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赤字より重いもの

北門外柵が破られた夜、グランデル砦は本当の意味で戦場になった。


 遠くから聞こえていた怒号と金属音が、もう壁の向こうではなく足元で響く。担架で運ばれる負傷兵、泣き叫ぶ子供、煤にまみれた補修班。臨時会計所の床にまで泥と血が持ち込まれ、書記たちの手は震えながらも止まらなかった。


 私は自分に、繰り返し言い聞かせる。


 止まるな。

 ここで止まったら、もっと死ぬ。


「負傷区分、赤札と黄札を分けて! 薬草の強いものは赤札優先!」

「遺族仮金、今夜だけ上限を外します! ただし記名は必須!」

「乾パンを砕いて粥へ回して。噛めない負傷者が増えてる!」


 声を張り上げるたびに喉が擦れる。


 それでも次の指示を出す。出し続ける。


 ベルナールが蒼白な顔で近づいてきた。


「奥様、北門倉庫の一つが燃えました。保存麦三割消失」


 三割。


 目の前の数字が一瞬だけ揺らぐ。


 戦時の三割は大きい。だが絶望している時間はない。


「延焼は?」


「止めましたが、完全消火にはまだ」


「よかった。残りの麦は南蔵へ分散。明日からは配給量を一割落とします。ただし前線だけは維持」


「はい」


 続いてハンナ。


「避難所の毛布が底をつきます」


「礼拝堂の祭礼布を切って下に敷いて。暖炉室を第二避難所へ開けます」


 トマス。


「護送用の馬が一頭やられました。薬草便の速度が落ちます」


「なら薬草は高濃度のものだけ前線へ。煎じ薬は避難所で薄めて配る」


 次、次、次。


 数字はどんどん悪くなる。


 でも悪い数字は、見えなくなるよりずっとましだ。


 深夜近く、イザベルが血のついた頬のまま会計所へ飛び込んだ。


「北門内側に亀裂! 補修班が足りない!」


「今送れるのは?」


「男手はもう限界だ」


 私は周囲を見た。書記の中には兵の家族の女性もいる。鍛冶場見習いの少年も、年配の使用人も。


 戦える者だけが支える局面ではなくなっている。


「補修経験がある人、前へ!」


 思わず叫ぶと、数人の手がすぐに上がった。鍛冶場の妻、城館の古参使用人、ラーデ村から来た大工見習い。


「北門へ板材運搬。イザベル隊長の指示に従ってください。絶対に単独行動はしないこと」


 皆が頷く。


 誰も英雄になろうとしていない。ただ、自分の町を守るために動いている。その事実が、胸を締め付けるほど重い。


 しばらくして、カイルが疲れ切った顔で戻ってきた。


「奥様、閣下が」


 またその言葉だ、と思った瞬間にはもう走っていた。


 北門へ近づくほど空気が冷たく、鉄臭くなる。階段を駆け上がった城壁上で見たのは、火の粉の中に立つルシアンの背中だった。


 破城槌を押し返し、兵をまとめ、血だらけでなお前へ立っている。


 その姿は凄絶で、同時に、見ているだけで胸が苦しい。


 彼の周囲では黒い契約線が暴れ、城壁の亀裂と負傷兵の札と燃えた倉庫の欠損が、全部そこへ流れ込もうとしていた。


「ルシアン様!」


 私が呼ぶと、彼は振り返った。驚いたのか、それとも怒ったのか、一瞬だけ目を見開く。


「来るなと言ったはずだ!」


「会計上の確認です!」


「今それを言うか!」


「今だからです!」


 怒鳴り返しながら、私は壁際の損耗を見た。北門の内側石積み、残り耐久、補修材、兵の疲労。さらに、その下――地下礼拝堂の元帳へ流れ込む黒い線。


 あれを止めないと、門もルシアンも持たない。


「イザベル隊長! ここを任せます! ベルナール様、会計所へ戻って北境防衛債の台帳を全部持ってきて!」


 皆がぎょっとする。


「奥様、何を」


「元帳を使います」


 ルシアンの顔色が変わる。


「だめだ」


「今さら遅いです。皆さんが出資してくださった線を、ただの安心材料で終わらせるつもりはありません」


 私は踵を返し、地下へ向かって走った。


 礼拝堂奥の封鎖区画。元帳は昨夜と同じ位置にあったが、今は頁が勝手にめくれ、黒いインクがにじみ出している。契約が損耗を処理しきれず溢れているのだ。


 私は北境防衛債の台帳を元帳の横へ置いた。


「皆さん、貸してください」


 誰にともなく呟き、契約札の山を一つずつ広げる。


 ベルナールの退職積立。

 ロザリーの礼拝堂備蓄。

 村人たちの労働。

 未亡人の小袋。

 トマスの信用枠。

 兵士たちの休憩時間。

 子供たちが集めた布切れまで。


 それぞれに、合意の印がある。

 任意の、選び取った線だ。


 私はインクに指を浸し、元帳の切れた金線へ繋いでいく。


「強制ではない」

「搾取ではない」

「これは、この町が自分で選んだ勘定です」


 言葉にするごとに、元帳の黒が少しずつ引いた。


 痛みを完全に消すことはできない。欠損は欠損だ。損耗は現実だ。


 でも、一人へ押しつける形だけは変えられる。


 その瞬間、頭の奥へ激しい眩暈が走った。元帳の情報量が多すぎる。歴代の死、失った村、飢えた冬、ルシアンの十四歳、十六歳、二十歳の夜――全部が一気に流れ込み、思わず膝をつく。


 だめだ、ここで倒れるな。


 私は母の手紙を胸元から取り出し、握った。


『一人で抱え込まないで』


 そうだ。


 今抱えているのは私一人じゃない。


 私は最後の線を結び、元帳へ新しい項目を書き足した。


『北境防衛債 一時受入 合意済』


 すると、黒い脈動が大きく跳ね、次の瞬間すっと静まった。


 遠く上で、城壁を叩く音が一段弱まる。


 私はふらつきながら立ち上がり、地上へ戻った。


 北門に出ると、ルシアンが剣を支えに立っていた。息は荒いが、さっきまでの限界ぎりぎりの色は薄れている。


「……やったのか」


「一時しのぎです」


 私は壁にもたれながら答える。


「でも、押しつける先を変えました。町が選んだ分だけ、元帳が受け取った」


 ルシアンはしばらく私を見つめ、それから血と煤にまみれた手で私の頬へ触れた。


「無茶をしたな」


「お互い様です」


 その時、北門の外で敵の角笛が鳴り、遠ざかっていく気配がした。今夜の攻勢を一度引くのだろう。


 勝ったわけじゃない。

 でも、持ちこたえた。


 私は崩れそうな足で立ち続けながら、城壁の上から見える夜の町を見た。


 燃えた倉庫。

 泣いている子供。

 負傷兵を運ぶ担架。

 祈るロザリー。

 記録を続けるハンナ。

 札を抱えて走るベルナール。


 赤字より重いものがある。

 それは人の命で、信頼で、選び取られた責任だ。


 だから私は、この勘定を最後まで合わせる。

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