聖女は慈善を語り、私は勘定を語る
ミレイユ・アストンは、三日後の昼にやって来た。
白を基調にした旅装、金糸の刺繍、聖堂の紋章を掲げた馬車、付き従う修道女たち。そして人好きのする、曇りのない笑顔。
王立学院で初めて見た時と何も変わっていないようでいて、実際にはずいぶん変わっていた。今の彼女はただの平民出の少女ではなく、「民に愛される聖女候補」という物語をまとっている。
厄介さが桁違いだ。
「お久しぶりです、リディア様」
玄関広間でミレイユは私の手を取り、懐かしむように目を細めた。
「まさかこんな場所で、またお会いできるなんて」
「ええ、本当に」
私も同じく笑う。周囲の目がある。最初の数手は穏やかに行くべきだ。
ミレイユは続けた。
「グランデル砦が苦しいと聞いて、聖堂でも何かできないかと皆で話しておりましたの。冬を越えたばかりでしょうし、きっと困っている孤児や寡婦も多いはずですもの」
「ご配慮ありがとうございます。必要な先へ届くなら歓迎します」
「まあ。必要な先、ですか」
彼女はそこでほんの少しだけ目を細めた。
表情の揺れは小さい。でも私の目には、その背後に薄い金色の欲が見えた。施しそのものより、「施したと見せる場」を欲している。
案の定、彼女は到着してすぐに広場での施療会と慈善演説を提案した。
ルシアンは露骨に嫌そうな顔をしたが、断れば「辺境伯家が慈善を拒んだ」と触れ回られるだけだ。私は頷いた。
「では、収容人数と配布量を先に確認しましょう。こちらで名簿を作ります」
「名簿、ですか?」
「はい。支援は必要な方へ届かなければ意味がありませんので」
ミレイユは一瞬だけ口元を固くしたが、すぐに柔らかな笑顔へ戻した。
「さすがリディア様。きっちりなさっているのですね」
「ありがとうございます」
褒めていないのは分かっている。
その日の午後、広場には思った以上の人が集まった。村人、兵の家族、城館の使用人、そしてミレイユ目当ての野次馬まで。彼女は高い台へ立ち、よく通る声で「苦しむ人々へ寄り添う愛」を語った。
上手い。
悔しいが、本当に上手い。
人は数字より物語に反応する。寒さと飢えと不安の中にいる人ほど、「あなたは可哀想です、だから救います」と言ってくれる声に惹かれる。
そして彼女は、ちゃんとそこで私を使った。
「辺境の現場を預かる皆さまは、とても大変なお仕事をなさっています。でも時には、効率や勘定よりも、心に寄り添うことが必要ですわ。たとえ帳簿に載らない痛みだとしても……」
広場のあちこちで、視線が私へ向く。
言外に、「冷たい帳簿の夫人」と比べているのだ。
うまい。非常にうまい。
でも、残念ながら私はこれに前世から慣れている。会議で感情論をぶつけられた時、反射で殴り返してはだめだ。相手が一番困る土俵へ戻すのが正解である。
私は演説が終わったところで、一歩前へ出た。
「素晴らしいお言葉でした、ミレイユ様」
彼女は勝ち誇った顔を隠しながら微笑む。
「そんな……わたくしはただ、当然のことを」
「ええ。ですから当然、必要な方へ漏れなく届けたいと思います」
私はハンナから受け取った帳面を開いた。
「今回、聖堂から持ち込まれた薬草包は五十七、乾パンが百二十、毛布が三十七。受領予定名簿は二十一名分。ですが、こちらで照合したところ、名簿上のうち八名は実在確認が取れませんでした」
ざわ、と空気が揺れる。
ミレイユの笑みが固まった。
「え……?」
「さらに、王都の慈善会計から見れば、今回の輸送費は物資総額に対して高すぎます。馬車三台分と申告されていますが、実際に到着したのは二台。もう一台はどちらへ?」
人のざわめきが大きくなる。
私の目には、広場の端に立つ修道女の一人が青ざめるのが見えた。名簿の水増し役だろう。
ミレイユは一瞬で表情を作り直した。
「リディア様、まさか今この場で、善意を疑うのですか?」
「疑っているのではなく、確認しています。善意だからこそ、雑に扱ってはならないと思っていますので」
「わたくしは、ここにいる苦しい方々へ今すぐ届けたくて――」
「でしたらなおさら、存在しない八名の分がどこへ消えるのか、先に確かめるべきです」
私は帳面を閉じた。
「ロザリー、実在確認が取れなかった方々の件、こちらへ」
ロザリーが静かに前へ進み出る。彼女はこの数日、兵の家族や村人の名簿を手伝ってくれていた。
「少なくとも、砦内と近隣三村に該当名はありません」
広場がしんと静まった。
ミレイユは唇を噛み、それから涙を浮かべた。これも上手い。群衆の心を戻すには十分な仕草だった。
「わたくしは、ただ助けたくて……。王都の手続きに不備があっただけかもしれませんのに、どうしてそんなに責めるのですか」
広場の一部から同情のため息が漏れる。
ここで畳みかけると、こちらが悪役になる。
私は一拍置いた。
「責めていません」
声を低く、はっきり出す。
「責めているのは、必要な人へ届くはずの物資を途中で減らす仕組みです。私が守りたいのはそこです」
私は広場を見回した。
「夫を戦で失った方、子を抱えて冬を越えた方、春貸しを受けて畑を繋いだ方。ここには本当に助けが必要な人がいます。だから私は、善意という言葉で誤魔化される欠損を許したくありません」
静けさの質が変わった。
今度はこちらを見ている。
私はさらに続けた。
「ミレイユ様。もし本当に支援を届けたいのなら、名簿をこちらで組み直しませんか。輸送費も公開しましょう。そうすれば来季はもっと多く助けられます」
逃げ道を出す。
でも彼女は乗らなかった。
「……リディア様は、本当に数字がお好きなのですね」
「ええ。数字は、奪われた分を数え直せますから」
ミレイユの瞳の奥で、何かが冷えた。
その瞬間、私は理解した。彼女は私を単に気に入らないだけではない。自分の物語を壊す存在として、本気で邪魔だと思っている。
施療会自体は続行した。実在確認をした上で物資を配り、余った分は礼拝堂へ一時保管。広場の人々も最終的には納得したらしく、大きな騒ぎにはならなかった。
だが、終わった後で届いた一通の封書が、全部を塗り替えた。
王都王城より、ルシアン・ヴァルティエ辺境伯およびその夫人リディアに対し、特別監査会への出頭を命ずる。
期日は十日後。
理由は『北境守護負担に関する不穏な文書の私的保管および、辺境会計への不適切な介入の疑い』。
「早いですね」
私が言うと、ルシアンは封書を握り潰さんばかりの力で掴んだ。
「ミレイユが来たのは、確認のためか」
「ええ。たぶん、私たちがどこまで掴んでいるか」
そして王都は、もう様子見をやめた。
ミレイユは去り際、馬車の窓から私にだけ見える角度で微笑んだ。
学院にいた頃の、あの無邪気な少女の顔ではなかった。
あれは戦う顔だ。
ならばこちらも、もう分かりやすく構えるしかない。
王都へ行く。
帳簿も副本も、全部持って。




