、
「銃を下ろせ! さもなければ撃つぞ!」
珈音は目を狭めて――……。
……――。
『わたしを! わたしを《治安維持対策本部》に入れてください!』
判決が確定して、カウンセリングに来た男に当時の珈音は言った。相手が誰だかよくわかっていなかったが、それでも。
『悪さをした人をつかまえたいです! だれも死なせたくないです! それで罪をつぐなわせてください!』
それを聞いた神代総司は、
『施設で懲役刑を受けるよりもうんと地獄を見ることになるが、それでも構わなければな。君が大きくなったらまた意思を聞かせてもらおう』
地獄を見る覚悟ならいつだって変わらない。
悪さをする連中は必ず捕まえたいから。罪のない誰かを傷つけたくないために。
「さっさと撃てばいい。撃つ勇気がないヤツの言うことだから、それ」
パァン! 妙に静かな破裂音。黒光りのそれはおもちゃの銃なのかと疑いたくなるほどの細い銃声は、科学の街で編み出された技術の結晶。
「ガァあああああああああああああ!」
弾丸は男の手にヒットし、千切れた数本の指の肉とともに拳銃が宙を舞う。その一方でエルゼはすでに駆け出していて、手の機能が死んだ男を捕らえて手錠で確保する。指の断面から垂れ流れる血液は、手持ちのガーゼで強引に指を縛り上げることで止めた。
「他に仲間はいませんか? すべて〈オリオンタワー〉に潜入中ですか? 正確に答えてください」
「あガッ……ああ! ここには俺たちだけだ! 残りはタワーだ! た、助けてくれ!」
すると、完全に解けなかったのだろう。身体にネットを巻き付けながら珈音がのそのそ歩いてきて、
「安心して、命までは奪わないよ。裁判を受けてしっかり償ってもらうから。あ、スパイ罪が認定されたら死刑だけど」
たとえ死刑が濃厚だとしても、この場では殺害しない。生きた状態で捕らえて、動機や関係者を調べたうえで判決し、しっかりと罪を償ってもらう。それが法治国家としてのあり方で、《治安維持対策本部》としての役目でもあるのだ。
「さらっと怖いことを言いますね……。珈音はかわいいだけじゃないみたいです」
「総司さんからも教わっただろうけど、原則相手は生かして捕らえてね。スパイの感覚で殺しちゃダメだから。ほんとは無傷が望ましいけど、会話に支障がない程度ならOK」
「了解ですよ。にしても、あの体勢で見事に狙撃するとは。恐れ入りました」
「ふふん、強さを理解してもらえたかな。VR使ってすっごく訓練した」
年相応に、もしくは幼い仕草で胸を張った彼女だが、
「いつかは全部街に任せることになるかもしれないけど、それまでは私たちも努力も必要だよ。この街の犯罪は私が見過ごさないから」
その眼差しには、過去と経験が嫌というほど滲み出ていた。




