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離縁の誘惑には乗りません

監査会の後、私たちに与えられた滞在先は王城近くの離宮だった。


 聞こえはいいが、実態は柔らかな監視である。門には王家の兵が立ち、出入りする者は記録され、面会も申請制。表向きは「審査中の便宜」だが、逃がさないための措置なのは明らかだった。


 とはいえ、完全に閉じ込められているわけでもない。だからこそ面倒だ。


 翌朝からさっそく、来客希望の札が何枚も届けられた。財務局の補佐官、聖堂関係者、そして父、セオドア、さらに「旧友」を名乗る見知らぬ夫人まで。


「人の価値が上がるのは、だいたい取り込みたい時だけですね」


 私が応接用の一覧を見て言うと、ハンナが淡々と頷いた。


「王都の皆様は分かりやすくて助かります」


「本当に」


 まず現れたのは父だった。


 離宮の応接間で向かい合うと、彼は昨日よりもさらに疲れたように見えた。だがそれを隠すだけの気位は崩していない。


「率直に言う」


 座るなり父は切り出した。


「ここで争いを長引かせても、お前たちに利はない」


「そうでしょうか」


「ある。お前がこのまま辺境伯に付き従えば、不正の共犯と見なされる恐れがある。だが今ここで『自分は辺境伯に欺かれていた』と証言すれば、婚姻の解消と保護が可能だ」


 私はゆっくり瞬いた。


「離縁を勧めていらっしゃるのですね」


「現実的な助言だ」


「私にとって?」


「家にとってだ」


 やはりそうか。


 私は膝の上で指を組んだ。


「仮に私がそう証言したら、グランデル砦はどうなります?」


「知る必要はない」


「あります。私が立て直している途中ですから」


 父の眉間に皺が寄る。


「まだそんなことを言うのか。辺境はお前の遊び場ではない」


「遊びで横流しを止めたり、未払いを整理したり、村の春貸しを組んだりはしません」


「口答えするな!」


 声が鋭く響いた。


 でも私は、もう怯まなかった。父の怒声は昔からよく知っている。あれは正しさの証明ではなく、都合の悪さの表明だ。


「お父様こそ、なぜそこまで私に離縁を迫るのですか。そんなに辺境の副本が困るのですか。お母様も、それで何かを知ったのではありませんか」


 父の表情が、一瞬だけ剥がれた。


 痛いところを突いたのだと分かる。だが彼はすぐに無表情へ戻った。


「亡き母を利用するな」


「利用しているのはどちらですか」


「……リディア」


 父の声は、今度は怒りより低く、どこか疲れていた。


「王都には勝てん。グランツ家にも、今の王家にも逆らえない。正しくあることより、生き残ることを選ばねばならぬ時がある」


 珍しく本音に近い言葉だった。


 でも、その本音に私は同意できない。


「生き残るために誰かを押しつけ続けた結果が、今の辺境でしょう」


 父は何も言わない。


「私は離縁しません。少なくとも、あなた方を助けるためには」


 はっきり言い切ると、父は長く息を吐いた。


「……母に似て、つくづく頑固だ」


「褒め言葉として受け取ります」


「褒めてはいない」


「でしょうね」


 父はそれ以上何も言わず、応接間を去った。去り際、ほんのわずかに足取りが重かったのが印象に残る。彼もまた、どこかで帳尻を合わせ続けてきたのだろう。だが同情はしない。合わせ方を間違えたのは彼だ。


 午後にはセオドアが来た。


 案内された彼は、昔と変わらぬ完璧な服装と姿勢でソファへ腰を下ろしたが、目の下にはうっすら疲れが見えた。王都側も余裕ばかりではないらしい。


「二人きりで話したい」


 そう言われたが、私は即座に断った。


「ハンナは残します」


「相変わらずだな」


「前より慎重になっただけです」


 セオドアは苦笑したふりをして、机上の茶器へ視線を落とした。


「昔の君なら、もう少し感情的だった」


「昔の私は、だいぶ無駄な努力をしていましたから」


「無駄?」


「あなたの機嫌を取ることです」


 彼の顔に一瞬だけ苛立ちが走った。


 でも、すぐに整える。王都の男は体面を作るのが上手い。


「リディア。私は君を嫌って婚約を解消したわけじゃない」


「存じています。都合が悪くなったからでしょう」


「……君は本当に、今のほうが話しづらい」


「前より賢くなりましたので」


 セオドアは身を乗り出した。


「聞け。辺境伯は長く持たない。あの負担が消えない以上、いずれ潰れる。君が今あの男に義理立てしても、最後には全部抱えて沈むだけだ。だからこちらへ戻れ。監査会で証言を変えれば、君は守れる」


「誰が守るんですか」


「私だ」


 あまりに迷いなく言うので、かえって笑いそうになった。


 前世の記憶がある今なら、よく分かる。こういう人は『守る』という言葉を、自分の都合の良い配置に戻す意味で使う。


「セオドア様」


 私はできるだけ穏やかに言った。


「私、あなたに守られた記憶が一度もないんです」


 彼の表情が止まる。


「学院でも、婚約中でも、婚約破棄の時も。あなたはいつも、自分に利益があるかどうかでしか私を見ていなかった。今だってそうでしょう。副本と帳簿と、私の目が欲しいだけです」


「違う」


「違いません」


 私はもう笑っていなかった。


「ルシアン様は最初に『愛するつもりはない』と言いました。でも、必要な権限はくれたし、成果は成果として扱ったし、私の仕事を私のものだと認めました。あなたは一度もそうしなかった」


 セオドアは、そこで初めて取り繕うのをやめたように見えた。


「辺境伯に情が移ったのか」


「ええ。たぶん」


 口にした途端、胸がどくりと鳴る。


 でも嘘ではない。だから私は目を逸らさなかった。


「少なくとも、離縁の誘惑には乗りません」


 セオドアはゆっくり立ち上がった。手袋を嵌め直す仕草が、妙に固い。


「君は後悔する」


「したら、その時に勘定し直します」


「最後まで帳簿か」


「最後までです」


 彼はそれ以上何も言わず、去った。


 応接間の扉が閉まった瞬間、私は背もたれへ深く沈んだ。思っていた以上に消耗したらしい。


 ハンナがそっと新しい茶を置く。


「お疲れ様です、奥様」


「ありがとう。……私、今とんでもないことを口にしましたよね」


「たぶん、辺境伯様に情が移った件でしょうか」


「やっぱりそこですよね」


「ええ。ですが、今さらでは」


 侍女の観察は本当に容赦がない。


 夜、私はルシアンへ今日のやり取りを報告した。彼は最後まで静かに聞いていたが、セオドアの『戻れ』という言葉のくだりで、氷のように目が冷えた。


「危険だ。今後、彼との面会は単独で受けるな」


「最初からそのつもりはありません」


「離縁の件は」


「断りました」


「……そうか」


 その一言が、ひどく短く、でも重かった。


 私は袖の中の紙片を取り出す。昨日の監査会で渡された、あのメモだ。


「それで、本題です。今夜、西棟旧文書院へ行きたいんです」


 ルシアンの眉が上がる。


「今夜?」


「ええ。母の名で探せ、とありました。こういうものは、時間を置くほど消されますから」


「罠の可能性は」


「あります。でも、本当に母が何かを残しているなら、急いだほうがいい」


 しばらくの沈黙ののち、ルシアンは立ち上がった。


「分かった。私も行く」


「足止め中なのに?」


「だからこそだ」


 ベルナールは王都にいない。イザベルとハンナだけを連れ、最低限の人数で動くことになった。


 離宮の灯りが落ちる頃、私たちは裏口から静かに出る。


 王都の夜は明るい。でも、明るい場所ほど影も濃い。


 西棟旧文書院へ向かう石畳の上で、私は自分の鼓動が速いのを感じていた。


 怖い。けれど止まれない。


 たぶん母も、こんな夜に同じことをしたのだろうと思った。

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