黒い王都、赤い辺境
再び王都へ入った時、街の空気は前回とはまるで違っていた。
門番の視線に好奇心だけでなく緊張が混じり、広場の掲示板には『北境決算書』の要約が何枚も張られ、人々が声を潜めながらも熱っぽく議論している。商人は商人で「どこまで本当か」と値動きに怯え、貴族は貴族で「王太后が動いた」と顔色を変えていた。
数字が表に出ると、王都はこんなふうにざわめくのかと、少し冷たい感慨を覚える。
「おお、帳簿のご夫人だ」
「辺境伯も一緒だぞ」
「本当にグランツ家が……?」
囁きは馬車の中まで届いた。
私は膝の上の書類箱へ手を置く。もう誰にも燃やさせない。ここまで来たのだ。
王太后宮へ先に通されると、セシリアは相変わらず静かな書斎で私たちを迎えた。けれど机上には前回より何倍もの書簡が積まれている。
「ご苦労だったわね」
その一言だけで、少し救われる気がする。
「王都の反応は」
ルシアンが問うと、王太后は薄く笑った。
「上々よ。商業組合は怒り、地方守備隊は呆れ、聖堂は慌て、財務局は青くなっている」
言い方が面白すぎて、緊張していたはずのハンナの肩が微かに揺れた。
「ただし、追い詰められた側も動くわ。今夜、中央聖堂地下の契約保管庫へ手が入る可能性が高い」
私はすぐに理解した。
「元の契約線を消しに行く、ということですか」
「ええ。北境守護の中央側記録を焼けば、副本だけでは『解釈の違い』へ持ち込めると思っているのでしょう」
王太后は私たちへ一枚の認可状を差し出した。王家と大法官の連署入りだ。
「公開審問の前に、正式な立会いのもとで保管庫を開けなさい。証拠の保全と、必要なら契約そのものの是正を」
必要なら。
その言葉の意味を、私もルシアンもすぐに理解した。
中央側の元帳がある。
そしてそれを開く許可が、今ここにある。
その日の夕方、私は一度だけ、ミレイユと顔を合わせた。
王城から中央聖堂へ向かう回廊の途中。白い修道衣に身を包んだ彼女は、以前よりずっとやつれて見えたが、目の奥だけは妙に冴えていた。
「リディア様」
「ミレイユ様」
互いに立ち止まる。ハンナと王太后付き書記官が少し離れて控え、周囲には聖堂兵がいた。二人きりではない。けれど、十分に私的な距離だった。
ミレイユは先に口を開く。
「ここまでなさるなんて思いませんでした」
「そちらこそ」
「わたくし、ずっと思っていましたの。あなたはどうして、そこまで正しくいたがるのだろうって」
疲れたように、でも笑う。
「正しさだけでは人は救えませんのに。数字だけ整えても、明日のパンが急に降るわけでもない」
私は彼女を見た。
「だから慈善会計を膨らませたんですか」
「必要だったのです」
ミレイユの声は、そこで初めて感情を露わにした。
「王都で人を動かすには、物語がいる。涙がいる。『可哀想な者を救う聖女』という看板がいる。そうでなければ、誰も銀貨一枚出さない。あなたみたいに冷たい数字だけで、人が動くと思って?」
そう言い切る彼女の背後で、歪んだ金色の線が揺れていた。
善意がなかったとは思わない。たぶん本当に、最初は救いたかったのだろう。
でも途中で、手段が目的を食い潰した。
「動きますよ」
私は静かに答えた。
「少なくともグランデルでは動きました」
「それはあなたが好かれたからでしょう」
「違います。私が隠さなかったからです」
ミレイユの眉が寄る。
「苦しい数字も、不足も、返せないものも、全部見せた。だから皆、自分で選べたんです」
「選べない人間はどうするのです?」
「選べない立場を利用して搾り取らない仕組みを作るべきです」
私の答えに、彼女はしばらく黙り、それから小さく笑った。
「やっぱり、分かり合えませんわね」
「ええ。たぶん」
「でも一つだけ教えてあげます。中央聖堂地下の契約保管庫は、帳簿の目を持つ者しかまともに読めません。あなたが行くのでしょう?」
「はい」
ミレイユはその時、妙に哀しそうな顔をした。
「だったら見てください。王都がどれだけ多くのものを見ないまま積み上げてきたかを」
彼女はそれだけ言い残して去った。
脅しではない。忠告に近い響きだった。
夜、中央聖堂地下の保管庫へ向かう一団は小規模だった。
私、ルシアン、ハンナ、王太后付き書記官、聖堂側立会人、大法官側の記録官、そして数名の護衛。保管庫の扉には重い鍵と封印線が三重に張られ、長年誰にも触れられてこなかった冷気が漂っている。
「開錠します」
書記官の声と共に、封印が一つずつ外れる。
最後の線が解けた瞬間、私は反射的に一歩後ろへ下がった。
濃い。
グランデルの元帳と同種の、しかし規模が桁違いの黒い契約の匂いがする。
ルシアンが私の肩に手を置いた。
「無理はするな」
「その言葉、そっくりお返しします」
なんとか息を整え、私は扉の向こうを見た。
中央聖堂地下保管庫。
そこにあるはずなのは、王国が帳簿の外へ押しやってきたものすべてだ。
なら、見届けるしかない。
私は一歩、闇の中へ踏み込んだ。




