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黒い契約書の署名

トマス・ローエンから届いた条件書を見た私は、思わず感心した。


 塩、布、薬草、釘。必要物資の単価は良心的で、支払期日も辺境の事情に合わせてある。利息も王都の商会に比べればかなり低い。もちろん完全な善意ではなく、将来の独占を狙った布石も見えるが、少なくとも今すぐ首を締めに来る条件ではなかった。


「悪くありません」


 私が言うと、ベルナールが慎重に頷いた。


「ただ、砦には前金を払う余力がほとんど」


「ええ。なので信用を売ります」


「信用を?」


「支払いの見える化です。誰にいくら、いつ返すのかを公開する。相手に『この砦は逃げない』と分からせれば、前金がなくても契約は組めます」


 ベルナールは感心半分、不安半分の顔をした。


「そんなことをして、他の債権者が騒ぎませんか」


「騒ぎます。でも順番を明記すれば、少なくとも無秩序にはなりません」


 前世で嫌というほど見た。資金繰りが厳しい時ほど、情報の透明性が命だ。


 私はさっそく返書を作り、支払優先順位と納入条件を整えた。トマスとは取引できる。ただし街道保険の約款が曖昧だったので、その修正も指示する。


 その作業の最中、どうしても気になっている一点があった。


 北境守護誓約原簿の追記だ。


 あれを書き換えた者は、辺境伯の命を担保に取ることを知っていた。つまり契約魔法に通じた人間であり、しかも中央の権力に近い。


 私は地下文書庫へ通う回数を増やした。


 ある晩、原簿の末尾を繰っていて気づく。追記欄の署名に、微かに別の印が重なっているのだ。王印ではない。もっと個人的な、家紋に近い刻印。


「グランツ家……?」


 思わず声に出た。


 蜜蝋の押印痕に残る輪郭は、セオドアの持つ印章とよく似ていた。正確には、その父である財務卿グランツ侯爵家の紋。


 背筋が冷える。


 私の婚約破棄。辺境への押しつけ。中央へ流れる特別負担。全部が一本の線で繋がり始めた。


「……燃やされる前に見つけられてよかった」


 誰にともなく呟いた、その時だった。


 鼻をつく焦げ臭さ。


 私は弾かれたように顔を上げた。文書庫の入口側から、うっすら煙が流れ込んでくる。


「ベルナール様!」


 返事はない。


 私は裾を掴んで階段へ駆けた。上の小部屋に出ると、保管庫脇の古紙箱が燃えている。火はまだ小さいが、この部屋は紙だらけだ。放っておけば一気に回る。


 近くの水桶をひっくり返して火元へ叩きつける。じゅっと音がして煙が広がった。


 その向こうで、黒い外套の影が動く。


「止まりなさい!」


 叫ぶより先に相手は窓へ走った。私は反射的に机上のインク瓶を掴み、背中へ投げつける。見事に外套へ当たり、黒布に青い染みが広がった。


 その瞬間、影がよろめく。


「イザベル隊長! 賊です!」


 運よく近くにいたのだろう、階上から兵の足音が雪崩れ込んできた。逃走者は窓を乗り越えようとしたが、外で待っていた衛兵に取り押さえられた。


 ほどなくして、縛られた男が私の前に引き出される。


 見覚えがあった。会計室の端で書類整理をしていた若い書記だ。


「なぜ」


 私が問うと、男は唇を震わせた。


「お、俺は命じられただけだ……。古い契約書は紛失扱いにしろと、王都から……!」


「誰に」


「グランツ侯爵家の出入り商人だ! 金を渡されたんだ!」


 イザベルが舌打ちする。


「予想以上に分かりやすいな」


「慌てているんでしょうね」


 私は焦げた原簿を抱え直した。幸い主要部分は無事だ。ただ、誰かに気づかれている。私が契約の異常に近づいたことが。


 そこへ、外から速い足音がした。ルシアンだ。


 彼は燃え跡と捕縛された書記を見て、一瞬で状況を察したらしい。視線が私へ止まる。


「怪我は」


「ありません。インク瓶を投げただけです」


「……何をしているんだ、君は」


「文書の防火です」


「そういう意味ではない」


 低い声の奥に、わずかな苛立ちと――安堵が混じっている気がした。


 私は手元の原簿を差し出した。


「これを燃やされたくなかった理由が、ほぼ確定しました。特別負担の追記に、グランツ家の紋が重なっています」


 ルシアンの目が鋭くなる。


「見せろ」


 彼は焦げ跡の残る頁を見つめ、無言で息を吐いた。


「……やはり中央か」


「ええ。でも王印だけではありません。おそらく財務卿家が主導しています」


「証拠としては弱い」


「だから補強が必要です」


「何が要る」


「原契約に付属していたはずの別紙。特別負担が本来どういう条件だったかを書いた副本です。末尾の記載に、『別紙参照』があるのに本文がない」


 ベルナールが眉を寄せる。


「副本なら、礼拝堂の封印庫かもしれません。先々代の奥方が、重要書類を信仰施設に移す習慣を持っておられた」


「では明朝――」


 言いかけたところで、伝令の兵が駆け込んできた。


「閣下! 王都から早馬です!」


 差し出された封書には、王家の紋章と、見慣れたグランツ家の封蝋が並んでいた。


 嫌な予感しかしない。


 ルシアンが封を切る。数行読んだだけで、その表情が冷えた。


「王都より監査官が来る。三日後だ」


「ずいぶん早いですね」


「そのうえ、『特別負担に関する一切の文書を提出せよ』とある」


 提出させて、回収するつもりだ。


 私は焦げ跡の残る原簿を抱き締めた。


「だったら先に、副本を見つけましょう」


 ルシアンは私を見る。


「三日で間に合うと思うか」


「間に合わせます。だって向こうは、燃やしてまで急いでいるんですから。こちらが辿り着ける証拠がある証拠です」


 イザベルがにやりと笑った。


「奥様、そういう顔をする時、だいたい厄介なことを思いついてますよね」


「ええ。だいたい」


 火の匂いがまだ残る文書室で、私は新しいメモを切った。


 礼拝堂封印庫、先々代の遺品目録、グランツ家との取引記録、監査官への提示用写し。


 敵が急ぐなら、こちらも急ぐだけだ。


 帳簿は燃やされる前に、複写してしまえばいい。

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