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呪いは家計簿よりも質が悪い

その夜、私は食事と入浴を最短で済ませると、会計室へ戻った。


 ベルナールは最初こそ「本当に今夜なさるのですか」と控えめに止めようとしたが、私が袖を捲って机に向かったのを見るなり、諦めたように古い帳簿の束を運んでくれた。ついでに温かいお茶まで置いてくれる。とても良い上司――ではなく執事である。


 ハンナは無言で追加の紙束と予備のインク壺を用意した。優秀な補佐役は貴重だ。


「夜更かしはお肌に良くありませんよ、奥様」


「分かっています。でも欠損の放置は領地にもっと良くありません」


「それを奥様が今夜一人で背負う必要はございません」


「一人で背負うつもりはありません。ただ、どこから崩れているのかを知りたいだけです」


 ハンナは少しだけ表情を和らげ、「では毛布だけ置いておきます」と言って下がった。


 紙を開く。


 一冊目、今年度の食糧台帳。二冊目、昨年度の軍需記録。三冊目、徴税記録。四冊目、修繕費目録。


 私の視界に、数字の糸が浮かぶ。


 赤い欠損、灰色のごまかし、黒い不正。


 帳簿魔法は便利だが万能ではない。嘘を暴くには手間がいる。だが、どこが怪しいかを最初に指し示してくれるだけで、作業効率は劇的に上がる。


 私は前世仕込みの速さで紙をめくり、メモを取り、横断で突合した。


 結果、二時間で見えてきたのは、ひどく嫌な全体像だった。


 食糧不足は事実。けれど不足率がおかしい。単純な不作では説明できない。

 修繕予算も削られている。だが城壁の応急補修は現場が自腹同然で埋めている。

 兵の給与遅延は三か月。

 民間からの買い上げ代金はさらに遅い。

 その一方で、毎季ごとに一定割合の物資と金が「特別北境守護負担」という名目で王都へ送られている。


「……こんな項目、聞いていない」


 私は独り言を漏らした。


 負担率は毎季一二パーセント。景気が悪くても、凶作でも、容赦なく固定で抜かれている。しかも使途報告がない。


 これでは黒字になるわけがない。


 さらに最悪なのは、その負担項目が魔法的な契約として根付いていることだった。台帳に触れた指先から、嫌なざらつきが伝わってくる。単なる税ではない。誓約だ。


 誰がこんなものを結ばせたのか。


 答えを探して書庫の一覧を確認していると、ベルナールが小さな鍵束を持って戻ってきた。


「奥様。もし過去の領主契約書をご覧になるなら、地下保管庫のほうが早いかと」


「案内していただけますか」


「……本当に行かれますか」


「ええ。ここまで来ると、続きが気になりますので」


 会計室の裏階段を下りると、石造りの狭い通路が続いていた。燭台の灯りが揺れ、湿った空気が肌に触れる。城館の地下には古い文書庫があり、代々の領主契約や軍務記録が封じられているらしい。


 重い鉄扉をベルナールが開けた瞬間、私の視界が真っ黒に染まりかけた。


 大量の契約線。


 黒い糸の束が、文書棚から天井を這い、砦全体へ伸び、最後には一点――ルシアンのいる方向へと集まっている。


 息が詰まる。


「……これ、は」


「奥様?」


「いえ、少し……予想以上だっただけです」


 棚を探る。古い皮表紙の契約書、国王の印、辺境伯の署名、戦時条項、徴発協定。


 その中で一冊だけ、私の手に触れた瞬間に熱を持つものがあった。


『北境守護誓約原簿』


 開く。


 最初の頁は正しい。国境を守る代わりに、辺境伯家へ一定の税免除と備蓄優先権を与える契約。兵站と修繕の責任は王都と辺境で分担。健全な条文だ。


 なのに後半、三代前の追記から様子が変わる。


 備蓄優先権は縮小。

 中央借入の利息追加。

 不足分は辺境伯家当主の魔力で補填。

 特別北境守護負担の新設。


 そして末尾には、近年のものと思しき追記があった。


『当代辺境伯ルシアン・ヴァルティエは、王国防衛の永続責務を負う』


 永続。


 嫌な言葉だ。業務委託契約に永続責務をねじ込むなんて、前世の法務部が見たら卒倒する。


「ベルナール様。これ、昔からあるものですか」


 ベルナールは契約書の頁を覗き込み、深く皺を寄せた。


「その原簿の存在は承知しておりますが、詳細を確認できる立場には……。ただ、特別負担が重すぎるとは、先代の頃から皆感じておりました」


「先代というと」


「ルシアン様のお父上です。病を得られ、急逝されました」


 私は黒い契約線を見た。


 急逝、ね。


 たぶん病だけではない。


「誰か、この追記を精査したことは?」


「中央からの監査は何度か。しかし、毎度『王命による正当な改定』とだけ」


 王命。


 便利な言葉だ。責任の所在が一気に曖昧になる。


 その時、背後の石床に足音が響いた。


 振り向くと、地下文書庫の入口にルシアンが立っていた。外套も羽織らず、片手に燭台だけを持っている。その顔色はいつもより悪く、胸元の黒い荊は痛々しいほど濃かった。


「ベルナール。夫人をこんな所へ連れて来たのか」


「申し訳ございません、私が止めきれず」


「違います。お願いしたのは私です」


 ルシアンは私と契約書を見比べ、静かに歩み寄ってきた。


「何を見つけた」


「見つけたというより、確認しました。グランデル砦の赤字は、単なる不作や辺境の不利ではありません。この契約自体が、領地を削る構造になっています」


 ルシアンの目が細くなる。


「……そこまで分かるのか」


「はい。それに」


 私は視線を上げた。


「この契約の不足分、あなたに流れていますよね」


 ベルナールが息を呑む音がした。


 ルシアンは数秒黙り、それから低く答えた。


「そうだ」


 あっさり認められて、逆に驚いた。


「歴代の辺境伯は、契約で足りない分を自分の魔力と命で埋めてきた。王都は国境が保てばよかった。私も同じだ」


「同じ、で済ませる話ではありません。これは責務ではなく搾取です」


「搾取であろうと、国境が崩れれば民が死ぬ」


「だからこそ仕組みから変えるべきです」


 言い切った私に、ルシアンはしばらく何も言わなかった。


 冷たい瞳の奥に、怒りではなく、ひどく古い疲労が見えた。


「変えようとして変えられるなら、誰も苦労しない」


「やってもいないなら、なおさら変わりません」


「君はいつもそうなのか」


「はい?」


「そんなふうに、無謀なことを当然のように言うのか」


「無謀ではありません。会計上の異常が見えているだけです」


「それを世間は無謀と呼ぶ」


 少しだけ、ルシアンの口調が柔らいだ気がした。


 その瞬間だった。


 城館の上から、鋭い鐘が鳴り響く。


 続いて、外で兵が走る音と怒号が重なった。


「北壁だ!」という声が遠くから飛ぶ。


 イザベルのよく通る指示も聞こえた。


 ルシアンが踵を返す。


「魔物か」


「ルシアン様!」


 私が思わず呼び止めると、彼は振り返った。


 燭台の火が彼の横顔を照らし、胸元の黒い契約線が大きく脈打つのが見えた。


「今夜の不足分、またあなたに来ます」


「知っている」


「なら、後で必ず台帳を見せてください。全部です」


 ルシアンは一瞬だけ、呆れたように息を吐いた。


「戦闘の最中に言うことがそれか」


「重要事項です」


「……分かった。生きて戻れたらな」


 そう言って彼は地下を駆け上がっていった。


 私は手元の原簿を見下ろす。


 黒い契約線が、まるで血管のように頁の上を這っていた。


 この砦が赤字なのは、運が悪いからでも、辺境だからでもない。


 誰かが、そうなるように勘定を組んだのだ。


 ならば。


 帳簿は、必ずひっくり返せる。

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