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呪いの元帳

狼煙が上がった夜、グランデル砦に眠る者はほとんどいなかった。


 兵は持ち場へ走り、鍛冶場では夜通し槌音が響き、厨房では大鍋が火から下ろされることなく煮え続ける。臨時会計所に集めた長机の上には、傷薬、矢束、乾パン、毛布、石材、薪――あらゆる項目の札が並び、書記たちのペン先が紙を走っていた。


 私はその中央で、ほとんど休まず数字を捌いていた。


「北壁補修班へ釘二箱追加、ただし鍛冶炭との交換で」

「南井戸、滑車修理は明朝。今夜は水運搬を人員追加で凌ぎます」

「薬草庫、乾燥棚は礼拝堂の旧棚を転用して」


 言葉を飛ばすたびに、札が動き、人も動く。


 すべてを完璧にはできない。でも、止めないことはできる。


 深夜、ようやく一息つこうとしたその時、カイルが血相を変えて飛び込んできた。


「奥様! 閣下が」


 嫌な予感は、だいたい当たる。


 私が駆け込んだのは地下の医務室だった。ルシアンは簡易寝台に横たえられ、上着を脱がされ、胸元に黒い亀裂のような契約線が何本も走っている。今まで見た中でいちばんひどい。まるで砦全体の未処理が、無理やり彼一人へ流し込まれているみたいだった。


「何があったのですか」


「斥候から戻った兵の負傷報告を受けた直後です」


 カイルが早口で答える。


「しかも今夜に限って、北門、南壁、外縁村の損耗が同時に増えた。閣下は平然としていましたが、急に」


「平然としているから余計に危ないんです」


 思わず語気が強くなる。


 ルシアンの額には汗が滲み、呼吸は浅い。それでも意識はあるらしく、薄く目を開けた。


「……騒がしいな」


「騒がせているのはあなたです」


 私が椅子を引き寄せて座ると、彼は苦しそうな顔のまま、かすかに口元を動かした。冗談を言いたいのかもしれないが、まったく笑えない。


 私は胸元の契約線へ手をかざした。


 見える。はっきり見える。北壁の損耗、負傷兵の補填、避難民の受け入れ、物資輸送の中断、そしてその全部を束ねる黒い一本の太い線。


 それはグランデル砦の地下深く、さらにどこか遠くへ繋がっている。


「元帳……」


 口から言葉が零れた。


 カイルが眉をひそめる。


「元帳?」


「はい。個別の欠損を全部、最後に集約している大元の契約があります。これまでのは枝です。本体は別にある」


 私は立ち上がった。


「ベルナール様を。あとロザリーも」


 ほどなく二人が来る。私は机上に簡易図を広げた。グランデル砦、礼拝堂、地下文書庫、先代たちの霊廟、そして北境守護誓約原簿の位置関係。


「もし契約が『帳簿』の形を取っているなら、個別の損耗を最後に束ねる保管場所があるはずです。普通の会計でいう総勘定元帳みたいなものが」


「つまり地下か」


 ベルナールが低く言う。


「ええ。しかも聖所に近い場所。契約魔法は祈りと記録が重なる場所を好みます」


 ロザリーがはっとした顔になる。


「地下礼拝堂の奥に、古い封鎖区画があります。先々代の頃から『聖別前の文書は入れるな』と伝わる場所が」


「案内してください」


 カイルが慌てて止めた。


「今ですか? 閣下を置いて?」


 私は迷った。迷ったけれど、置いて行くしかない。


「今だからです。根を探らない限り、この痛みは増える一方です」


 ルシアンが寝台の上で低く息を吐く。


「……行け」


 その声に、私は彼を見た。


 いつもよりずっと弱っているのに、目だけは揺れていなかった。


「でも」


「君が行くべき場所があるなら、止めない」


 その信頼が、嬉しくて、怖い。


 私は一度だけ頷き、ベルナールとロザリーを伴って地下礼拝堂へ向かった。


 グランデル砦の地下礼拝堂は、地上の礼拝堂よりさらに古かった。石柱には風化した祈りの文句が刻まれ、灯りをかざすと湿った壁に影が揺れる。祭壇の裏手、半ば崩れた格子扉の奥が問題の封鎖区画だった。


「鍵は?」


「ありません。古い封印だけです」


 ロザリーが祈祷文を唱え、私は帳簿魔法で封印線を読み解く。防ぐための封印ではなく、忘れさせるための薄い覆い。都合の悪い文書をしまっておく場所としては、これ以上なく悪趣味だ。


 格子の向こうは小部屋だった。


 中央に石の台座。その上に、分厚い鉄具で留められた一冊の巨大な帳簿が置かれている。


 見た瞬間、私は息を失った。


 黒い。

 あまりにも黒い。


 砦中の契約線がそこへ集まり、頁の隙間から血管みたいに脈打っている。あれだ。あれが元帳だ。


「……こんなものを」


 ベルナールの声も震えていた。


 私は慎重に近づき、表紙へ触れた。


 視界が一気に開く。


 歴代辺境伯の名。

 その年ごとの損耗。

 不足分の肩代わり。

 戦死者名簿。

 村ごとの滅失。

 そして末尾に、ルシアン・ヴァルティエの頁。


 そこには今の欠損が、際限なく書き足されていた。


 しかも元帳の末端には、細い金の線が何本も途切れた状態で残っている。これは本来、辺境伯以外の担い手――王家、聖堂、地方貴族、あるいは領民との正当な分担があった証だ。だが誰かがそれらを切り、ルシアンだけへ流すよう改変している。


「最悪です」


 私が呟くと、ベルナールが苦々しく答えた。


「ええ」


「でも、戻せます」


 二人が私を見る。


 私は元帳の金線を指差した。


「完全に切れていません。『合意のうえで分担する』ための古い路が残っている。つまり、本来この契約は一人が全部抱えるものじゃない」


「ではどうするのです」


 ロザリーが問う。


 私は、答えを口にする前に一瞬だけためらった。


 できる。

 でも、重い。


「町に説明します」


「説明?」


「この契約のことを。辺境伯が何を背負ってきたかを。そして、戦時の間だけでも、任意で分担してくれる人を募ります」


 ベルナールが目を見開く。


「そんなことを民に?」


「ええ。黙って押しつけるのは、この元帳を改変した側と同じですから」


 口にしながら、自分の声が少し震えているのが分かった。


 怖いのだ。


 もし皆が拒んだら。

 もし『辺境伯の問題だ』と切り捨てたら。

 その時、ルシアンの負担はもう限界だろう。


 でも、それでも隠してはいけない。母の手紙に、一人で抱え込むなとあった。なら私は、見えた欠損を正直に出すしかない。


 元帳の必要箇所を写し、封を戻して医務室へ駆け戻る。


 ルシアンはまだ意識を保っていた。私は寝台の脇に膝をつき、今見たものを簡潔に伝えた。


「町に話します。あなたが背負ってきたものを」


「……反対はしない」


「でも、きっと恨まれるかもしれません」


「そうかもしれない」


「それでもやります」


 ルシアンは痛みに歪んだ顔のまま、私を見た。


「君は、いつもそうだな」


「何がですか」


「怖がりながら、進む」


 図星だった。


 私は少しだけ笑ってしまう。


「怖いですよ。ものすごく」


「私もだ」


 その一言に、胸が熱くなる。


 私は彼の手を握った。


「明日、広場に皆を集めます」


 ルシアンは静かに頷いた。


 明日で、何かが決まる。


 私たちがこの町の中で、本当に信じられているのか。

 それとも、ただ便利に使われていただけなのか。


 元帳よりも重い勘定を、たぶん明日、支払うことになる。

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