表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/37

辺境伯夫人の戦時会計

王太后セシリアとの面会は、想像していたのとだいぶ違った。


 もっと仰々しいものを覚悟していたのだが、実際に通されたのは王太后宮の奥にある私室兼書斎で、暖炉が赤く燃え、古い本と花が控えめに飾られた、むしろ静かな部屋だった。


 そこにいたセシリア王太后は、白銀の髪をきちんと結い上げた小柄な老婦人で、第一印象は「穏やかな祖母」だった。だが、こちらを見上げる灰色の目は一瞬で分かる。穏やかさの奥に、長く勝ち残ってきた人間の鋭さがある。


「ずいぶん面白いものを持ってきたわね、リディア」


 開口一番、それだった。


 私が差し出した母の覚え書きと写しに一通り目を通した彼女は、暖炉の火を背にして言う。


「エレノアは優秀な子だったわ。数字を怖がらず、人の顔色にも流されなかった。だから早く黙らされた」


 ぞくり、と背筋が冷えた。


「お母様は……やはり、この件で」


「殺された、とまでは言えないわね。証拠がないもの」


 王太后は肩をすくめる。


「けれど、あの子が北境負担の調査に踏み込んでから、やたらと事故や不運が続いたのは事実よ。周囲が黙るには十分だった」


 私は拳を握った。分かっていたつもりだったのに、他人の口から確定に近い形で聞くと、怒りの質が変わる。


 セシリアは私を見て、少しだけ目を細めた。


「似ているわね」


「母に、ですか」


「怒った時の顔が」


 あまり嬉しい場面ではないのに、少しだけ胸が温かくなった。


 王太后はすぐに本題へ戻る。


「この覚え書きと副本写しで、監査会をひっくり返す材料にはなる。でも今すぐ表へ出しても、財務局は『偽造だ』で押し切ろうとするでしょうね。だから先に、彼らが止められない場所で事実を積む必要がある」


「止められない場所?」


「辺境よ」


 セシリアはルシアンへ視線を移した。


「グランデルの状況は?」


「静かではありません。監査会以降、北部街道の斥候報告が増えています。誰かが意図的に揺らしている」


「でしょうね。王都があなたを足止めしている間に、国境を崩したいのでしょう」


 私は息を呑んだ。


 つまり、監査会そのものが時間稼ぎ。辺境が持たなくなれば、契約の是非を争う前に「やはり中央の統制が必要だ」と押し切れる。


「お前たちは今すぐ戻りなさい」


 王太后の声は柔らかいのに、命令の響きを持っていた。


「私は裏で盤を整える。大法官にも、王妃派にも、ギルドにも、見せるべき帳簿は見せる。ただし公開の一手は、お前たちが辺境を守り切ってから。負けた側の正しさなど、宮廷では簡単に潰されるもの」


 厳しい。けれど正しい。


 セシリアは書簡を二通書き、封蝋を押した。


「一通は北部守備隊へ。もう一通は王都商業組合へ。表向きはささやかなお願いだけれど、読める者には読めるでしょう」


 つまり、味方を動かしてくれるのだ。


 私たちは夜明け前に王都を発った。


 王太后の護衛と身分証明がついたことで、途中の関門は驚くほどスムーズに通れた。グランデルへ急ぐ馬車の中、私は膝の上に新しいノートを開く。


 題して『戦時会計暫定案』。


「戻ったらすぐ、配給を戦時仕様へ切り替えます」


 私が言うと、向かいのルシアンが目を上げた。


「早いな」


「早いくらいでちょうどです。通常時の帳簿と戦時の帳簿は別物ですから」


「何が違う」


「最優先が『無駄なく回す』から『切らさず回す』へ変わります。多少のロスは許容して、絶対に止めてはいけない線を明確にするんです」


 私は項目を並べていく。


 食糧、塩、水、矢、薬草、包帯、鍛冶炭、馬の飼葉、夜番用灯油。

 さらに、非戦闘員の避難導線、子供と高齢者の名簿、臨時炊き出し班、遺族支援の仮金。


「遺族支援まで入れるのか」


「入れないと後で崩れます」


 戦時ほど、数字の外へ追いやられるものが多い。だから最初から項目に入れておく。見えない支出は、一番弱い人から奪う。


 ルシアンはしばらく黙ってノートを見ていたが、やがて言った。


「君を王都へ置いてきたら、たぶんグランデルは半年持たないな」


「半年も持つなら優秀です」


「褒めていない」


「でしょうね」


 その何でもない応酬に、少しだけ張っていたものが緩んだ。


 グランデル砦へ戻ると、予想通り空気は張り詰めていた。


 斥候報告は三倍。北部の廃砦近くで不審な集団が動き、交易路の一部では荷馬車襲撃も起きている。トマスの顔色まで悪かった。


「奥様、今までのツケ払いの信頼は維持しますが、さすがに戦が本格化すると――」


「分かっています。だからこそ、今のうちに固定契約へ切り替えます」


 私は王太后の書簡を見せた。商業組合への一通だ。そこには、北境への物資供給を妨げる者は王太后の覚えめでたくない、と実に上品な言葉で脅しが書いてあった。


 トマスが目を丸くする。


「……奥様、どこまで行ってきたんですか」


「少し、帳尻を合わせに」


 説明は省いたが、十分伝わったらしい。彼はすぐに護送付き契約へ応じた。


 その日のうちに、私は城館の大広間を臨時会計所へ変えた。


 長机を並べ、帳面を項目別に分け、書記と計算のできる兵士、さらには兵の家族の中から読み書き可能な女性たちも募集する。ハンナが採用表を作り、ロザリーが非戦闘員の名簿をまとめ、ベルナールが各部署の責任者を呼び集めた。


「これより、戦時会計に切り替えます」


 私が宣言すると、部屋中の視線が集まる。


「『どこが足りないか』を隠すのは禁止。隠した分だけ前線が死にます。必要なものは必要だと言ってください。言いづらい場所ほど先に拾います」


 最初、皆の顔には戸惑いがあった。


 戦時に欠損を口にするのは弱さだ、と染みついているのだろう。


 だから私は続けた。


「未処理は罪ではありません。隠すことが罪です」


 その言葉に、鍛冶場責任者が最初に手を挙げた。


「炭が三日分足りません」


「記録します。次」


「兵舎の毛布が破れています」

「南井戸の滑車が限界です」

「薬草庫、乾燥棚が足りません」


 次々に声が上がり始める。


 それでいい。ようやく戦える形になる。


 夜遅くまで会計所は騒がしかった。だが不思議と混乱ではない。人が自分の不足を言葉にできる場所には、秩序が生まれる。


 すべての整理が終わる頃、私は一人で数字を締めた。


 戦の足音は近い。

 でももう、見えない赤字に怯えているだけではない。


 数字はまだ真っ赤だ。けれど手の届く場所に並び始めている。


 その時、扉の外で急ぎ足が止まった。


 伝令兵が蒼白な顔で頭を下げる。


「北門より報告! 廃砦方面に大規模な狼煙、複数!」


 来た。


 私はペンを置き、立ち上がる。


 戦時会計の最初の締め日は、どうやら今日になりそうだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ