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一日で二百俵が消えるわけ

北壁の鐘が鳴った夜、私が最初に向かったのは城壁ではなく厨房だった。


 戦えない人間が前線へ出ても邪魔になるだけだ。前世でも現場が混乱している時に、経理が格好つけて前へ出るとろくなことにならなかった。後方の混乱を減らすほうが、よほど戦力になる。


「料理長、今ある鍋を全部使ってください。兵と衛兵、夜勤の鍛冶場、見張り台に運ぶ分を分けます。濃さは後で調整するので、まず塩と水分を切らさないこと」


 私が言うと、料理長は目を白黒させた。


「し、しかし奥様、備蓄が……」


「だから倉庫を見ます。ハンナ、板札と炭を。誰に何杯渡したか、その場で記録します」


「はい」


 慌ただしい足音の中、私は倉庫へ向かった。


 そこには倉庫番と数人の兵がいて、木箱を開けながら焦った声を上げていた。明日まで持つはずの乾パンと穀袋が、想定より明らかに少ない。


「何が起きているのですか」


 私が問いかけると、倉庫番の男が青ざめた顔で振り返った。


「お、奥様……! その、三日前に北村への緊急搬出がありまして」


「伝票を見せてください」


 男は固まった。


 そこへイザベルが駆け込んでくる。


「奥様、北壁は小規模です。ただ、長引く可能性がある。補給の確認を――」


「ちょうどよかったです。緊急搬出の記録を」


 倉庫番が差し出した紙片を受け取った瞬間、私の視界に真っ赤な不一致が浮いた。


 搬出二百俵。

 受領署名あり。

 でも受領者の筆跡と印が別人。

 さらに、その日の護送馬車の出門記録がない。


「……なるほど」


「何か分かったのか?」


 イザベルが鋭く問う。


 私は伝票の下部を指でなぞった。


「二百俵が消えた理由です。誰かが、出していない荷物を出したことにしています」


「は?」


「この受領印、三年前に退役した兵士のものです。しかも日付のインクだけ新しい。帳面上だけで物資を抜いている」


 倉庫番が膝から崩れ落ちた。


「わ、私は命じられただけで……! 会計と兵站の責任者、ガーヴィン様が! 毎季少しずつ抜いても気づかれないと……!」


 最悪だ。


 よりによって戦時備蓄を。


 イザベルの目つきが殺気を帯びる。


「ガーヴィンは今どこだ」


「南棟の兵站室、かと……!」


「捕らえろ」


 短い命令で二人の兵が走っていく。


 私はすぐに思考を切り替えた。


「今ある穀袋の数を数えてください。乾パン、塩漬け肉、豆、根菜。足りない分は薄めてでも全員の口を湿らせることを優先します。戦闘中の兵には濃いもの、待機と雑役には薄いもの。夜明けまでなら持たせられるはずです」


 イザベルが私を見る。


「計算できるのか」


「できます。前世でこういう修羅場は慣れています」


「また意味の分からないことを」


「説明は後で。今は人を」


 私は板札に必要量を書き付け、厨房と倉庫、城壁上の補給人数を割り振った。兵の人数は会計室でざっと見ていたし、見張り台ごとの当直表もベルナールが渡してくれていた。情報はあった。使うだけだ。


 そこへ、激しい足音と共にルシアンが現れた。外套の肩には雪と土が付き、抜き身の剣からは黒い魔物の血が滴っている。


「北壁は押し返した。だが二刻は警戒を解かない」


 言いながら彼の視線は、縄で縛られたガーヴィンへ向いた。兵たちに引き立てられ、兵站責任者は顔を真っ青にしている。


「これは?」


 私は簡潔に答えた。


「戦時備蓄の横流しです。帳面上の幽霊馬車で二百俵消しています」


 ルシアンの目が冷たく光った。


 ガーヴィンが這いつくばる。


「お、お許しを! 中央への特別負担で回らなくなった分を、どうにか帳尻を――」


「私腹を肥やすために、だろう」


 ルシアンの声に温度はなかった。


「兵の命より、自分の懐を優先した者を許す理由はない」


 ガーヴィンはなおも言い募ろうとしたが、イザベルの合図で口を塞がれた。


 その処分の厳しさに、倉庫の空気が張る。けれど甘さを見せれば再発する。これは現場の信頼に関わる。


 ルシアンは私へ向き直った。


「補給は」


「夜明けまでは持たせます。ただし次は無理です。明日、倉庫と厨房と兵站の帳簿を全部洗います」


「君が?」


「他に今すぐできる人がいません」


「……そうだな」


 短い肯定だった。


 その一言で、周囲の兵たちの空気が変わる。辺境伯が認めた。つまり私の指示は一時的な思いつきではなく、正式なものになる。


 私は料理長に鍋の指示を飛ばし、ハンナと一緒に配給札を作った。兵たちは最初こそ「奥様が?」という顔をしていたが、いざ補給が途切れず届くと黙って受け取った。現場は結果に従う。


 夜更け、北壁の警戒がようやく一段落した頃、私は配給表を見直しながら深く息を吐いた。


「奥様」


 声をかけてきたのは若い兵士だった。両手に空になった木椀を持っている。


「スープ、ちゃんと回りました。ありがとうございます」


「礼を言うのは、作った厨房と運んだ皆さんへ」


「でも、奥様が指示してくれなかったら、たぶん途中で尽きてました」


 照れくさそうにそう言われて、私は少しだけ目を瞬かせた。


 前世では、数字を合わせても誰も褒めてくれなかった。合っていて当然だったから。


 今は違うらしい。


 その後、会計室へ戻ると、机の上にはベルナールが置いた温かいミルクがあった。


「皆、少し落ち着いたようです」


 老執事はそう言って目を細める。


「奥様が来られたその日に、二百俵の行方が判明するとは思いませんでした」


「たまたまタイミングが悪かっただけです。いえ、この場合はよかった、でしょうか」


「少なくとも、次の被害は防げました」


 私は頷き、配給記録を帳簿へ転記し始めた。


 インクの匂いが落ち着く。数字がある場所は、私には呼吸しやすい。


 そこへルシアンが再び現れた。さっきより血の匂いは薄いが、胸元の黒い荊はさらに深くなっている。


「ガーヴィンの処分は明朝決める。倉庫番は証言次第で減刑だ」


「妥当だと思います」


「君には礼を言うべきか」


「では、台帳の閲覧許可でお願いします」


 即答した私に、ルシアンがわずかに唇を引いた。


「本当にそればかりだな」


「一番必要なので」


「分かった。明日から厨房、倉庫、兵站帳簿は君の確認を通せ」


 私は顔を上げた。


「正式に?」


「ああ。ついでに、誰かが反対したら私の名を使え」


 その言い方があまりにも自然で、私は一瞬言葉を失った。


 信頼、とまではいかなくても、少なくとも使える駒以上には見てもらえたらしい。


「ありがとうございます」


「礼は要らない。今日、君が二百俵分働いたからだ」


 そう言って彼は踵を返しかけ、ふと立ち止まる。


「……無理はするな。顔色が悪い」


「それはお互い様です、ルシアン様」


「私は慣れている」


「慣れた損耗ほど危険です」


 思わず返した私に、ルシアンは何か言いたげな顔をしたが、結局何も言わずに去っていった。


 残された私は、彼の背中に伸びる黒い契約線を見つめる。


 二百俵の欠損を埋めただけで、あの呪いはわずかに薄くなっていた。


 やっぱり。


 この砦の赤字は、そのままルシアンを削っている。


 ならば私のやることは一つだ。


 欠損を潰し、不正を塞ぎ、契約の歪みを暴く。


 まずは明日、台所からだ。

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