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盗まれた国境の契約

王城西棟旧文書院は、今ではほとんど使われていない古い建物だった。


 新しい行政文書は東棟の近代的な書庫へ移され、こちらに残っているのは家系記録や旧法、廃止された税制、昔の戦時協定といった「今は参照されないはずのもの」ばかりだという。


 だからこそ、消しきれないものを埋めるには都合がいい。


 夜半過ぎ、私たちは裏庭の回廊から文書院へ入った。ハンナが事前に見取り図を頭へ叩き込み、イザベルが衛兵の巡回の隙を読んでくれたおかげで、ここまでは驚くほど順調だ。


「第三閲覧室は上階の端です」


 ハンナが小声で告げる。


「使用記録が古く、鍵の管理も甘いはずだと」


「頼りになります」


「奥様の無茶に慣れてまいりましたので」


 褒められていない気がするが、今はいい。


 第三閲覧室の扉には、確かにハーゼンフェルト家の旧閲覧申請札が差し込まれたままだった。しかも名義は亡き母、エレノア・ハーゼンフェルト。


 胸がざわつく。


 鍵を回して中へ入ると、埃の匂いがした。書棚は高く、窓は小さく、机の上には古い閲覧用の布手袋が置かれている。誰かが長い間、ここで何かを調べていた気配が残っていた。


「母が……ここに」


 呟いた私へ、ルシアンが低く言う。


「急げ。長居はできない」


 私は頷き、書棚を見回した。


 ハーゼンフェルト家、グランツ家、北境守護、王妃補署権、戦時税特例。


 棚札の並びを追ううち、ひときわ不自然な空白が目についた。数冊抜き取られた跡だ。だが、その奥に、布で包まれた薄い冊子が押し込まれている。


 引き抜いて開く。


 母の筆跡だった。


 滑らかで端正な、子供の頃に何度も見た字。数字を書く時だけ少し癖の出るあの筆致を、私は間違えない。


『北境負担についての覚え書き』


 喉が詰まった。


 頁をめくる。そこには母が調べた事実が、驚くほど丁寧にまとめられていた。


 三代前の戦時臨時負担。

 王妃補署付きで十年後解除。

 だが二十年前、王印のみを用いて再延長。

 その際、グランツ家が仲介した中央借入が介在。

 返済の保証人として辺境伯当主の魔力担保が追加。

 補署欠如ゆえ、本来は無効の可能性が高い。


 さらに後半には、ハーゼンフェルト公爵家の名が出てくる。父が、王都側との折衝窓口として関わっていた記録だ。


「……お父様も知っていた」


 知っていたどころではない。母は『彼は理解しながら沈黙を選んだ』とまで書いていた。


 頁の間からもう一枚、小さな紙が滑り落ちる。


『リディアへ。もしあなたがこれを読んでいるなら、私はきっと止められなかったのでしょう。数字が見えるあなたなら、この歪みを見過ごせないと思います。どうか、一人で抱え込まないで』


 視界が揺れた。


 幼い頃、母はよく私に「見えすぎることは呪いじゃない」と言ってくれた。父や周囲が私の目を気味悪がる中で、唯一そう言ってくれた人だ。


 その母もまた、同じ歪みを見ていたのだ。


「奥様」


 ハンナの声で我に返る。


「こちらにも」


 彼女が見つけた木箱の中には、母の覚え書きだけでなく、当時の会計抜粋、グランツ家出入り商会の支払記録、そして王妃補署のない追記命令書の写しまで入っていた。


 決定打に近い。


「これだけあれば……」


 言いかけたところで、イザベルが鋭く囁く。


「来るぞ」


 次の瞬間、廊下の向こうで複数の足音がした。


 しかも巡回兵の規則的な音ではない。急ぎ足で、でも警戒している足音。こちらを把握した者の動きだ。


「ハンナ、重要なものだけまとめて。原本は――」


「持ち出せる分だけで十分です。覚え書き、副本写し、命令書写し、商会記録」


 ハンナの動きは驚くほど速い。私は母の手紙と覚え書きを胸元へ入れた。


 扉が乱暴に揺さぶられる。


「開けろ!」


 男の声。王城の衛兵にしては荒い。


 ルシアンが前へ出た。


「裏窓は」


「細いですが人一人なら」


 私の言葉より先に、彼は判断した。


「ハンナとリディアが先だ。イザベルは後衛、私は扉を抑える」


「だめです」


 思わず口をつく。


「あなた一人に――」


「時間がない」


 低い一言に、反論が喉で止まる。


 扉の外で錠前をこじ開ける音がした。イザベルが剣を抜く。


 私は震える指で母の手紙を握り締めた。


 こんなところで失うわけにはいかない。母が残したものも、グランデル砦も、そして――ルシアンも。


 裏窓を開け、石の外壁に足をかける。雨上がりで滑りやすい。ハンナが先に降り、私はその後を追った。背後で木扉が破られる轟音が響く。


「奥様!」


 下からイザベルが手を伸ばす。飛び降りるように着地した瞬間、上階で剣戟の音が鳴った。


「ルシアン様!」


 叫びそうになる口を、ハンナが押さえる。


「今はだめです」


 分かっている。分かっているけれど。


 数秒後、文書院の側面窓を蹴破るようにしてルシアンが飛び出した。追手の一人が後ろから出ようとしたところを、上からイザベルの短剣がかすめる。


「走れ!」


 その声で、私たちは闇の庭園を駆けた。


 王城の庭は整いすぎていて隠れる場所が少ない。けれどハンナが知っていた。古い排水路へ繋がる植え込みの切れ目を。そこを抜け、馬車寄せから離れた裏門へ回り込むと、外で待機していた小型の護送馬車が見えた。


「誰が用意を?」


 私が息を切らして問うと、ルシアンが短く答える。


「監査会の後、万一に備えていた」


 さすがというか、なんというか。


 馬車へ飛び乗った直後、遠くで鐘が鳴り始めた。王城内の非常召集だ。


 扉が閉まり、馬車が動き出す。


 揺れる薄闇の中で、私はようやくルシアンの腕に血が滲んでいるのに気づいた。


「怪我を」


「浅い」


「見せてください」


「後でいい」


「今です」


 私が食い下がると、彼はわずかに目を見開き、それから諦めたように腕を差し出した。布地が裂け、皮膚に浅い切り傷が走っている。幸い深くはないが、放ってはおけない。


 ハンナが手早く布を裂いて包帯代わりにし、私は止血のため手を添えた。


 触れた瞬間、彼の鼓動が速いのが分かる。戦闘の後だから当然だ。でも私の胸の鼓動も負けていなかった。


 母の手紙を胸元に感じながら、私は深く息を吐いた。


 盗まれたのは国境の契約だけではない。


 多くの人が、沈黙を強いられ、奪われ続けてきたのだ。


 なら、返しに行かなければならない。

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