最後の未処理
月末の夜、私はいつものように執務室で帳簿を閉じていた。
年間決算報告が終わったあとも、仕事は容赦なく続く。村道の補修費、学校の机の追加、王都へ返す公開監査の質問票、トマス商会の新しい値上げ交渉案。紙は減らないし、未処理もなくならない。
でも今の私は、そのことにもううんざりしていなかった。
机の上には、今月の締め表がある。
北境通常収支、黒。
再建費、予定内。
冬備蓄、微増。
未処理、来月繰越可。
「悪くないですね」
独り言のつもりで呟いたら、背後から声が返ってきた。
「誰に聞かせている」
振り返ると、ルシアンが扉にもたれていた。手には二つのカップ。最近、この光景が増えた気がする。
「月末確認です」
「また遅い」
「締め日なので」
「締め日なら仕方ない、になると思っているだろう」
「少しだけ」
彼は呆れたように笑い、私の隣へカップを置いた。
私は最後の欄へペンを走らせる。
『所感――今月も概ね良好』
その一行を書いて、ようやく帳簿を閉じた。
「終わりました」
「本当にか」
「たぶん」
「たぶん?」
「人生に完全な締めはありませんので」
前にも似たようなことを言った気がする。けれど今は、その意味が前よりずっと柔らかい。
ルシアンが閉じた帳簿の表紙へ指を置いた。
「なら、今日はもう終わりにしろ」
「でもまだ、王都向けの質問票が」
「明日でいい」
「未処理になります」
「一晩くらい許される」
きっぱり言われて、私は少しだけ考えるふりをした。
たしかに、一晩くらいなら世界は滅ばない。
「……では、今日の最後の未処理は何にしましょう」
半分冗談で尋ねると、ルシアンは少しだけ目を細めた。
「そうだな」
そして、ごく自然に私の手を取る。
「君と過ごす時間、にしておけ」
そういうことを、今ではあまり考え込まずに言うのだからずるい。
私は笑って立ち上がり、灯りを一つ消した。
窓の外ではグランデルの夜が静かに更けていく。城壁の見張り灯、遠くの礼拝堂の明かり、厨房に残る火の色。守るべきものはまだたくさんあるし、明日の帳簿もきっとまた分厚い。
それでも、もう大丈夫だと思えた。
足りないものを数えるだけではなく、満ちているものをちゃんと抱えて眠れる夜が、ここにはある。
私はルシアンと並んで執務室を出た。
閉じた帳簿の向こう側で、次の月が静かに始まろうとしている。
未処理の多い人生も、悪くない。
この人となら、そう思えた。




