町が私たちに出資する日
翌朝、グランデル砦の中央広場には、鐘の音と共に人が集まった。
兵、兵の家族、村人、商人、職人、礼拝堂の修道女たち、城館の使用人たち。戦の気配を感じているからだろう。呼びかければいつも以上に早く集まり、誰もが不安そうな顔をしていた。
台の上には私、ベルナール、ロザリー、トマス、そして椅子に座ったままのルシアンが並ぶ。彼はまだ完全ではない。それでも自分の足でここへ来ると言って聞かなかった。
私は広場を見渡し、深く息を吸った。
これから話すことは、たぶん辺境伯家の恥だ。
でも同時に、この町の真実でもある。
「皆さん、お忙しいところ集まってくださってありがとうございます」
ざわめきが少し収まる。
「今日はお願いがあります。先に言います。簡単なお願いではありません。断っていただいても構いません。断ったからといって不利益は与えません」
最初に逃げ道を示す。強制ではないと明確にする。それが大事だ。
「グランデル砦は長年、王都への特別負担と、古い契約の歪みによって削られてきました。その不足分の多くを、歴代の辺境伯が自分一人で背負ってきました。ルシアン様も同じです」
広場が静まり返る。
私は元帳の写しを掲げた。もちろん全文は見せない。だが必要な部分だけ、誰でも分かる形にまとめてある。
「物資が足りない時。村が焼かれた時。城壁が崩れた時。兵が傷ついた時。その一つ一つの『足りない』が、契約によって辺境伯へ流れていました」
ルシアンの横顔は無表情だった。でも指先だけがわずかに強張っているのが見える。
「これまで私は、帳簿を整え、不正を止め、足りない分を少しずつ戻してきました。けれど戦時になると、欠損はまた一気に膨らみます。このままでは、ルシアン様は持ちません」
あちこちで息を呑む音がした。
私は続ける。
「本来この契約は、一人で背負うものではありませんでした。王家、聖堂、地方、領民。守られる側も、守るために少しずつ出し合う形だった。その線が切られ、今は辺境伯だけに集まっている」
トマスが腕を組んだまま低く呻く。
「……だからいつも、最後に閣下が無茶を通してたのか」
私は頷いた。
「ええ。ですが、今日はその線を一時的に戻したいんです」
広場のざわめきがまた広がる。
「出してほしいのは三つです。お金、労働、あるいは少量の魔力。どれか一つでも構いません。『北境防衛債』という形で記録し、必ず帳面に残します。戦後、収穫や交易が戻った時点で返す。返済方法も、利率も、ここに書きます」
私は大きな板へ貼った条文を見せた。
一口ごとの単位。
上限。
返済順序。
凶作時の繰越。
名誉寄付と貸付の区分。
そして何より、『任意であること』。
「これは寄付ではありません。施しでもありません。町が、この町自身へ出資する仕組みです」
言い切ってから、私は広場を見渡した。
沈黙。
想定していた。簡単には手が上がらない。だって私は今、戦の前にもっと負担してくれと頼んでいるのだから。
喉が乾く。
でもここで焦ってはだめだ。私は息を整え、最後の一言を置く。
「……私は、皆さんを信じたいです」
その時、最初に動いたのはベルナールだった。
老執事は一歩前へ出て、懐から小さな鍵束を取り出した。
「私は奉公人ですが、先代からの退職積立がございます。半分を貸し付けましょう」
広場がざわつく。
続いてロザリー。
「礼拝堂には、祭礼用に積んでいた小麦と乾燥豆があります。戦が終わったら、また皆で祝い直せばいい」
トマスがやれやれと肩をすくめる。
「商人が乗らないわけにはいかないでしょう。ローエン商会、護送と塩の供給を追加します。ただし返済表は毎月見せてくださいね、奥様」
「もちろんです」
声が少し震えた。
次に、ラーデ村の村長が帽子を胸へ当てて前へ出る。
「春貸しで助けてもらいました。種が実ったら返します。その前に、今日の分として男手を十人。城壁補修へ」
「うちもだ」
「こっちは羊毛を回せる」
「鍛冶見習いを二人出す」
「少しだけなら銀貨もある」
堰を切ったように声が上がり始める。
兵の未亡人が、震える手で小袋を差し出した。
「夫の弔慰金の残りです。全部じゃないけど、半分なら」
私は思わず台を降り、その人の前へ行った。
「全部はいりません」
「でも、閣下に死なれたら困るんです。あの方がいないと、うちの子たちはまた冬を越えられない」
その言葉が、胸へ深く刺さる。
そうか。
皆、分かっていたのだ。
言葉にされないだけで、ルシアンがどれだけ削られていたかを。
私は小袋を受け取り、深く頭を下げた。
「必ず返します」
「ええ。帳簿の奥様なら、ちゃんと返してくださるでしょう」
あちこちで小さな笑いが起こる。緊張が少しずつ和らいでいく。
私はハンナや書記たちへ合図し、受付表を広げさせた。名前、出資の種類、量、返済希望の有無、緊急時の優先事項。自分の負担がどこへ行くのかを見えなくしない。それが何より大切だ。
数刻後、臨時会計所は人で溢れていた。
兵は夜番の余剰時間を。
職人は修繕用の技術を。
農民は収穫後の返済を前提に、今出せる少量の穀物を。
トマスは商会の信用枠を。
礼拝堂は保管場所と炊き出し班を。
私は一つ一つ確認し、契約札へ記す。任意の小さな約束が積み上がるごとに、視界の端で黒い線がほどけ、代わりに細い金の線が増えていく。
夕暮れ近く、最後の署名を終えた私は、息を吐きながらルシアンのもとへ戻った。
彼は椅子に座ったまま広場を見ていた。顔色はまだ万全ではない。だが、胸元の黒い荊は昨夜より明らかに薄い。
「……見えますか」
私が囁くと、彼は静かに頷いた。
「軽い。信じられないくらい」
「皆さんが、自分で選んでくださったからです」
強制ではなく、合意で結び直した契約。だからこそ元帳の古い線が反応したのだ。
ルシアンはしばらく広場を見つめ、それから低く言った。
「私は、ずっと守る側だと思っていた」
「はい」
「守られることにも、借りることにも慣れていない」
「でしょうね」
「だが……」
彼は私を見た。その目に今まで見たことのない色があった。驚きと、安堵と、ほんの少しの自嘲と。
「こんなにも、返したいと思うものなんだな」
その一言で、私はもうだめだった。
泣きたいような笑いたいような気持ちで、思わず顔を伏せる。
ルシアンがゆっくり立ち上がった。まだ無理はしてほしくないのに、その動作は不思議と危なげがない。
そして、人目もある広場の端で、彼は私の頬へ手を添えた。
「リディア」
「……はい」
「ありがとう」
次の瞬間、唇が触れた。
深くはない。誓いを確かめるみたいな、ごく短い口づけだった。
なのに広場の喧騒も、紙の擦れる音も、全部遠くなる。
遅れて歓声が上がったのは、たぶん私が真っ赤になって固まってからだった。
トマスが大声で「今のは契約外サービスですか?」と叫び、イザベルに頭を叩かれている。
私はもう何も言えなかった。
ただ一つだけ、確かに分かったことがある。
この町は、私たちに出資してくれた。
そして私は、その信頼を絶対に赤字にはしない。




