白い結婚の終わる日
王都での再建評議が一段落した三日後、私は王太后宮の小さな庭園へ呼ばれた。
夕方の光が白薔薇の垣根を透かし、噴水の音が遠くで細く響いている。華やかというより静かな庭だ。王太后好みなのだろう。
そこにいたのはセシリアではなく、ルシアンだった。
濃紺の上着に黒い手袋。いつもの軍装ではない、少し柔らかな服装。それだけで何となく胸が落ち着かないのは、自分でも困る。
「王太后様は?」
私が尋ねると、ルシアンは短く答えた。
「罠だ」
「はい?」
「『二人で話しなさい』と言って追い出された」
あまりにも王太后らしい。
私は思わず笑ってしまった。緊張が少しほぐれる。
ルシアンは噴水脇の石卓へ封書を置いた。
「これを見てほしい」
差し出されたのは、王家の正式文書だった。封を切って読む。
『北境守護契約改竄に伴い、王命婚姻として締結されたリディア・ハーゼンフェルトとルシアン・ヴァルティエの婚姻契約は、その法的基礎の一部を失ったため、両当事者の意思により無効化または再締結を可能とする』
私はゆっくり瞬いた。
つまり。
白い結婚で始まったこの婚姻は、今ここでいったん白紙に戻せる。
政治の都合から自由になれる。
胸のどこかで、ずっと分かっていた。
この話はいつか来ると。
だからこそ、いざ目の前に来ると呼吸が難しい。
「……そうですか」
それしか言えなかった私に、ルシアンはしばらく沈黙していた。
風が白薔薇を揺らす。噴水のしぶきがきらりと光る。
やがて彼は、最初に会った日のようにまっすぐ言った。
「君を縛るつもりはない」
やはり、と思う。
この人はそういう人だ。自分が欲しいものより先に、相手へ逃げ道を出す。
「最初の婚姻は、王命と都合によるものだった。私が君に『愛するつもりはない』と言ったのも事実だ」
「覚えています」
「だから、今の契約をここで終わらせてもいい。君が望むなら、財産も地位も北境での権限も、可能な限り不利にならない形で整える」
丁寧で、実務的で、そしてひどく優しい。
優しすぎて、少し腹が立つくらいに。
「それは、あなたが望むことですか」
私が問うと、ルシアンはわずかに目を見開いた。
「……違う」
低く、しかしはっきりとした答え。
私は息を詰める。
「なら、あなたの望むことを聞かせてください」
沈黙が落ちた。
ルシアンは長い指で手袋の縁をなぞり、視線を一度だけ逸らす。こうして迷う姿を見るのは珍しい。辺境での彼は、もっと即断の人だった。
やがて彼は、ゆっくりこちらを見た。
「君に、残ってほしい」
その一言で十分だったはずなのに、彼はそこで止まらなかった。
「グランデル砦に。私の隣に。仕事のためだけではなく、契約のためだけでもなく」
胸の奥が熱くなる。けれど私は黙ったまま続きを待った。ここで遮りたくなかった。
「私は、君が来るまで、自分一人で足りない分を埋めるしかないと思っていた。そうすることが辺境伯だと。だが君は帳簿を開いて、欠損を見せて、私が背負うはずだと思っていたものを皆の前へ出した」
彼の声はいつもより遅い。慎重に、一つずつ言葉を選んでいるのが分かる。
「君は私を助けた。領地を助けた。それだけじゃない。私が、自分で選び直せると教えた」
私はもう、まともに息が吸えなかった。
「だから」
ルシアンは一歩近づく。
「白い結婚は終わりにしたい」
噴水の音がやけに遠い。
「今度は、君を愛するつもりがあると、最初から言える形で」
ああ、ずるい。
最初に会った日に言われた言葉を、こんなふうに返されるなんて。
私は笑うつもりだったのに、気づけば目の奥が熱かった。
「……返事の前に、一つだけ」
「何だ」
「私は、あなたが思っているより面倒ですよ」
「知っている」
「帳簿には細かいですし、未処理を見ると放っておけませんし、定期報告は増えます」
「分かっている」
「あと、たぶん一生、仕事は減らないです」
ルシアンの口元がようやく緩む。
「それも知っている」
「それでも?」
「それでもだ」
もう、十分だった。
私は封書を石卓へ置き、しっかりと彼を見上げた。
「なら、私からも言います」
声が震えないよう、少しだけ力を込める。
「最初の婚姻契約は終わりにしましょう。あれは王命と不正の上に立っていたものだから」
「……ああ」
「そのうえで、改めてお願いします。私を、グランデル砦の会計監督として――ではなく、あなたの妻として隣に置いてください」
ルシアンの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
いつも冷静な彼がそんな顔をするのを見られるのは、たぶん今だけだろう。
「喜んで」
その返答の直後、彼は懐から小さな箱を取り出した。中には、古い銀台に淡い青石の嵌まった指輪が収まっている。
「母のものだ」
私の喉が詰まる。
「先代辺境伯夫人の?」
「そうだ。ベルナールが、いつか使える日が来るなら、と保管していた」
「それを、私に?」
「嫌でなければ」
嫌なはずがない。
私は黙って左手を差し出した。彼が手袋を外し、慎重に指輪を嵌める。ひんやりとした感触が、じきに体温へ馴染んでいく。
それは豪奢な宝石ではない。けれど不思議なくらい、私の手にしっくりきた。
「似合う」
ルシアンが珍しく、そんなことを言った。
「……ありがとうございます」
「君が顔を赤くするのは、やっと少し慣れてきた」
「慣れないでください」
「難しいな」
私は笑いながら、でも次の瞬間には彼の胸へ額を預けていた。
ずっと怖かった。
この関係が契約の外へ出た途端、壊れるんじゃないかと。
私は辺境に必要だからそばにいるだけで、そこから一歩踏み出せば何かがずれるんじゃないかと。
でも違った。
契約が終わっても、残るものがある。
むしろ、ここから始まるものがある。
ルシアンの腕が、ゆっくりと背へ回る。
「リディア」
「はい」
「今度こそ、誤魔化さずに言う」
耳元で落ちた声が、ひどく近い。
「愛している」
私はしばらく答えられなかった。
だってそんなの、帳簿のどこにも準備していない。
でも、やがて笑ってしまう。泣きそうなくらい嬉しい時、人はこういう顔になるのだと初めて知った。
「……私もです」
言えた。
やっと。
白い結婚は、その庭で静かに終わった。
そして同時に、私たちの本当の始まりになった。




