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王都召喚

王都ルーメルへの道は、行きよりずっと短く感じた。


 たぶん、頭の中が仕事で埋まっていたからだと思う。


 監査会へ持ち込む資料の一覧を作り、原本と複写を分け、礼拝堂副本の保全方法をロザリーと相談し、トマスには万一に備えて「こちらが不在でも納入を止めないこと」を契約に追記させる。春貸し台帳は村長たちへ説明済み、ベルナールには緊急支出の裁量範囲を残し、ハンナには王都滞在中の書類補佐を頼んだ。


 つまり、いつものように慌ただしかった。


 それでも夜、馬車が宿場に止まると、急に静かになる時間がある。


 二日目の宿で、私は窓辺の机に資料を広げていた。外では雨が降り始めている。羽根ペンの先にランプの火が揺れた。


「まだ起きていたのか」


 声と共にルシアンが入ってくる。外套を脱いだばかりなのだろう、肩に雨の匂いが残っていた。


「ええ。王都に着いたら、たぶん落ち着いて見直せませんから」


「そうだろうな」


 彼は向かいの椅子に座る。最近は夜に同じ机を挟むことが増えたせいか、この距離にもだいぶ慣れてしまった。慣れてはいけない気もするのだけれど。


 私は書類を一枚差し出した。


「監査会で相手が突いてくる順番、予想してみました」


「聞こう」


「第一に、副本の正当性。第二に、私の介入権限。第三に、特別負担の停止が国家防衛を損なうという感情論。第四に、私の実家と婚約破棄を絡めた人格攻撃」


 ルシアンは無言で紙に目を通す。


「……だいたい合っている気がする」


「最後のは特に来ると思います。王都はそういう場所ですから」


「分かっていても腹立たしいな」


 その言い方が珍しく率直で、私は少しだけ笑った。


「私もです。でも、感情で返すと向こうの土俵に乗るだけなので」


「よく我慢できるな」


「我慢しているというより、前世で鍛えられました」


「便利だな、その前世」


「便利ですが、たまに急に蛍光灯の夢を見ます」


「……本当に意味が分からない」


 ルシアンが淡く笑う。こういう何でもない会話が、最近の私には妙に大事になっていた。


 少し沈黙が落ちる。


 雨音が、宿の屋根を細かく叩いている。


「リディア」


 ルシアンが、いつもより少し低い声で呼んだ。


「王都で何を言われても、君に責はない」


 私は瞬いた。


「何の話ですか」


「君を辺境へ押しやったのは、王都の都合だ。婚約破棄も、実家の扱いも、今さら全部君の責任のように言うかもしれない」


「言うでしょうね」


「だから先に言っておく。私はそう思っていない」


 胸の奥が、静かに揺れた。


 私は資料を置いた。


「ありがとうございます」


「それだけか」


「十分です」


 本当は十分どころではない。これ以上言われたら、たぶん今の私は耐えられない。


 翌夕、王都へ着くと空気は一変した。


 門からして違う。兵の制服は綺麗で、馬車道は整い、店の看板はきらびやかで、人々の視線には露骨な好奇心が混じっている。


 婚約破棄された公爵令嬢が、呪われた辺境伯を伴って帰ってきた。


 しかも王命監査会に出席するために。


 噂としては満点なのだろう。


 私たちはまずハーゼンフェルト公爵邸へ入った。正式には私の実家だが、帰ってきたという気分はまったくしない。


 応接間に通されると、父は以前と変わらぬ完璧な姿勢で座っていた。だが、その目には歓迎の色は一片もない。


「久しいな、リディア」


「お久しぶりです、お父様」


「辺境で妙な真似をしているそうだな」


 挨拶代わりがそれだった。


 私は微笑みを崩さない。


「妙かどうかは、監査会で判断されるかと」


「口の減らぬところは相変わらずだ」


 父はルシアンへ形式的に目礼する。


「辺境伯閣下。娘がご迷惑をおかけしていなければよいのですが」


 遠回しにもほどがある。


 けれどルシアンは眉一つ動かさなかった。


「問題ありません。彼女はよく働いています」


 父の指先が、机の縁をわずかに叩いた。


「……そうですか」


 それから彼は、私だけを見る。


「監査会では余計なことを言うな。副本とやらも、王家の解釈に委ねればよい。今さら辺境の特別負担を揺らせば、国中が混乱する」


「不正な負担を放置するほうが混乱します」


「理屈ではない」


「では何ですか」


「家だ」


 父の声が低くなる。


「お前の言動一つで、ハーゼンフェルト家の立場も揺らぐ。グランツ家とも王家とも対立して、お前に得があるのか」


「私の得失で言えば、もう十分損はしました」


 つい、口調が冷えた。


「でも、だからといって見つけた欠損をそのままにする理由にはなりません」


 父はしばらく私を見つめ、それから吐き捨てるように言った。


「母親によく似てきたな」


 その一言に、胸の奥がひりついた。


 亡くなった母のことを、父が口にするのは珍しい。しかも褒め言葉ではない形で。


「お母様は、何をしたのですか」


 父は答えない。


 だが、その沈黙だけで十分だった。母は何かを知っていた。たぶん、この家とグランツ家と北境負担のどこかで。


 応接間を出た後、私は廊下の窓辺でしばらく立ち尽くした。


「大丈夫か」


 ルシアンが隣へ来る。


「……はい、と言いたいところですが、少しだけ腹が立っています」


「少しで済むのか」


「少し、は嘘ですね。かなりです」


 そう言うと、彼はごく小さく口元を緩めた。


「そのくらいでいい」


「慰め方が独特ですね」


「君にはそのほうが合うかと思った」


 否定できない。


 翌朝、王城へ向かう馬車の窓から、懐かしい学院の尖塔が見えた。かつて婚約者と並んで通った道を、今は別の人と進んでいる。


 皮肉だと思うより先に、私は隣のルシアンの存在に少しだけ安堵していた。


 王城の石段の下では、すでに何人もの貴族がこちらを待ち構えている。


 その中に、セオドアとミレイユの姿もあった。


 セオドアは王都で見るとやはり華やかだった。けれど私の目には、袖口から覗く黒ずんだ数字のほうがよく見える。前より増えている。不正の帳尻合わせに追われているのだろう。


 彼は私を見ると、冷ややかな微笑みを浮かべた。


「まさか本当に来るとは思わなかったよ、リディア」


「呼ばれましたので」


「相変わらず可愛げがない」


「その評価、もう聞き飽きました」


 ミレイユがそっとセオドアの腕に触れ、柔らかく微笑む。


「どうか今日は、皆が穏やかに話し合えますように」


 その背後で、彼女の慈善会計の歪みがいやに濃く見えた。


 穏やかに、ね。


 たぶん無理だろう。


 でも構わない。


 私たちはもう、引き返す地点を過ぎている。

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