冷徹辺境伯は、紅茶の時間だけ静かに眠る
翌日から、私の朝は厨房と倉庫から始まった。
誰が何を受け取り、何を使い、何が余ったのか。板札と炭で簡易記録を始めただけなのに、二日目にはもう鍋の中身の濃さが安定し、三日目には使用人たちの顔色が少し良くなった。
食べ物は嘘をつかない。
腹が満ちれば、動ける。動ければ、仕事も回る。仕事が回れば、次の数字が整う。
単純だが、そういう土台ほど軽んじられやすい。
「奥様、本日の洗濯用石鹸ですが、今までの半量で済みました」
「水に溶かしすぎていないからですね。希釈率を決めるだけでだいぶ違います」
「そんなことで?」
「そんなこと、が積み重なると大きいんです」
驚くハンナに答えながら、私は新しい小冊子へ項目を追加した。
厨房在庫、洗濯用品、薪、灯油、針糸。どれも戦場では後回しにされがちだが、欠けると生活も士気も落ちる。
ベルナールは最初こそ半信半疑だったものの、遅配していた使用人の賃金を優先順に整理し、現物支給を組み合わせて補ったところから、露骨に協力的になった。
「奥様のおかげで、文句より提案が増えました」
「人は、見通しがあれば耐えられますから」
前世でも同じだった。先の見えない残業は人を荒ませる。
その日の夜更け、ようやく自室へ戻ろうとした私を、城館付きの医師カイルが呼び止めた。
「奥様、もしお時間があれば、閣下のところへ来ていただけませんか」
白衣代わりの暗緑色の上着を着た青年医師は、困り果てた顔をしていた。
「お怪我ですか」
「怪我、というより……いつもの発作です」
私は無言で頷いた。
案内されたのはルシアンの執務室だった。灯りは落とされ、書類机の上だけに燭台が残っている。椅子にもたれたルシアンは上着を脱いでおり、片手で額を押さえていた。
いつも整っている呼吸が荒い。
そして私の目には、胸元から脇腹へかけて黒い契約線が何本も食い込んで見えた。まるで帳尻の合わない決算が、そのまま肉体へ罰を与えているみたいに。
「下がってくれ」
ルシアンは医師へそう言った。
けれどカイルは一歩も引かない。
「しかし閣下――」
「いい」
結局、カイルは私に「痛み止めも効きにくくて」とだけ残して退室した。
私は机の上を見た。そこには今日の被害報告、修繕見積、不足物資一覧が散らばっている。なるほど。数字が増えるたびに契約が反応しているのだ。
「失礼します」
私は彼の向かいへ座った。
「何のつもりだ」
「症状の確認です」
「医師ではないだろう」
「会計担当です」
「なおさら分からん」
いつもの乾いた返答に、かえって少し安心する。意識ははっきりしているらしい。
私は書類を整えた。
「痛みが強くなるのは、損耗報告がまとまる時間帯ですか?」
「……そうだな」
「逆に、補填の見通しが立つと少し軽くなる」
ルシアンがゆっくり目を上げる。
「どうしてそれを」
「見えているからです。契約線が」
言ってしまった後、室内が静まり返る。
普通なら信じ難い話だろう。でも黙っていても仕方ない。
「帳簿魔法にはいくつか系統があります。私のは数字だけじゃなく、契約の負担も色で見えるんです。あなたに集まっているこれは、領地の欠損が未処理のまま流れ込んでいる状態に近い」
「……だから台帳にこだわるのか」
「はい。正確に把握して仮勘定を置くだけでも、痛みは少し変わるはずです」
「仮勘定?」
「要するに、どこに何が足りないかを未処理のまま放置せず、項目ごとに認識して戻し先を決めるんです。前世でよくやりました」
「前世が便利すぎないか」
「本当にそう思います」
私は新しい紙を引き寄せた。
「読み上げますので、間違っていたら訂正してください。北壁補修、石材不足二十八。木材不足十一。兵の軽傷八名、重傷なし。食糧備蓄、ガーヴィンの横流し分二百俵欠損、回収見込み七十。厨房配給、臨時調整済み――」
書きながら、私は意識して項目を整え、線を引き、分類していく。
すると黒い契約線の震えが、ほんの少しずつ鈍くなった。
やっぱりだ。
未認識の欠損が混ざっていると、契約は全部を一塊の災厄として彼に押しつける。けれど損耗を適切に分類し、どこが誰の責任で、何をどう埋めるかを示せば、魔法の負担も分散する。
「……軽い」
ぽつりと、ルシアンが言った。
「はい。今、だいぶ」
「どういう理屈だ」
「理屈は簡単です。帳簿を閉じずに放っておくと、世界はそれを一番背負える人間に押しつけることがあるんです。理不尽ですが」
「それで君は、放置が嫌いなのか」
「嫌いです。大嫌いです」
前世で散々見た。未処理の仕事は、最後に一番真面目な人へ落ちる。
だから放っておけない。
私は読み上げを続けた。城壁、兵站、鍛冶場、南村の井戸修繕。数字を整理し、仮勘定を置き、戻し先を付記する。そのたびに、彼の胸元の黒い荊は少しずつほどけていった。
やがて、ルシアンの呼吸が穏やかになる。
「……不思議なものだな」
「数字は裏切りませんから」
「人は?」
「裏切ります」
即答した私に、ルシアンは目を閉じたまま、かすかに笑った。
「手厳しい」
「経験則です」
「君の経験則はだいたい物騒だな」
そしてそのまま、彼は椅子にもたれた姿勢で静かになった。
寝息だ。
私は思わず手を止めた。
カイルが言っていた。最近は発作が起きると、夜明けまで眠れないことも多いと。
そんな人が、今こうして眠っている。
灯りの下で見るルシアンの顔は、起きている時よりずっと若く見えた。険しさが消えると、まだ二十代の青年なのだと分かる。辺境伯だの黒狼だの呪いだの、重い肩書きばかり背負っているけれど、本来はそれだけの年齢の人だ。
ふと、彼の指先が机の上でわずかに動いた。
私は反射的に、そこへ自分の手を添えていた。
起こすつもりはなかった。ただ、落ちかけた書類を押さえるついでのような、本当に軽い接触だった。
なのにルシアンの指が、眠ったまま私の袖口を掴む。
驚いて身を固くしたが、振り払う気にはなれなかった。
仕方なく私は片手で書類をまとめ、もう片手はそのままにした。
しばらくすると、カイルとベルナールがそっと戻ってきた。
眠っているルシアンを見て、二人とも目を見開く。
「……本当に?」
カイルが信じられない声を漏らした。
私は小さく頷く。
「帳簿を整理しただけです」
「それで眠るなら、世の治療師は商売あがったりですよ」
「お医者様の領分を奪うつもりはありません」
ただ、放置されていた欠損を棚に戻しただけだ。
ベルナールは静かに毛布を持ってきて、ルシアンの肩へ掛けた。
「奥様もお休みください。今夜は、これ以上増やす数字も少ないでしょう」
「そうですね」
私は頷き、最後に机上の紙を整えた。
その中に、小さな紙片を挟む。
『明日、兵站費の未払い先一覧を作成します』
起きた時に見えるよう、いちばん上に。
執務室を出る直前、私は振り返った。
眠るルシアンの胸元では、黒い荊がほんのわずかだが薄くなっていた。
これならいける。
契約は絶対ではない。歪みには歪みの理由があり、理由があるなら、必ずほどく糸口がある。
その確信が、私の足を少しだけ軽くした。




