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黒狼旗、北門に立つ

北境防衛債の契約が結ばれた二日後、黒狼旗は北門に掲げられた。


 風を孕んだ旗が高く鳴る音を、私は会計所の窓から見上げた。戦の合図だ。もう後戻りはない。


 敵は一つの軍ではなかった。


 北方の流れ者、山岳の傭兵、そして境界を越えてきた武装集団。見た目はばらばらだが、持っている武器と補給が妙に揃っている。つまり誰かが裏で纏めている。斥候報告と押収物の刻印を見れば、王都経由の金が流れているのは明白だった。


 だが、今はその証拠集めより前に、まず耐えること。


「北門第三補給、乾パン六十、塩水樽二、包帯一束!」

「東櫓の弓兵、矢束不足! 予備を回して!」

「避難所へ毛布、幼児が三!」


 大広間の臨時会計所は、今や前線の裏返しだった。書記たちが走り、札がひっきりなしに動き、私もほとんど立ちっぱなしで指示を飛ばす。


 戦時の数字は生き物だ。一刻前に足りていたものが、次の刻には尽きる。だから情報を止めないことが何より大事になる。


「奥様、南壁の補修班から人をもう三人」


 ハンナの報告に、私は即座に板を見た。


「鍛冶場から二人、洗濯場から一人。代わりに洗濯は城館使用人班を増やします」


「はい」


「あと、南壁へ送る釘箱、昨日のロットは混ぜないで。粗悪品が三割あります」


 横でトマスが感心半分、呆れ半分の声を出した。


「本当に全部見てるんですね」


「見ないと死にますから」


 笑い事ではない。実際、粗悪な釘を混ぜれば補修壁が持たず、夜襲時に穴が空く。


 外では既に矢が飛び、攻城用の梯子が掛けられ始めていた。北門の石壁に震動が伝わってくるたび、会計所の水差しが小さく揺れる。


 ルシアンは夜明けからずっと城壁の上だ。


 北境防衛債の契約で多少負担は分散されたが、戦えばまた増える。だからこそ私は、戦場へ流れる欠損を一刻でも早く拾い、分類し、戻し先を与えなければならない。


「ロザリー、避難所の熱病持ちの区画は分けてください。毛布は新旧を混ぜない」

「分かりました」

「ベルナール、遺族仮金の台帳、もう一列足します。『戦後返済不要』の寄付分と分けて」


 ベルナールが一瞬だけ目を見張った。


「まだ戦は始まったばかりですぞ」


「だから今です。後から分けようとすると必ず混ざります」


 口に出してしまってから、胸の奥が少し重くなった。


 始まったばかり、ということは、これからもっと増えるということだ。


 正午前、北門から急報が入る。


「敵、梯子十二! うち三本が壁上到達! 負傷兵増加!」


 私は戦況図の札を差し替えた。そこへルシアンの副官が駆け込む。


「奥様! 閣下より。北門左翼の投石量が多すぎる、補修班を後退させるか判断を」


 判断を、こちらへ寄越した。


 私は北門左翼の台帳と現在の補給記録を一気に見た。投石被害、壁厚、補修材残量、作業員人数、退避した場合の再配置時間。


「後退は半刻だけ。完全撤退はだめです。代わりに北櫓の未使用板材を回して、補修は夜に二交代制へ。今は兵を通す隙間だけ維持してください」


「了解!」


 副官が走り去る。


 トマスが目を丸くした。


「よくそんな即決を」


「決めないほうが危険なので」


 前世でも、締め切りの迫った数字ほど迷う時間のほうが高くついた。


 午後、敵は一度退いた。


 だがそれは本当の退却ではなかった。北門正面の圧を弱め、代わりに東側外れの水路へ少人数を回したのだ。


 その情報は、避難所へ配る水桶の減り方で先に気づいた。


「……おかしい」


 私は札を見つめる。


 東水路は前線ではないのに、水と包帯の消費が急に増えている。負傷兵搬送の経路でもない。


「イザベル隊長を!」


 駆け込んできた本人に、私は図を突きつけた。


「敵、本命は東水路です。陽動で北門へ目を向けさせています」


「根拠は?」


「消費量です。水路側の見張りが増援を要求できていない。たぶん連絡路を切られてる」


 イザベルは一瞬だけ迷い、それから戦況図を抱えて踵を返した。


「外れたらどうします」


「外れたら私が後で反省文を書きます」


「なら当ててください」


 その言葉を残して彼女は走った。


 数刻後、東水路で敵の潜入を阻止したとの報告が入る。見張り塔が一つ危なかったらしい。


 ハンナが息をつきながら言った。


「反省文、不要になりましたね」


「助かります」


 でも気は抜けない。敵は学習するし、こちらも疲れる。


 夕刻が近づく頃、城壁の上から戻ったルシアンが会計所へ立ち寄った。外套は土と血で汚れているが、背筋は伸びている。周囲が一瞬で道を開けた。


「状況は」


「北門と東水路は持ちました。南壁は想定内。問題は矢の消耗が早いことです」


「鍛冶場に夜通し作らせる」


「はい。あと、敵の持っていた投石器の石材、刻印が王都南工廠のものと一致します」


 私がそう言うと、ルシアンの目が冷えた。


「証拠は」


「回収済み。別箱に保管しています」


「よくやった」


 短い言葉なのに、背筋が少し伸びる。


 その時、北門側から地鳴りのような音が響いた。皆が顔を上げる。次いで、伝令が転がり込んできた。


「北門外柵、突破! 敵が破城槌を――」


 言い終わる前に、遠くで木の裂ける音がした。


 私は反射で戦況図へ走り、北門の札を『保持』から『危険』へ差し替える。


 会計所の空気が一気に張り詰めた。


 ここからが本番だ。


 黒狼旗はまだ落ちていない。

 でも、今夜の勘定はたぶん今まででいちばん重い。

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