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帳簿の魔女と欠けた倉庫

数日後、私はイザベルと数名の兵を伴って、グランデル砦の南にあるラーデ村へ向かっていた。


 理由は二つ。ひとつは、徴税記録と実収穫量の差が大きすぎたこと。もうひとつは、村の共同倉庫の修繕費が去年の台帳に載っているのに、実際には工事が終わっていないことだ。


 前者は取り立て過剰か横流し、後者は着服の匂いがする。


「奥様は、本当によくそこまで数字で追えますね」


 馬上のイザベルが呆れ半分に言った。


「現地を見るまでは仮説ですけれど」


「普通の貴婦人は、まず現地へ来ません」


「普通の貴婦人では戦時備蓄の二百俵を見つけられませんでしたから」


「返す言葉がないな」


 ラーデ村は砦から半日の距離にある、小さな麦の村だった。


 畑には春の芽吹きが見え始めていたが、村人たちの顔色は暗い。納屋の壁は歪み、共同井戸の縄は擦り切れている。貧しいというより、持ちこたえるだけで精一杯の状態だ。


 村長宅へ通されると、老人は私たちを見るなり頭を下げた。


「お、お怒りはごもっともで……。今季の納税が遅れておりまして」


「怒りに来たわけではありません。帳簿を合わせに来ました」


「は?」


 だいたい皆、その顔をする。


 私は持参した簡易台帳を開き、質問を始めた。昨年の収穫量、種籾の残り、牛馬の数、病人の数、冬の間に亡くなった人数。村長の妻が途中から泣きそうになりながら、ぽつぽつ答える。


 記録していくうちに、やはりおかしな点が見えた。


 王都へ送られた納税量は、実収穫の三割を超えている。さらに村の帳簿には「緊急貸付」として銀貨が記載されているが、その利息が異常に高い。貸主はグランツ商会の下請け商人だ。


「これ、誰が契約しましたか」


 私が紙を示すと、村長はうなだれた。


「代官殿です。納税が遅れれば村ごと差し押さえると……。印を押さねば春の種も買えぬと脅されました」


 イザベルの表情が険しくなる。


「代官の名は」


「フォスター、と」


 覚えた。後で台帳を掘る。


 私は契約書を広げ、魔力の残滓を指でなぞった。


 あまりに一方的だ。本来なら無効に近い。互いの義務が釣り合っていない契約は、帳簿魔法の観点から見ると歪みが大きすぎて黒ずむ。


「この利息条項は無茶です。貸付時の穀量とも一致していません」


「で、ですが印を押してしまった……」


「強要された契約は争えます。少なくとも、そのまま払う必要はありません」


 村人たちがざわついた。


 その時、外から子供の悲鳴が上がる。


 私たちはほとんど同時に立ち上がった。


 広場へ飛び出すと、共同倉庫の脇にいた山羊が暴れ、その向こうで灰色の小型魔狼が二頭、柵を越えていた。飢えているのだろう。冬明けはこういう被害が出やすいと、イザベルが舌打ちする。


「下がって!」


 兵たちが前へ出る。だが一頭が倉庫の隙間へ潜り込み、積み上げた干し草へ突っ込んだ。このまま火でも出れば最悪だ。


 私は反射的に周囲を見た。


 倉庫の補修は未完。扉の蝶番が弱い。中には乾いた藁と、売る予定の麦。失えば村は終わる。


「イザベル隊長、左の兵を回してください。柵の欠けたところから一頭逃がして、もう一頭を門の方へ」


「何を――」


「倉庫を守るのが先です!」


 イザベルは一拍で判断し、指示を飛ばした。


 兵の動きで魔狼の進路がずれる。その隙に私は村人たちへ叫ぶ。


「水桶を! 扉の前へ、藁をどけて! 子供は家の中!」


 こういう時、具体的な指示は人を動かす。


 混乱した広場が、少しずつ形を取り戻した。


 やがて兵の槍が一頭を仕留め、もう一頭も森へ追い払われる。大事には至らなかったが、村人たちの顔から血の気が引いていた。


「怪我人は?」


「いません、奥様」


 答えたのは、まだ十歳ほどの少年だった。鼻をすすりながらも、水桶を抱えて立っている。


 私は息を吐いた。


「よかった」


 そして改めて倉庫を見る。


 補修費は出ていたはずなのに、壁板は仮止めのままだ。納税で持っていかれ、修繕まで後回しにされたのだろう。


 私は村長へ向き直る。


「共同倉庫の修繕、明日から始めます」


「え……?」


「砦の余り板材を回せるか確認します。利息契約は見直し。春の種籾は立替で貸付台帳を新しく作りましょう。返済は収穫後、無理のない量で」


「そ、そんなことが……」


「できます。しないと来季もっと赤字になります」


 村人たちはぽかんとした顔で私を見る。途中で、誰かが小さく呟いた。


「帳簿の、魔女さまだ……」


 最初は子供かと思ったが、周囲でも同じ言葉が囁かれた。


 たぶん褒めている。たぶん。


 私は曖昧に微笑み、台帳を閉じた。


 村からの帰り道、荷馬車で採れたての情報を整理していると、街道脇の休憩所に商人風の男が待っていた。上質だが派手すぎない外套、細い目、柔らかな笑み。いかにも交渉事が得意そうな顔だ。


「お初にお目にかかります、奥様。トマス・ローエンと申します」


「……砦の御用商人ではありませんね」


「ええ。どちらかと言えば、砦に何度か追い返された側です」


 イザベルが警戒して前へ出る。


「何の用だ」


 トマスは肩をすくめた。


「朗報を持ってきたつもりでしたが、歓迎はされませんか。ここ数日、グランデル砦の支払い遅延が少しずつ整理されていると聞きましてね。もし本当に数字が動き始めたのなら、こちらも取引条件を見直せる」


 私は彼を観察した。


 悪い数字は少ない。少なくとも目先で騙す手合いではなさそうだ。


「何を求めていますか」


「継続的な塩、布、薬草の納入契約です。その代わり、こちらは春から夏にかけてのツケを認める。利息は抑える。あと、街道護送の保険も付けられます」


 つまり、信用供与。


 辺境にとって今いちばん欲しいものの一つだ。


「条件書を砦へ送ってください。確認します」


「即答しないところが、噂通りで安心しました」


「噂?」


「帳簿の魔女が来てから、グランデル砦の鍋が少し濃くなった、と」


 誰だそんな噂を流したのは。


 たぶん厨房だ。


 トマスはにこやかに一礼した。


「私は数字の読める方と話すのが好きです。では、良い返事を期待しております」


 商人が去った後、イザベルが低く言う。


「胡散臭い男だ」


「ええ。でも、使える胡散臭さです」


「奥様の評価基準は独特だな」


 私は苦笑した。


 独特でもなんでもない。前世で鍛えられたただの選別だ。


 砦へ戻る頃には夕暮れになっていた。城壁の上に立つルシアンの姿が見える。彼は私たちの帰還を確認すると、すぐに降りてきた。


「村はどうだった」


「税が重すぎます。代官と貸付商人の契約も不当です。あと倉庫の修繕費が蒸発していました」


「やはりか」


「ついでに魔狼も出ました」


 ルシアンの眉がぴくりと動く。


「怪我は」


「ありません。イザベル隊長が優秀でしたので」


「奥様が指示を飛ばしたからです」


 珍しくイザベルがきっぱりと言った。


 ルシアンの視線が私へ向く。その胸元の黒い荊はまだ消えないが、最初に見た時より、ほんの少しだけ密度が薄い。


「……君は本当に、帳簿だけ見ているわけではないんだな」


「帳簿は人の生活そのものですから」


 私が答えると、ルシアンは一瞬だけ何かを飲み込むような顔をした。


 その表情の意味を考えるより先に、私の頭は次の段取りへ向かう。


 村の修繕、貸付契約の再編、代官フォスターの調査、そしてトマス・ローエンの条件書。


 仕事はまだ山ほどある。


 でも、確かに一つずつ動き始めていた。

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