母の手紙に返事を書く
王都での再建が本格的に動き出してしばらくした頃、一つの木箱がグランデル砦へ届いた。
差出人はハーゼンフェルト旧公爵家管理人。
箱の中身を見た瞬間、私はしばらく息を止めた。
母の遺品だった。
古い日記帳、使い込まれた計算盤、小さな鍵束、そして見覚えのある筆跡で『リディアへ』とだけ書かれた封筒。王都で読んだ手紙とは別のものらしい。
「お一人で開けますか」
ハンナが静かに問う。
私は少し考え、それから首を振った。
「いえ。礼拝堂へ持って行きます」
グランデルの礼拝堂は、今では私にとって仕事場でもあり、いちばん落ち着く場所の一つでもある。ロザリーに断って祭壇脇の小机を借り、私は木箱をそっと開いた。
封筒の中の手紙は短かった。
『あなたがどんな人生を選ぶとしても、自分の見たものを怖がらないで。数字が見えることは冷たさではなく、誰かがこぼしたものを拾える力です。拾ったものを全部抱える必要はないけれど、見なかったことにしなくていい。どうか、あなた自身の幸せを勘定に入れ忘れないで』
私は何度もその一文を読み返した。
母らしい。優しくて、でも甘やかさない。
木箱の底には、もう一冊だけ薄い帳面があった。母自身の家計簿ではなく、観察記録に近い。私が幼い頃に何を見て、何を怖がり、何を喜んだかが、驚くほど細かく書かれている。
『リディアは人の嘘より、減ったパンの数に先に気づく』
『使用人の子がなくした靴を、帳面から見つけてあげていた』
『見えすぎることに疲れている。けれど優しい子だ』
ぼろぼろと視界が滲んだ。
私は母のことを、もうほとんど記憶だけで抱えていた。優しかったこと。私の目を怖がらなかったこと。それくらいしか、形のあるものとして残っていないと思っていた。
でも違った。
母はちゃんと、私を見て書き残してくれていたのだ。
「お母様」
礼拝堂の静けさの中で、その呼びかけは妙に幼く聞こえた。
私は持ってきた紙を広げ、初めて母へ返事を書くことにした。誰に届けるわけでもない。ただ、書きたかった。
『私は怖がりながらも、見たものを見なかったことにしませんでした』
『一人で抱え込まない、はまだ練習中です』
『でも、ちゃんと幸せも勘定に入れ始めています』
『心配しないでください。今の私は、好きな場所で、好きな人たちと働いています』
書いている途中で、礼拝堂の扉が静かに開いた。
振り返るとルシアンが立っていた。彼は何も言わず、私の前に温かい茶を置く。
「……泣いていたか」
「少しだけ」
「少しには見えない」
「そういうところ、最近遠慮がなくなりましたね」
「夫婦だからな」
さらりと言われると、いまだに少し悔しい。
私は書きかけの返事を見下ろした。
「お母様に、ちゃんと伝えたくて」
「何を」
「私が、幸せにやっていることを」
ルシアンは少しだけ目を細め、それから私の隣に腰を下ろした。
「なら、一つ付け足せ」
「何をですか」
「君の夫は、君をとても大事にしている、と」
私は思わず笑ってしまった。涙の跡が残っているのに、それでも笑えた。
「ずいぶん自己申告が強いですね」
「事実だ」
「……では、書いておきます」
私は紙へ最後の一文を足した。
『それから、私を大事にしてくれる人がいます。だからたぶん、これから先も大丈夫です』
手紙はそのまま礼拝堂裏の小箱へ納めた。
いつか風化して読めなくなってもいい。
書いたこと自体が、きっと私の中で残るから。
帰り際、ロザリーがそっと言った。
「お母様も、喜ばれると思います」
私は頷いた。
昔は、母に見せられる自分になりたいと思っていた。
今はもう少し違う。
見ていてほしい、と思える自分でいたいのだ。




