婚約破棄は閉会後にお願いします
「リディア・ハーゼンフェルト。君との婚約を、ここで破棄する」
フェルディア王立学院の卒業記念舞踏会。金箔の燭台が並び、磨き上げられた床に夜会服の裾が滑る、いかにも貴族らしい華やかな場所で、私の婚約者セオドア・グランツはよく通る声ではっきりと言い切った。
楽団の演奏が止まる。
ざわ、と空気が揺れた。
大広間の中央で向かい合っているのは、侯爵令息で財務卿の嫡男でもあるセオドアと、公爵令嬢の私。そして彼の腕に、いつの間にかすがるように寄り添っている平民出の聖女候補、ミレイユ・アストン。
絵に描いたような修羅場だ。
けれど、私の頭の中は別の意味で真っ白だった。
婚約破棄。
その四文字が、耳から入った瞬間。
ぱちん、と、頭のどこかで古びた電球が弾けたみたいに、別の人生の記憶が一気に流れ込んできたのだ。
蛍光灯。コピー機の排熱。終電。紙コップの冷めたコーヒー。締め切りに追われ、数字の海に溺れながら決算資料を積み上げた、二十九歳の会社員――成瀬真琴だった私の記憶。
その前世の私は、月末月初と監査シーズンになると人間の顔を失い、ひたすら表計算と伝票に命を捧げる社畜だった。
そして、そんな前世の記憶が戻った今、私は理解した。
ああ、なるほど。
だから私は昔から、人の発言より先に勘定が見えたのだ。
誰が何を奪い、何を支払っていないのか。物にも人にも、時には感情にすら、収支の綻びが色付きで見えてしまうこの奇妙な力。周囲からは「値札の瞳」だの「冷たい帳場令嬢」だの散々言われていたが、前世の私からすると、むしろ天職だった。
突然蘇った記憶と納得に、私はしばらく瞬きを忘れた。
セオドアが眉をひそめる。
「黙っていては分からないな。だが、君も自分の非を理解しているのだろう。君は嫉妬に駆られて、ミレイユに何度も嫌がらせをした。寄付金の帳簿を盾に脅し、学院の資金申請を妨害し、さらには私の手紙まで差し止めた」
言葉だけなら、いかにも劇的だった。
けれど私の目には、彼の身体の周りに黒ずんだ数字が浮かんで見えている。
未精算の寄付金、用途不明の支出、ミレイユ名義の慈善会からグランツ家の別口座へ流れた金額。刺繍入りの袖口で隠しているつもりなのだろうが、収支の歪みは香水では消えない。
ついでに言うなら、手紙を差し止めたのは私ではない。あれは財務卿の私設書記官がやった。証拠も見えている。
前世の私はよく知っている。
こういう人は、証拠よりも先に空気を作る。
会議室でも、監査でも、責任転嫁の早い者勝ちを狙う人間はいた。懐かしい。できれば懐かしみたくはなかったが。
セオドアはさらに一歩前へ出た。
「そもそも君は、すべてを損得で測る。家のため、王国のため、財政のためと称して、人の心を切り捨てる。私はその冷酷さに耐えられない。ミレイユこそが、真に民を想う優しさを持つ女性だ」
ミレイユが瞳を潤ませる。
「やめてください、セオドア様。わたくしのために争うなんて……」
その台詞のすぐ横に、私の目には金貨のような小さな光がじゃらじゃらと揺れていた。演技の上手い人だな、と私は妙に感心してしまう。前世でいた会社にもいた。会議で泣けば通ると思っている人が。
そして私は、ようやく口を開いた。
「承知しました」
静まり返った広間に、自分の声が驚くほどよく通った。
セオドアが一瞬だけ目を見開く。たぶん泣き喚くか、言い訳するか、倒れるか、そういう反応を期待していたのだろう。
「……は?」
「婚約破棄のお申し出、承知しました。ただし、後日の紛争を避けるため、理由は書面でいただけますか。私に帰責事由があると主張なさるなら、項目ごとに日付と証人名も添えてください」
舞踏会に似つかわしくない、ひどく事務的なお願いだった。
けれど前世の私は知っている。揉め事は議事録と文書化が命だ。
貴族たちのざわめきが、今度は別の質に変わった。
セオドアのこめかみが引きつる。
「君は……こんな時まで、そんな話をするのか」
「はい。私、こういう時ほど必要だと思っていますので」
「やはり冷たい女だ!」
「冷静、の間違いではなくて?」
ぽろり、と、前世の監査対応で鍛えられた言葉が落ちた。
数人が息を呑み、どこかで噴き出しそうな音がした。
ミレイユが震える声を作る。
「リディア様、どうしてそんな……。わたくし、ただ孤児院のために寄付を集めていただけなのに……」
「ええ。孤児院のための寄付が、どうして王都西区の宝飾店と高級馬車商に流れているのか、私もぜひお聞きしたいところです」
言ってしまってから、広間の温度がさらに下がった気がした。
ミレイユの顔色が目に見えて変わる。セオドアはとっさに彼女を庇うように前へ出た。
「いい加減にしろ、リディア! 根拠もなく彼女を侮辱するな!」
「根拠はありますが、今ここで申し上げる場ではないでしょう。あなたがそういう場を整えてくださるなら、喜んで」
口に出しながら、私は自分でも少しだけ可笑しくなっていた。
婚約破棄の現場で、証憑提出の話をしている公爵令嬢が他にいるだろうか。
でも仕方ない。脳がもう、その回路で動いているのだ。
セオドアは完全に怒った顔をした。
「もういい。君のような女は、私の隣には不要だ。父上にも話は通してある。君との婚約は本日限りで終わりだ」
「そうですか」
私は小さく息を吐いた。
不思議なくらい、胸は痛まなかった。
前世の記憶が戻ったせいだろう。これまでの私はセオドアに執着していた。彼の機嫌ひとつで一喜一憂し、役に立つ令嬢でいなければと必死だった。けれど今の私から見れば、その努力はどう考えても費用対効果が悪い。
残業代も出ないのに徹夜していた前世の私より、今の私のほうがよほど賢い。
それに――私の目に映るセオドアの収支は、真っ黒だった。
未来の配偶者として、絶対に避けるべき案件である。
「では、失礼いたします」
私は深く一礼して、踵を返した。
その瞬間、誰かが私の腕を強く掴んだ。
父だった。
ハーゼンフェルト公爵の顔は、社交用の微笑みを貼り付けたまま、目だけが凍っている。
「後で話がある、リディア」
「承知しました、お父様」
そのまま私は大広間の外へ連れ出された。
廊下に出るなり、父の声は低く落ちる。
「お前は最後まで家の面子を潰してくれたな」
「潰したのは、私でしょうか。公の場での婚約破棄は、グランツ家の判断ですが」
「言い返すな。お前のその目とその物言いが、以前から疎まれていたのだ」
そうでしょうね、と私は心の中でだけ答えた。
父は帳簿魔法を嫌っていた。誤魔化しのきかない目は、都合の悪い人間からすれば不快でしかない。
「グランツ家との縁が切れた以上、お前を屋敷に遊ばせておく余裕はない。ちょうどよかった。北辺のヴァルティエ辺境伯家が、王命で花嫁を必要としている」
私は足を止めた。
「……辺境伯家、ですか」
「ああ。あの呪われた黒狼伯だ。国境の守護で武勲はあるが、土地は赤字、城は老朽、いつ死んでもおかしくない男だ。お前のような傷物にはちょうどいい。来週、嫁げ」
さらりと告げられた内容があまりに大きすぎて、普通なら膝くらいは震えたかもしれない。
けれど前世の私の感想は、まったく別のところに着地した。
呪われた辺境伯。赤字の土地。老朽化した城。
つまり、問題点がはっきりしている職場ということでは?
しかも夫婦仲に期待しなくていいなら、感情労働のコストも低い。
私は思わず、ほんの少しだけ目を細めた。
「分かりました」
父が眉を上げる。
「……泣きも喚きもしないのか」
「必要経費だと思えば、だいたいのことは受け入れられますので」
「何を言っている?」
「いえ。嫁ぎ支度に必要なものの確認をしていただければと」
父の顔に、うっすらと不気味なものを見るような色が浮かぶ。
でも私にはもう分かっていた。
セオドアとの婚約破棄は、損失ではない。
これはたぶん、人生の棚卸しだ。
ならば次は、もっとましな勘定で生きればいい。
王宮の窓の外では、夜の鐘が鳴り始めていた。




