雨の夜の護送馬車
護送馬車は王都の裏通りを抜け、雨の降り出した夜道をひた走った。
御者台にはイザベル、車内には私とルシアン、ハンナ。窓布を下ろしていても、外から伝わる蹄の振動が慌ただしい。追手がいるのか、単に雨で路面が荒れているのか、それすら判別しづらかった。
私は膝の上で書類包みを抱えたまま、何度も母の手紙に触れてしまう。
無事だ。ここにある。
それだけで涙が出そうになるのを、必死で押しとどめた。
「奥様、少し息を整えてください」
ハンナが低く言う。
「まだ追われている可能性があります。倒れられるほうが困ります」
「……そうね」
自分でも驚くほど声が掠れていた。
ルシアンは切り傷を押さえたまま、窓布の隙間から外を見ている。顔色は悪くない。だが胸元の黒い荊がまた濃くなっていた。戦闘と緊張、それに今夜の未処理が一気に流れ込んでいるのだろう。
「目的地は?」
私が尋ねると、彼は視線を戻さずに答えた。
「王太后宮だ」
「え?」
「文書院の件は、もう王城の通常ルートでは扱えない。協力者がいるなら、最上位の保護を取る」
王太后。
つまり、セシリア王太后か。
現王の祖母で、すでに政治の表舞台からは退いているが、今も宮廷内には大きな影響力を持つと言われる人だ。社交界では穏やかな老婦人として語られる一方、裏では最後まで勝つ人間だとも。
「協力者って……」
「監査会の紙片、筆跡は王太后付き書記官のものだった」
そんなことまで分かるのか、と驚いたが、辺境伯として王都の権力筋を把握していて当然なのかもしれない。
その時、馬車が急に大きく揺れた。
外でイザベルの怒声。
「後ろだ!」
次いで、何かが車輪へ当たる鈍い音。追手だ。
馬車の速度が上がり、私は座席に叩きつけられそうになる。ハンナが素早く私の肩を支えた。
窓布の隙間から見えたのは、黒装束の騎乗者が二騎。王家の正規兵ではない。私兵か、雇われの腕利きだ。
「書類狙いですね」
私が言うと、ルシアンが短く頷く。
「それ以外に理由がない」
次の瞬間、車体に矢が突き立った。
心臓が跳ね上がる。
「止まってはだめ!」
私が思わず叫ぶと、外からイザベルの笑い混じりの声が返る。
「止まるつもりもありません!」
頼もしすぎる。
だが状況は良くない。雨脚は強くなり、石畳から土道へ入ったせいで馬車が大きく揺れる。もう一本矢が刺さり、今度は窓枠をかすめた。
ルシアンが私の前へ手を伸ばした。
「下がれ」
言うと同時に、自ら窓布を少しだけ開いて外を確認する。その横顔に、雨と灯りがちらりと当たる。
「前方に礼拝堂がある。そこで一度切る」
「切る?」
「追手をだ」
そう言うや否や、馬車が急停止した。
私たちはほとんど転がるように降ろされ、街道脇の小さな石造りの礼拝堂へ駆け込んだ。廃れかけてはいるが、壁は厚い。雨宿りと籠城には悪くない。
イザベルが扉を閉め、外からつっかえ棒をかける。
「二騎。数は少ないけど、腕は悪くない。たぶん足止め役です」
「本隊が来る前に離れる必要がありますね」
私が言うと、ルシアンは頷いた。
「だが数分は稼げる」
礼拝堂の中は薄暗かった。祭壇には古い燭台、長椅子は埃を被り、壁の聖像は半分ひび割れている。私は息を整えながら、濡れた髪を押さえた。
こんな夜に、こんな場所で、何をしているのだろうと思う。
でも同時に、不思議なくらい頭は冴えていた。
「ハンナ、書類の状態は?」
「無事です。多少濡れましたが内側は守れています」
「よかった」
ルシアンが入口付近で剣を構えたまま、こちらへ視線だけ寄越す。
「王太后宮まで直行は難しい。追手を切った後、一度別の馬車へ乗り換える」
「どこで?」
「東外苑の修道院。ロザリーの古い伝手がある」
きちんと次の手まで打ってある。そういうところが、この人は本当に抜け目ない。
外で金属音がした。イザベルが応じて打ち返す。
私は反射的に一歩前へ出たが、ルシアンに制される。
「来るな」
「でも」
「君の役目は書類を守ることだ」
低く強い声だった。
悔しい。でも正しい。
私は長椅子へ書類包みを置き、自分にできることを探した。視界には礼拝堂の古い寄進台帳が残っている。ふと、それに刻まれた簡易な契約式が目についた。寄進物の保全と盗難防止のための、ごく弱い結界。
使えるかもしれない。
「ハンナ、インクを。イザベル隊長、入口から二歩内側、床石の継ぎ目を踏まないでください」
「また何か始まりましたね、奥様」
「はい。弱いですが足止めにはなります」
私は床に残る古い結界線へ、帳簿魔法の補助式を書き足した。保管対象を書類包みに設定し、侵入者の『持ち出し』だけを重くする。完全な防御ではない。でも一瞬でも相手の動きが鈍れば十分だ。
ほどなくして扉が破られ、黒装束の男が一人なだれ込む。次の瞬間、その男の足元が床へ貼りついたみたいに重くなり、動きが鈍った。
「今!」
イザベルの剣が閃き、男の手から短剣を弾き飛ばす。ルシアンが間を詰め、一撃で戦闘不能にした。もう一人はそれを見て退こうとしたが、私の書いた持ち出し式に引っかかったのか、扉際で動きがもつれる。
その隙を逃さず、イザベルが体当たりで叩き出した。
数十秒にも満たない攻防だった。
嵐みたいに短く、濃い。
静寂が戻った礼拝堂で、私はようやく膝の力が抜けるのを感じた。長椅子へ座り込むと、ルシアンがすぐ前にしゃがみ込んだ。
「怪我は」
「ありません。たぶん」
「たぶん?」
「心臓がうるさいだけです」
私がそう言うと、彼は一瞬だけ真顔のまま止まり、それから小さく息を吐いた。笑いを堪えたのだと分かる程度には、最近の私は彼の表情を読めるようになっていた。
「君はこういう時でも君だな」
「そうじゃないと、たぶん怖くて動けません」
これは本音だった。
前世でもそうだ。修羅場の時ほど、数字や作業手順に縋った。感情だけでいると押し潰されるから。
ルシアンは少し黙り、それから静かに言った。
「さっき、君が離縁を断ったと聞いた時」
その言葉に、胸が跳ねる。
「……はい」
「嬉しかった」
雨音が、急に遠くなった気がした。
礼拝堂のひび割れた聖像も、濡れた外套も、血の匂いも、その一言の前では全部背景になってしまう。
私はうまく呼吸ができないまま、なんとか言葉を探した。
「私も……あなたが、私を切り離さなかったの、嬉しかったです」
ルシアンの喉がわずかに動く。
あと一歩何か言えば、たぶん今までの線が変わる。そう分かる距離だった。
けれどその時、外からイザベルの低い声が飛んだ。
「閣下、増援の灯りが見えます。移動を」
現実は容赦ない。
私たちは立ち上がり、書類包みを抱えて再び夜へ出た。
雨はまだやまない。
でも、不思議と寒くはなかった。




