最初の黒字と小さな祝杯
監査官が来るまで三日。
短い。短すぎる。
だから私は寝る時間を削ってでも、やるべき順番を切り分けた。
一つ、北境守護誓約の副本を探す。
二つ、燃やされる前に現存文書を複写する。
三つ、砦の内部収支を少しでも立て直し、監査官が来ても「崩れていない」と示せる状態にする。
「欲張りですね、奥様」
ハンナに淡々と言われた。
「知っています。でも誰かがやらないと」
「ではせめて、紅茶を濃くします」
「助かります」
まず礼拝堂へ向かった。
グランデル砦の礼拝堂は城館の北西、古い石塔の脇にひっそりと建っている。華美ではないが、掃除は行き届いていて、祭壇の前には季節の小さな花が供えられていた。
迎えてくれたのはシスター・ロザリー。三十代半ばほどの、柔らかな声と芯の強い目を持つ女性だった。
「先々代の奥方の封印庫、ですか?」
私が事情を説明すると、ロザリーは少し驚きつつも頷いた。
「ございます。とはいえ、今ではほとんど開かれません。閣下の許可は?」
「ここに」
私はルシアンの署名入り許可状を見せた。彼は昨夜、「好きに使え」とだけ言って印を押してくれた。だいぶ雑な信頼だが、ありがたい。
封印庫は祭壇裏の小部屋にあった。
鍵を開けると、古い木箱がいくつか並んでいる。遺品、祈祷書、家系の記録――そして一番奥、蝋で封じられた平たい箱が一つ。
触れた瞬間、私の視界に淡い金色の線が走った。
「これです」
箱の中には、色褪せた羊皮紙の束と、小さな銀の印章が収められていた。羊皮紙の一枚目には、こうある。
『北境守護誓約補遺 大戦終結後十年を限り、臨時負担を解除する』
私はその場で息を呑んだ。
臨時。
解除する。
つまり、今の恒久的な特別負担は違法改変だ。
しかも補遺には、当時の国王だけでなく王妃と辺境伯夫人の連署があった。片方だけでは改変できない形式で組まれている。後年の追記は、この補遺を意図的に外さなければ成立しない。
ロザリーが覗き込み、顔を曇らせた。
「……これは、ひどい」
「ええ。ひどいです」
銀の印章にも見覚えがあった。先々代辺境伯夫人の個人印だ。つまり副本は正規のものとして十分な価値がある。
私はその場でハンナに写しを取らせ、原本は再封印した。持ち歩くより、ここで保管したほうが安全だ。
礼拝堂を出る頃にはもう昼だったが、休む暇はない。
午後はトマスと契約を結び、塩と薬草の納入を確定。支払計画は三か月に分割し、優先順位を公開することで利率をさらに下げさせた。トマスは文句を言いながらも、最終的には笑ってサインした。
「奥様、値切り方が貴族らしくありませんね」
「褒め言葉として受け取ります」
「ええ、商人にとっては最高の褒め言葉です」
その日の夕方、私は城館の中庭に大きな黒板を設置させた。
支払予定一覧。
未払い賃金の消化順。
今月の配給量。
修繕予定箇所。
新規納入予定。
貴族の城でこんなものを掲げる例はあまりないらしく、使用人も兵も最初は遠巻きに見ていた。けれどベルナールが自ら「異議がある者は私か奥様へ」と告げると、少しずつ人が近づいてくる。
「鍛冶場の炭、今週は本当に増えるのか?」
「兵舎の毛布は南棟から先ですか?」
「洗濯場の桶、壊れたものを交換しても?」
質問に一つずつ答え、優先順位を説明する。できないことはできないと言うが、いつになるかは必ず示す。
前世で学んだ。人は不公平より、不透明に怒る。
日が暮れる頃、会計室で今週分の仮締めを終えた私は、何度も計算盤を弾き直していた。
厨房の無駄削減。
横流し停止。
トマスとの後払い契約。
使用人の現物支給再編。
そして最後の数字を置いた瞬間、私はつい机を叩いた。
「……出た」
扉の外にいたハンナが顔を覗かせる。
「何がですか」
「黒字です」
「まあ」
「ほんの少し。銀貨十三枚分ですけど」
城館運営の週次収支が、やっと赤から黒へ転んだ。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が熱くなる。
前世では何億の数字を扱ってもこんな気持ちにはならなかった。きっと、今ここでは数字の向こうにいる人の顔が見えるからだ。
夜、簡素な食堂で小さな祝杯が開かれた。
祝杯といっても豪華なものではない。少しだけ厚く切ったパン、干し肉の煮込み、いつもより具の多いスープ、そして薄めた果実酒。それでも皆の顔は明るかった。
ベルナールが杯を持ち上げる。
「城館運営、今週の収支が十三枚ながら黒へ戻りました。奥様の働きに」
控えめな拍手が起きる。
私は少し居心地が悪かった。
「皆さんが協力してくださったからです。私一人では何も」
「謙遜はいい」
低い声がして、ルシアンが席を立った。
皆の視線が集まる中、彼は私の隣へ来て言う。
「リディア・ヴァルティエ夫人を、本日付で城館会計監督とする。厨房、倉庫、使用人の給与、日常支出に関しては彼女の承認を優先する。異議がある者は私へ直接言え」
食堂が一瞬静まり、それから今度はさっきより大きなざわめきが広がった。
ベルナールがにっこりと笑う。
「異議のある者はおりますかな」
誰もいない。
というより、数人の兵が明らかにほっとした顔をしていた。支払いの順番が分かるのは、現場にとっても安心なのだろう。
私は立ち上がって一礼した。
「ありがとうございます、ルシアン様」
「結果に対して権限を渡すだけだ」
「それでも、助かります」
ルシアンは少しだけ視線を逸らした。
ああ、この人は真正面から礼を言われるのがあまり得意ではないのかもしれない。
乾杯のあと、食堂の空気が和らいでいく。誰かが「帳簿の魔女に万歳」と言って、別の誰かに肘で小突かれていた。聞こえている。
食事の終わり頃、ルシアンが隣で低く言った。
「監査官が来ても、今日みたいな顔をしていろ」
「どんな顔ですか」
「勝てると分かっている顔だ」
私は少しだけ目を瞬いた。
そんなつもりはなかった。でも、そう見えたのなら悪くない。
「勝ちますよ」
「言うと思った」
ほんのわずかに、彼が笑った。
その瞬間だけ、食堂の灯りが少し明るく見えた。




