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契約を書き換える手

中央聖堂地下保管庫は、書庫というより地下墓所に近かった。


 細長い石室が幾重にも連なり、壁面には古い契約板や封印箱が埋め込まれている。灯りを掲げるたび、金や黒の契約線が蜘蛛の巣みたいに浮かび上がり、そのすべてが最奥の円形室へ吸い込まれていた。


 あれが中枢だ。


「すごい……」


 思わず漏れた声に、王太后付き書記官が息を詰める。


「見えるのですか」


「ええ。見えすぎるくらいに」


 グランデルの元帳が一地方の苦痛なら、こちらは王国全体の帳簿だった。税、貢納、戦時徴発、聖堂寄進、貴族家の保証、王家の外債。その中で明らかに歪んでいる線だけが、太く黒く、北境側へ流れている。


 誰かが王国の赤字を、見えないように一か所へ押しつけ続けた結果だ。


 円形室の中央には、石の卓。その上に、金属枠で固定された大判の契約板が開かれていた。頁ではなく板。古い王国式の記録方法らしい。板の上には幾層もの魔法式が走り、中央に『北境守護補填』の項がある。


 そして、その項目へ王国中の汚れが流れ込んでいる。


「ひどい」


 ハンナが初めて、隠さず嫌悪を口にした。


 その時、別の足音が円形室へ響いた。


 振り向くと、聖堂側の回廊からミレイユと数名の修道騎士、そしてその後ろにセオドアが現れる。もっと取り乱しているかと思ったが、二人とも妙に静かだった。


「正式な立会いの場にしては、招かれざる客が多いですね」


 私が言うと、セオドアは青ざめたまま薄く笑った。


「王国の契約に関わる以上、財務局も同席する権利がある」


 大法官側記録官が眉をひそめる。


「本来は事前申請が必要だ」


「緊急事態ですから」


 うまい言い方だ。もっとも、今さら追い返せる空気でもない。


 ミレイユは契約板を見つめ、囁くように言った。


「こんなふうになっていたのね」


 あれほど関わっていて、全部は知らなかったのだろうか。少なくとも中央側の中枢までは見ていなかったらしい。


 私は契約板へ近づいた。視界に流れ込む線を一つずつ読む。


 王妃補署の欠落。

 戦時臨時負担の恒久化。

 聖堂慈善口座を経由した補填の偽装。

 グランツ家による外債再編。

 辺境伯血統への担保集中。


 母の覚え書きは、ここまで見えていたわけではないだろう。けれど核心は掴んでいた。誇らしくて、同時に苦しかった。


「書き換えられますか」


 ルシアンの低い声。


 私は板から目を離さずに答える。


「完全に元へ戻すのは難しいです。王国中の契約が絡んでいる。でも、北境だけへ押しつけている線は切れます。正しい分担へ戻せる」


「必要な条件は」


「正規の立会い。王家、聖堂、辺境伯、そして帳簿の目」


 その場にいる、と言えばいる。


 だがセオドアがすぐに口を挟んだ。


「そんなことを許すと思うか? 王国財政が混乱するぞ」


「もう混乱しています」


 私は振り返った。


「見てください。ここには本来中央が負うべき欠損まで、全部北境へ逃がした痕跡がある。これを維持するほうが王国を壊します」


「理想論だ!」


「違います。現実です」


 怒鳴るセオドアの背後で、黒い数字がひどく揺れていた。追い詰められている証拠だ。


「セオドア様。あなたは王国を守りたいんじゃない。帳簿の外へ逃がした責任を戻されたくないだけです」


「黙れ!」


 彼が一歩踏み出した瞬間、ルシアンがその前へ出る。抜剣こそしないが、空気が凍る。


「これ以上近づくな」


 ミレイユがその間へ割って入った。


「やめてください!」


 全員が一瞬止まる。


 彼女は私を真っ直ぐ見た。


「リディア様。もし書き換えるなら、全部見た上でやって。ここには北境だけでなく、救貧院も、孤児院も、王都の施療所も、何もかも絡んでいる。線を切れば、誰か別の弱い場所が潰れるかもしれない」


 その言葉は脅しではない。本気の恐怖だ。


 私は契約板へ視線を戻した。


 確かにその通りだった。雑に切れば被害は他所へ飛ぶ。だからこそ、ただ戻すだけでは足りない。新しい線を置かなければ。


 私は深く息を吸い、板の周囲へ紙を並べた。

 グランデルの元帳写し。

 北境防衛債の契約札。

 王太后の認可状。

 母の覚え書き。


「切るんじゃありません」


 私は静かに言った。


「戻し先を、正しい位置へ書き直すんです」


 王太后付き書記官が前へ出て、王家立会いの印を置く。聖堂側立会人も迷った末、頷いて印を重ねた。ルシアンは辺境伯として血の一滴を契約板へ垂らす。私は指先をインクに浸し、帳簿魔法の式を書く。


 板が眩く光った。


 次の瞬間、膨大な情報が流れ込む。


 王都南工廠の裏金。

 聖堂慈善会計の水増し。

 地方徴税の滞納隠し。

 戦死者年金の先送り。

 王家の見栄のための無駄な式典費。

 全部、全部、全部。


 吐き気がするほど多い。


 でも逃げない。ここで目を逸らしたら、また誰か一人へ押しつけられる。


「王家へ戻す」

「聖堂へ戻す」

「地方へ戻す」

「補填不能分は時限債へ」

「北境への集中は禁止」


 言葉と共に線を書き換えていく。黒い束が抵抗し、手首が焼けるみたいに熱い。契約板そのものが『今のままが楽だ』とでも言うように軋んだ。


 セオドアが叫ぶ。


「やめろ! そんなことをしたら、今までの財政が――」


「だから今までが間違っていたんです!」


 私は怒鳴り返した。初めてかもしれない。


「見えない場所へ人の命を流し続ける財政なんて、壊れて当然でしょう!」


 その瞬間、母の覚え書きの最後の頁がふわりと開き、余白にあった小さな補記が光った。


『不足を戻す時は、必ず返済の道も同時に書くこと』


 私は息を呑み、最後の一行を契約板へ刻む。


『戦時特別再建債 五年償還 公開監査付』


 逃がした責任を、今度は公開のもとで返させる。


 契約板が大きく震え、黒い線が一斉にほどけた。


 ルシアンの身体を縛っていた見えない荊も、同時に砕け散るみたいに消えていく。


 彼が膝をつきかけ、私はとっさに支えた。


「ルシアン様!」


「……平気だ」


 声は掠れていたが、あの慢性的な重さがない。胸元を見ても、もう黒い荊は残っていなかった。


 周囲では聖堂の立会人が震えながら板を見つめ、記録官が必死に書き留めている。ミレイユは唇を噛んだまま、その場へ崩れ落ちた。セオドアだけが、まだ信じられないという顔をしていた。


「終わりました」


 私がそう告げると、円形室にいた誰もがしばらく動けなかった。


 終わった。

 本当に。


 長く、長く押しつけられていた勘定が、ようやく正しい帳面へ戻ったのだ。

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