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赤字だらけの砦都市

私が王都ルーメルを発ったのは、婚約破棄からちょうど七日後の朝だった。


 花嫁行列と呼ぶにはだいぶ質素な一団だったと思う。飾り立てた馬車は一台だけ、護衛は必要最低限、持参金も控えめ。その代わり、帳簿箱と筆記具、計算盤、白紙の束だけはしっかり積んだ。


 同行する侍女のハンナは、二十二歳の落ち着いた女性だった。栗色の髪をきっちりまとめ、私の少々変わった指示にも眉一つ動かさない。


「本当にこちらの箱を一番奥へ積んでよろしいのですか? 普通は宝飾品を……」


「宝飾品は盗まれても生活に困りませんけれど、台帳は困ります」


「……左様でございますか」


 理解しきれない顔をしつつも、彼女は頷いた。優秀だ。


 王都を離れるにつれ、街道の景色は見るからに寂しくなっていった。


 整った石畳はひび割れ、宿場町の看板は色褪せ、畑には手入れの行き届かない区画が目立つ。税の取り立てだけが先に立ち、投資が追いついていない土地の顔だと、私の目と前世の経験が告げていた。


 三日目の夕方、街道沿いの旧徴税所を見かけた時、私の視界にふと赤い数字が浮かんだ。


 未回収、未修繕、未配給。


 建物にまで勘定が貼り付いて見えるのは、我ながら便利なのか不気味なのか判断に困る。


 四日目の朝、私たちはようやくヴァルティエ辺境伯領の中核、グランデル砦へ辿り着いた。


 城壁は高い。だが近づいて見ると、石材の継ぎ目には補修の粗さが残り、北門の蝶番は油を切らしている。城壁上を巡回する兵の足取りは揃っているが、槍の穂先は研ぎ直しの跡だらけだった。人は頑張っている。金と物が足りていない。


 そして、私の目に見えたものはもっと露骨だった。


 城壁の上から、砦全体にかぶさるように巨大な赤字の霧が垂れている。


 冗談みたいな光景に、私は思わず息を呑んだ。


「……見事ですね」


「え?」


 向かいに座っていたハンナが不思議そうに首をかしげる。


「いえ、独り言です」


 本音を言えば、ここまで分かりやすく崩れていると、逆にやりがいがある。


 門前にはルシアン本人と、初老の執事、そして女性の騎士が待っていた。


 ルシアンは王都で見た時と同じく無駄のない軍装姿で、辺境の冷たい空気によく馴染んでいた。隣の執事は背筋の伸びた銀髪の老人。女性騎士は褐色の肌に切れ長の目をした、強そうな人だ。


 馬車を降りると、ルシアンが短く手を差し伸べる。


「長旅だったな」


「ええ。でも揺れの少ない馬車で助かりました」


「それはよかった」


 王都で交わした会話と同じく、必要十分なやり取りだった。


 執事が一礼する。


「ベルナールと申します、奥様。辺境伯家に仕えて三十五年になります」


「リディアです。こちらこそよろしくお願いします」


「衛兵隊長のイザベルです。何かあればすぐに申し付けを」


「よろしくお願いします、イザベル隊長」


 周囲の兵や使用人たちの視線が集まっているのを感じる。王都から来た公爵令嬢。どうせ華奢で役に立たないと思われているだろう。別に構わない。最初の印象が低いと後が楽だ。


 案内された城館は、確かに古かった。


 石造りの廊下は冷え込み、窓は高く、装飾は少ない。だけど掃除は行き届いている。ぼろぼろな職場ほど、現場の人が意地で保っていることがある。ここもそうらしい。


 私にあてがわれた西棟の部屋は広かったが、派手さはなかった。必要な家具だけを揃えた、簡素で落ち着く部屋だ。


「荷ほどきはハンナに任せます。私は少し見て回りたいのですが」


 私が言うと、ハンナはさっそく目を丸くした。


「本日ですか?」


「本日です。新しい職場は最初の三日が肝心なので」


 ベルナールが穏やかに割って入る。


「まずは休まれてからでも」


「休む前に実態を把握したいのです。厨房、倉庫、使用人の詰所、できれば会計室も」


 沈黙。


 ルシアンが私を見下ろす。


「到着したばかりだぞ」


「はい。でも、ここでは一日が重いのでしょう?」


 私がそう言うと、ルシアンは数秒だけ目を細め、やがてベルナールに言った。


「案内しろ。ただし無理はさせるな」


「かしこまりました」


 その言葉を聞いた瞬間、周囲の空気が少しだけ変わった。辺境伯が許した以上、誰も表向き逆らえない。


 まず厨房へ行った。


 大鍋の中身は薄い野菜スープ。パンは小さく、塩気も弱い。食材の保管は悪くないが、量が絶対的に足りていない。料理長は恐縮しきった様子で頭を下げた。


「申し訳ありません、奥様。最近は配給が減っておりまして……」


「責めていません。今の在庫表を見せてください」


「ざ、在庫表、ですか?」


「なければ今日から作りましょう」


 次に使用人の詰所。毛布の補修跡、痩せた顔、靴底のすり減り。給与の遅配が目に見える。


 倉庫へ行けば、木箱の数は帳面に比べて少なく、札だけが整然と掛かっている場所があった。典型的な帳尻合わせだ。


 そして会計室。


 古い机、固い椅子、鉄製の書架。私にとっては宝物庫みたいな場所だった。棚に並ぶ台帳へ手を伸ばすと、その何冊かがじわりと赤く光る。


 未払い。

 不一致。

 欠落。

 転記漏れ。

 故意。


 最後の一つに、私は目を留めた。


「ベルナール様。この三年前の軍需台帳、担当者は?」


「……前任の会計官です。昨年、病で退職しました」


「後任は?」


「置けておりません。書記たちが分担してはおりますが」


 人が足りないのだろう。分かる。すごく分かる。


 でも、それだけでは説明のつかない欠損もある。


 私は台帳をぱらぱらとめくった。紙の端に付いた魔力の残滓、筆圧の癖、修正箇所の不自然さ。前世の監査経験とこの世界の帳簿魔法が、ぴたりと噛み合っていく感覚があった。


「奥様?」


「この砦、思っていたよりずっと面白いです」


 つい本音が口をついて出た。


 ベルナールが困ったように瞬きする。


 その時、背後から低い声がした。


「面白い、か」


 振り返ると、ルシアンが会計室の戸口に立っていた。


「普通は、悲鳴でも上げそうなものだが」


「悲鳴を上げても在庫は増えませんので」


「そうだな」


 彼は短く答え、私の手元の台帳へ目を落とした。


 やはり胸元の黒い荊は濃い。王都で見た時より、ここではもっとはっきり見える。砦全体から伸びる細い黒線が、彼に集中していた。


 嫌な予感が、確信に近づく。


 この領地の赤字と欠損は、単なる貧乏や無能ではない。何かがおかしい。


 私は閉じた台帳を抱え直した。


「ルシアン様」


「何だ」


「今夜、この砦の過去の台帳を可能な限り見たいのですが」


「全部か?」


「できれば」


「眠らなくてもいいのか」


「前世で鍛えられています」


「意味が分からないな」


「私もです」


 ルシアンの横で、イザベルが小さく吹き出しかけていた。ベルナールは咳払いでごまかしている。


 私は窓の外を見た。


 夕暮れのグランデル砦は冷たい風にさらされ、遠くの城壁には補修跡が黒く浮かんでいる。美しい場所ではない。でも、ここには積み上がった仕事がある。隠された欠損がある。嘘の数字がある。


 そして、たぶん助けを求めている人がいる。


 前世の私は、数字に追い立てられてばかりだった。


 けれど今の私は、数字を追いかけられるだけでは終わらない気がした。


「ハンナに湯を用意させよう」


 ルシアンが言う。


「だがその前に食事を取れ。倒れられると困る」


「ご配慮ありがとうございます」


「誤解するな。使える人材は減らしたくないだけだ」


「ええ。私も同じ理由で、自分を減らさないようにします」


 言いながら、私はもう一度会計棚を見た。


 最奥の黒い革表紙の帳簿が、まるで見つけてほしいとでも言うように、赤く脈打っていた。

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