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黒字の朝に、愛を知る

グランデル砦の朝は早い。


 冬の名残が消えた今でも、夜明け前には鍛冶場の火が入り、厨房ではパン種が捏ねられ、南門では荷馬車の準備が始まる。王都の寝台でゆっくり目覚める生活とは、たぶん一生縁がないだろう。


 でも私は、この騒がしい朝が好きだ。


 再婚の祝祭から三か月。

 北境再建はまだ道半ばだが、数字ははっきりと変わっていた。


 外縁三村の収穫見込みは戦前比七割まで回復。

 燃えた北門倉庫は仮設から恒久へ移行。

 北境防衛債の返済は第二回まで完了。

 王国再建債の公開監査も第一四半期分を無事提出。

 そして何より、ルシアンの胸元にあの黒い荊はもう見えない。


 完全に消えたわけではない。日々の責務や負担は相変わらずある。けれどそれはもう、見えない呪いではなく、整理できる仕事として存在している。


 それがどれほど大きいことか、私は毎朝のように思い知る。


 その日も私はまだ薄暗い執務室で、窓を少し開けて帳面をめくっていた。早起きしたわけではない。単に昨夜、返済表を見直していたら止まらなくなっただけだ。


「また寝不足か」


 後ろから声がする。


 振り向くと、ルシアンが湯気の立つカップを二つ持って立っていた。以前なら使用人に任せただろうに、今はこういうことをごく自然にやるようになった。最初は心臓に悪かったが、最近は私も慣れてきた――たぶん。


「寝不足ではありません。朝が早いだけです」


「同じだ」


「違います」


 言い返しながらカップを受け取る。中身は紅茶だった。しかも、私が最近好んでいる少しだけ強い茶葉の配合だ。


「ありがとうございます」


「ハンナから『これ以上薄いと奥様の機嫌が悪い』と聞いた」


「……あとで訂正しておきます」


「事実では?」


「半分くらいは」


 ルシアンが小さく笑い、私の向かいへ腰を下ろした。


 窓から差し込む朝の光が、机上の紙を少しずつ白くしていく。こうして二人で帳面を挟んでいる時間は、私にとって不思議なくらい穏やかだった。


 かつて前世で、朝のオフィスは焦りの始まりだった。

 未読のメール、締め切り、誰かが隠した不具合、足りない人員。

 けれど今の朝は違う。忙しいのに息苦しくない。足りないものはまだ山ほどあるのに、それを誰とどう埋めるかが見えているからだ。


「見てください」


 私は一枚の表をルシアンへ滑らせた。


「北境防衛債、返済率三七パーセントです。年内に半分を超えます」


 ルシアンは数字を追い、感心したように眉を上げる。


「思ったより早い」


「ラーデ村の収穫が想定以上でしたし、王都からの未払返還第一便も効きました。あとトマスが悔しいほど優秀です」


「それは否定しづらいな」


 ちょうどその時、廊下の向こうから賑やかな声が聞こえた。


「おくさまー! ざいこひょうできたー!」


 扉が勢いよく開き、あの兄妹を含む子供たちが紙束を抱えて飛び込んでくる。最近、私は彼らのために月二回だけ読み書きと簡単な帳面の付け方を教えていた。始まりは遊びの延長だったのに、いつの間にか礼拝堂と城館が共同で小さな学び舎を開くまでになっている。


「おはようございます」


 私は笑って手招きした。


「見せてください」


 紙束には、彼らなりの在庫表や配給表が描かれていた。果物、薪、洗濯石鹸、鶏の卵。字はまだ拙いが、項目と数の対応はちゃんとしている。


「よくできています」


 褒めると、子供たちは得意げに胸を張る。


「きょう、らーでむらからたまごくるの!」

「あと、ろざりーさまが『むだづかいだめ』って!」

「それはとても大事です」


 横でルシアンが、私以上に真剣な顔で表を見ているのが可笑しい。


「君は本当に、町中へ帳簿を広げたんだな」


「ええ。もう閉じませんよ」


 子供たちが去ったあと、ルシアンは机へ肘をつき、少しだけこちらへ身を寄せた。


「王都から新しい書簡が来ていた」


「改革関係ですか」


「それもある。王妃からだ」


 差し出された封を切ると、丁寧な筆致でこう書かれていた。


『第一四半期公開監査の様式について、王都官僚から悲鳴が上がっています。たいへん結構です。引き続き容赦なくご指導ください』


 思わず吹き出してしまう。


「王妃様、強いですね」


「君と気が合うのだろう」


「それは困ります。王都に呼び戻されそうです」


「断ればいい」


「もちろんです。私の職場はここですから」


 そう言ってから、少しだけ顔が熱くなる。

 この言い方をするたび、今の私の職場は『辺境伯家』ではなく、ほとんど『あなたの隣』だと自覚してしまうから。


 ルシアンもそれを分かっているらしく、口元を緩めた。


「なら、今後もよろしく頼む。会計監督殿」


「こちらこそ。辺境伯殿」


 少しだけ形式ばって応じると、彼は首を振った。


「いや」


「?」


「今は、夫と呼んでほしい」


 朝からそんなことを言われて、平静でいられる人がいるだろうか。少なくとも私は無理だ。


 でも逃げるのも悔しいので、紅茶で喉を潤してから答える。


「……では、夫殿。南井戸の滑車交換予算に印を」


「すぐ仕事へ戻すな」


「大事なことですので」


 彼は呆れたように笑いながら、でも素直に書類へ署名した。


 窓の外では、太陽がようやく城壁の上へ顔を出していた。光が石壁をなめ、補修の新しい色と古い傷跡を同時に照らしている。


 完璧じゃない。

 まだ足りない。

 これからもきっと、未処理は次々に出てくる。


 それでも私は、もう前みたいに数字に追われるだけの人間ではない。


 誰と働き、誰と生きて、何のために帳簿を合わせるのか。

 それが分かったからだ。


 机の端には、返済済みの札が少しずつ増えている。

 壁には今月の公開監査予定表。

 窓辺にはハンナが飾った小さな花瓶。

 そして向かいには、朝の紅茶を淹れてくれる人がいる。


 前世では、数字はただ私を削るものだった。

 今は違う。

 数字は約束を守り、失われたものを数え直し、誰かの努力を次の季節へ繋ぐためにある。


 もちろん、それだけじゃ足りないことも知っている。


 帳簿に書けないものがある。

 信頼とか、痛みとか、手の温度とか、朝の光の柔らかさとか。

 愛はその最たるものだ。


 でもたぶん、書けないからこそ大事なのだろう。


「リディア」


 名を呼ばれて顔を上げる。


「愛している」


 何の前触れもなく、そんなふうに言うのはずるい。


 私は笑って、ペンを置いた。


「はい。私も愛しています、ルシアン様」


 朝の光はもう十分に明るく、グランデル砦の一日はこれから本格的に始まるところだった。


 赤字だらけの砦都市は、まだ再建の途中にある。

 けれど今日の帳面を開く私の手は、少しも震えていない。


 この先どれだけ未処理が増えようと、もう大丈夫だと思えた。


 だって私は、ようやく知ったのだから。


 誰かと生きることは、損得ではなく、それでも一緒に勘定を合わせていきたいと願うことなのだと。

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