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白い結婚と引き換えに帳簿をください

婚約破棄の翌朝、私は自室の机に王都中の視線が突き刺さっている気分で目を覚ました。


 実際には、視線どころか侍女たちの噂話と、廊下を行き来する靴音の多さで眠りが浅かっただけなのだが、公爵家というのは誰かが転ぶと実に賑やかだ。


 鏡台の前に座ると、淡い金髪に灰青色の瞳をした少女がこちらを見返した。十七歳のリディア・ハーゼンフェルト。けれど中身には、二十九歳まで経理と監査で生きた前世の私がしっかり居座っている。


 変な感じだ、としみじみ思う。


 前世では徹夜明けの顔色をごまかすためにコンシーラーを使っていたのに、今は上等な侍女が髪を結ってくれるのだから。


 ただ、その贅沢も長くは続かないらしい。


 朝食もそこそこに父から呼び出され、私は執務室へ向かった。


 重厚な扉の先には父だけでなく、家令と会計主任まで揃っていた。嫌な予感しかしない布陣である。


「座れ、リディア」


 父は机上の書類を指先で整えながら言った。


「昨日の件で、王家とグランツ家には正式な通達を出した。お前は七日後、ヴァルティエ辺境伯ルシアン・ヴァルティエに嫁ぐ」


「承知しました」


「……ずいぶん聞き分けがいいな」


「抵抗して何か好転しますか?」


「しない」


「でしたら、確認事項だけ申し上げます」


 父の片眉が上がる。会計主任は露骨に嫌そうな顔をした。


 私は一つずつ指を折る。


「一つ。母方から譲られた私の個人資産台帳の閲覧を求めます。二つ。嫁入り道具のうち、装飾品を減らす代わりに筆記具、計算盤、用紙、簡易帳簿箱を持参したいです。三つ。識字と計算のできる侍女を一人、私の裁量で選ばせてください」


「……嫁ぐ女の願いが、それか?」


「はい。ドレスを十着持っていっても、辺境の赤字は減りませんので」


 父は露骨に顔をしかめた。


「お前は本当に可愛げがない」


「ええ。幼い頃からよく言われました」


「帳簿だの数字だの、人の心が分からぬから婚約を破棄されたのだ」


 その言葉に、私は少しだけ考える。


 人の心が分からない、か。


 分からないのではない。ただ、口先の優しさよりも、支払われた金額や履行された約束のほうが嘘をつかないだけだ。


 前世でも今世でも、それは変わらない。


「ところで、お父様」


「何だ」


「私の個人資産台帳ですが、昨年から寄付名目の引き落としが増えていませんか?」


 父の空気がぴしりと張った。


 会計主任の喉が目に見えて動く。


 やはりだ。私の目には昨日の時点で、父の袖口に私名義の寄付金流用の残滓が見えていた。言うつもりはなかったが、あまり侮られると確認したくなる。


「……嫁ぐ娘が余計なことを気にする必要はない」


「では、必要なものとして精算明細だけください。辺境伯家へ持ち込む資産の内訳は、把握しておくべきですから」


「家令」


 父は私を無視して呼びかけた。


「侍女はハンナを付けろ。読み書きと計算ができる。筆記具も好きにさせて構わん。台帳は……抜粋を渡せ」


 抜粋、ね。全部は見せたくないらしい。


 でも構わない。こういう時は、見せたくない部分がどこかを把握するだけでも十分だ。


 父が話を打ち切るように顎を上げた。


「本日午後、婚姻契約の確認のため、ヴァルティエ辺境伯が王都入りする。お前も同席しろ」


「分かりました」


 部屋を辞しかけたところで、父が低く付け加える。


「あの男は冷酷で有名だ。国境に立ってばかりで宮廷にも寄りつかん。愛想もなければ、女を喜ばせる余裕もない。せいぜい、家の迷惑にならぬよう大人しくしていろ」


 私は振り返らずに答えた。


「最初から感情的なサービスを期待されていないなら、むしろ助かります」


 後ろで、父がまた何を言っている気配がしたが無視した。


 午後、王城の一室で私は初めてルシアン・ヴァルティエ辺境伯と会った。


 噂には聞いていた。北辺を守る黒狼伯。二十六歳で辺境伯位を継ぎ、魔物と外敵を退け続けた武人。国境の砦を一人で支えているとも、呪いに蝕まれて長く生きられないとも。


 実物は、想像以上に静かな男だった。


 黒に近い濃紺の軍装。短く整えられた銀灰色の髪。氷のように淡い目。長身で、立っているだけで室内の空気が引き締まる。顔立ちは整っているのに、近寄りがたいのは、その視線に甘さが一切ないせいだろう。


 そして私の目には、彼の胸元から黒い荊のような数字が絡みついているのが見えた。


 ひどい。


 呪い、というより未払い債務の束に見える。


 国境に巣食うものとは思えないほど人工的で、契約めいていた。


 ルシアンは私を見ると、ごく形式的に一礼した。


「リディア嬢」


「ルシアン様」


 同席しているのは王家の文官、父、そして辺境伯家の老執事らしい男性だけ。無駄な華やかさはない。


 ルシアンは最初から本題に入った。


「先に申し上げます。この婚姻は、王命と両家の都合によるものです。私は国境を離れられず、王都的な夫の役目は期待に沿えません。君を愛するつもりもない」


 あまりにも率直で、一周回って感心した。


 父がわずかに顔を引きつらせる。たぶん、もう少し社交辞令を挟んでほしかったのだろう。


 私は頷いた。


「承知しました」


 ルシアンの眉が、ほんの少しだけ動く。


 おそらく彼も、泣くか怒るか困惑するかを想定していたのだと思う。


「その代わり、必要な生活の保障と名目上の地位は提供します。領地運営や軍務に支障をきたさない限り、私生活への干渉もしません。仮に一年後、君が離縁を望むなら検討します」


「ありがとうございます」


「……それだけか」


「はい。あの、一つお願いがあるのですが」


「何だ」


「領地の決算書と、できれば過去三年分の主要台帳を見せていただけますか」


 沈黙。


 文官が咳き込み、父が額を押さえ、辺境伯家の老執事が目を丸くする。


 ルシアンだけが、数秒ののちに低く問い返した。


「理由を聞いても?」


「赤字の職場に赴任する前に現状把握をしたいからです」


「……職場」


「夫婦関係については最初から期待値調整をしていただけましたので。でしたら私は、私にできる役割を果たしたいと思います」


 口にしながら、私は彼の胸元に絡む黒い数を見ていた。


 やはり妙だ。生身の人間に付く数字ではない。土地と城と人員の欠損が、すべて彼一人にぶら下がっているみたいだった。


 ルシアンはしばらく私を観察するように見ていたが、やがて短く息を吐いた。


「……面白い人だな」


「変わっているとはよく言われます」


「褒めてはいない」


「存じています」


 老執事が口元を押さえていた。笑いを堪えているのかもしれない。


 ルシアンは文官へ向き直る。


「契約書を」


 婚姻契約書が卓上に広げられる。紙質は上等だが、内容は乾いていた。持参金の扱い、居住、後継の義務なし、王命による婚姻であること、双方に重大な瑕疵がない限り一年は解消不可。


 そして、その最下部。


 署名欄の裏に、細く歪んだ魔法式が走っているのを見つけて、私は目を細めた。


 国が絡む婚姻契約にしては、妙に重い術式だ。しかもルシアン側にだけ、追加の負担が集まる形で結ばれている。


 私が見つめていると、ルシアンが低く言った。


「どうかしたか」


「いえ。少し、嫌な魔法の癖を見つけただけです」


 父がすぐに口を挟む。


「余計な詮索はするな、リディア」


「……そうですね。今は」


 私は署名した。


 金のペン先が紙を滑る瞬間、ルシアンの肩がごくわずかに揺れた。


 やはり、この婚姻そのものが何かの負担になっている。


 でも今は証拠がない。焦って指摘しても意味はない。


 契約は成立し、七日後の出立が決まった。


 帰り際、ルシアンが私にだけ聞こえる程度の声で言う。


「辺境は、王都のように快適ではない」


「承知しています」


「城は古く、土地は痩せ、人手も足りない。退屈する余裕もない」


「でしたら、なおさら私向きです」


「……なぜそうなる」


「問題点が分かりやすいので」


 初めて、ルシアンの口元がほんの少しだけ動いた。笑った、のだと思う。たぶん一拍にも満たない程度だったけれど。


 その夜、私は渡された抜粋台帳と婚姻契約の控えを見比べながら、荷造りの一覧を作った。


 ドレスは最低限。帳簿箱は最大限。


 前世の私は異動のたびに、自分の机回りを最速で整えていた。


 ならば今回も同じだ。


 ただし次の赴任先は、王国最北の呪われた辺境伯領である。


 普通なら悲観するところだろう。


 でも私の胸には、不思議と沈むものがなかった。


 むしろ少しだけ、高揚している。


 見えてしまった黒い数字の正体を、確かめたかった。

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