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帳簿の外にあるもの

最初の雪が降った朝、私は南塔の執務室で一人、昨年の冬と今年の冬を比べる表を作っていた。


 去年の今頃。

 北門倉庫は赤字。

 兵舎の毛布は不足。

 村の納税は破綻寸前。

 辺境伯の命は、見えない契約で削られていた。


 そして今年の今頃。

 北門倉庫は再建済み。

 毛布は全員分、まだ予備あり。

 村の冬備蓄は八割確保。

 北境防衛債の返済率は六二パーセント。

 子供たちは在庫表の歌を歌う。


 我ながら、とんでもない一年だったと思う。


 窓の外では、白くなり始めた中庭を子供たちが走り回っていた。礼拝堂の屋根にも雪が積もり、厨房の煙突からは朝の煙がまっすぐ上がっていく。


 扉が開いて、ハンナが顔を覗かせた。


「奥様。ラーデ村から冬便です。卵と干し林檎と、それから……」


「それから?」


「『もう春貸しはいりません』との伝言です」


 私は思わず顔を上げた。


「本当に?」


「はい。来季は自前で回せる見込みだそうです」


 胸の奥で、何かがふわりとほどける。


 貸しが不要になるというのは、冷たく言えば取引の終わりだ。けれど私には、これ以上ない朗報だった。支えが要らなくなるのは、ちゃんと立てるようになった証なのだから。


「ありがとうございます。村長へ、台帳のほうでも確認済みと伝えてください。あと、祝いの干し肉を一つ返して」


「太っ腹ですね」


「今日は少しだけ」


 ハンナが去った後、私は窓辺へ寄った。


 白い朝だ。

 静かで、忙しくて、でも以前みたいな息苦しさはない。


 背後から足音がして、ルシアンが外套を羽織ったまま入ってくる。


「また数字を見ていたのか」


「ええ。好きなので」


「知っている」


 彼は私の隣へ立ち、同じように窓の外を見た。


「雪だな」


「はい。初雪です」


「去年の冬より、少しはましに見えるか」


「かなり」


 私は机上の表を指差す。


「ほら。去年との差、ここまで出ました」


 ルシアンは目を通し、最後の欄で少しだけ眉を上げた。


「春貸し不要村、一」


「はい」


「君、今すごく機嫌がいいな」


「分かります?」


「分かる。口元が緩んでいる」


 自覚はあまりなかった。でもたしかに、嬉しい。


 数字が良いからだけじゃない。

 人が自分の足で立てるようになる、その過程を見られるのが嬉しいのだ。


 私は窓辺から離れ、机の上へ新しい紙を広げた。


 題名は『来春事業案』。


「もう次ですか」


 ルシアンが半ば呆れたように言う。


「もちろんです。学校の机を増やします。礼拝堂だけでは手狭ですし、計算のできる子が増えると将来の会計も助かります。それから村道の石敷き、冬便の保存庫、あと――」


「待て」


 言いながら彼は私の手首を軽く取った。


「一つずつだ」


「でも、思いついた時に書かないと」


「その前に」


 彼は少しだけ笑う。


「今日は、雪を見に行かないか」


 思わぬ提案に、私は瞬いた。


「仕事は」


「午前の会議までまだある」


「……少しだけなら」


「十分だ」


 外套を羽織って一緒に中庭へ出ると、雪はまだ細かく、手のひらに乗せるとすぐ溶けた。城壁の上の見張り兵がこちらに気づいて頭を下げ、礼拝堂の前ではロザリーが子供たちへ転ばない歩き方を教えている。


 いつものグランデルだ。

 でも、最初にここへ来た日の『赤字だらけの砦都市』とは、もう同じではない。


「リディア」


「はい」


「君は前に言ったな。人生の棚卸しだと」


 婚約破棄された夜のことだろう。よく覚えているものだ。


「ええ。言いました」


「あれから、勘定は合ったか」


 私は少し考えた。


 失ったものはある。

 母の不在。

 王都での立場。

 無駄にした時間。

 傷ついた人たち。

 取り戻せない季節もある。


 でも、得たものもある。

 仕事。

 仲間。

 開いた帳簿。

 自分の足で立つ町。

 そして隣にいる人。


「たぶん、まだ途中です」


 私は正直に答えた。


「人生の勘定って、きっと最後までぴったり合わないので」


「そうだな」


「でも、今は赤字だと思っていません」


 そう言って笑うと、ルシアンも静かに頷いた。


「私もだ」


 雪の中で、彼は手袋越しに私の手を取った。


 温かい。


 帳簿では測れないものの代表みたいな温度だ、と思う。


 前世で私は、数字に追われるたびに、人生は損得の積み上げなのだとどこかで思っていた。

 けれど本当は違った。


 損をしても守りたいものがある。

 得にならなくても差し出したいものがある。

 返せるかどうか分からなくても、受け取りたい優しさがある。


 そういう、帳簿の外にあるものまで含めて、人は生きていくのだろう。


 中庭の向こうで、子供たちが雪を丸めて笑っている。

 南門の方では荷馬車の準備が続き、厨房からはパンの焼ける匂いが流れてくる。

 やることは今日も山ほどある。

 これから先も、きっと終わらない。


 それでいい。


 私はもう、未処理を怖がるだけの人間ではない。

 足りないものを数えながら、それでも満ちているものにちゃんと気づける。


「戻りましょうか、ルシアン様」


「そうだな。会議が待っている」


「ええ。あと来春事業案も」


「やはり休ませる気がないな」


「夫婦ですので」


 呆れたように笑う彼と並んで、私は雪の積もり始めた石畳を歩き出した。


 十万の数字を超えても、人生の帳簿はまだ終わらない。

 でもその続きを、この人と、この町で、何度でも書き足していけると思えた。


 それだけで十分だった。

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