夏祭りと狼の笑み
監査官が去ってから十日ほどで、グランデル砦の空気は目に見えて変わった。
城壁そのものが新しくなったわけではない。特別負担だってまだ消えていないし、兵糧にだって余裕はない。けれど、配給の予定が見えるようになり、未払い賃金の何割がいつ戻るかが示され、村からは春貸しの受領印が届き始めた。
人は、先が見えるだけでこんなにも表情を変えるのかと思う。
ある朝、厨房へ顔を出すと、料理長が鍋をかき混ぜながら言った。
「奥様、今日は塩気を少し増やせそうです」
「理由は?」
「トマス商会の塩が予定通り届きました。それと、昨日のうちに北村から干し茸も」
「それは良い報告ですね」
言いながら私は簡易台帳を開き、納入欄へ印を付ける。
食材の種類が一つ増えるだけでも、厨房の士気は変わる。料理長は鍋を覗き込みながら、少しだけ胸を張った。
「祭りの頃には、もう少しましなものを出せるかもしれません」
「祭り?」
「夏招き市ですよ。毎年、雪解けが落ち着いた頃に、村から人が集まって小さな市を開くんです。ここ数年は縮小続きでしたが」
私は顔を上げた。
「今年もやる予定ですか」
「閣下は、民が息抜きできるならと」
なるほど。ルシアンがそういう判断をするのは少し意外で、でも嬉しかった。
その日の執務室で私は即座に市の予算表を作った。規模は小さく、警備は厚く、利益より循環を優先。村の余剰品を売る場を作れば、現金が少しずつ回る。何より、砦全体に「まだ先の季節を考えられる」という感覚を与えられる。
「また仕事を増やしているな」
背後からルシアンの声がした。
振り向くと、訓練帰りらしい彼が手袋を外しながらこちらを見ていた。以前より顔色がいい。夜の痛みがまったく消えたわけではないが、少なくとも寝不足で倒れそうな様子は減っている。
「増やしているのではありません。循環を作っているんです」
「言い換えが上手くなった」
「事実です。夏招き市、今年はやります」
「もう決定事項か」
「だめですか」
「いや」
ルシアンは机上の試算表を手に取った。
「村の余剰薬草、羊毛、燻製肉。鍛冶場は簡易農具と釘。城館からは温いスープを安く出す、と」
「子供向けに甘い焼き菓子も少し。人は、景気が悪い時ほど小さな贅沢を覚えていてくれます」
前世で読んだ経済記事を思い出しながら言うと、ルシアンはふっと笑った。
「相変わらず妙なところが実務的だ」
「褒め言葉として受け取ります」
「最近そればかりだな」
その「最近」に、胸の奥が小さく鳴る。
私たちはこのところ、夜ごとの整理報告も含めて一緒にいる時間が増えた。互いに用件しか話さないはずなのに、気づけば紅茶の温度や、書類を置く順番や、沈黙の質まで自然と揃っている。
危険だと思う。
白い結婚だの政略だのと最初に線を引いた相手と、こんなふうに息が合ってしまうのは。
でも、たぶんもう遅い。
夏招き市の当日、砦の中庭と南門広場には久しぶりに人が溢れた。
村人たちが織布や干し肉を並べ、鍛冶場は簡易鍬や包丁を売り、子供たちは木彫りの笛を吹いて走り回る。ロザリーは礼拝堂前で古着の交換会を開き、トマスはちゃっかり一番目立つ場所に商会の天幕を張っていた。
「盛況ですね」
私が言うと、ベルナールが感慨深そうに目を細める。
「ここ数年で、これだけ笑い声を聞いたのは久しぶりです」
私も同感だった。数字が動くのは嬉しいが、人の顔色が変わるのはもっと嬉しい。
この日のために、ハンナに頼んで普段より少しだけ明るい色のドレスを用意してもらった。淡い灰青の地に、装飾は控えめ。辺境で浮かず、でも市の日らしいもの。
その姿を見たハンナが、「ようやく奥様らしいお支度をさせていただけました」と妙に満足そうだったのを思い出す。
広場を一巡りしたところで、ルシアンが合流した。
彼はいつもの軍装ではなく、濃紺の上着に黒の外套という比較的柔らかい格好だった。それだけで周囲の令嬢たちがいれば息を呑んだだろうと思うくらいには、見栄えがする。辺境ではそんなことを言う人はいないが。
「警備に問題は?」
第一声がそれなのも彼らしい。
「今のところありません。売上も悪くないです」
「また売上か」
「大事でしょう」
「否定はしない」
私たちは並んで歩いた。
不思議なくらい、視線を集めても居心地が悪くなかった。村人たちは最初こそ恐縮していたが、トマスが大声で「閣下も奥様も今日はちゃんと金を落としていってくださいよ」と呼びかけたせいで、場が一気に和んだ。
私は薬草束と木彫りの匙を買い、ルシアンは何故か子供に押し切られて焼き菓子を二つ持たされた。
「似合いませんね」
「うるさい」
「でも、悪くないです」
私がそう言うと、ルシアンは微妙な顔で焼き菓子を見下ろした。
その時、ラーデ村の小さな兄妹が駆け寄ってきた。
「りでぃあさま!」
「りゅしあんさま!」
二人とも手に花冠を持っている。どうやら祭り用に編んだものらしい。
「これ、あげる!」
少女が私に差し出した花冠を受け取り、ありがとうと頭を下げると、今度は少年が無表情なルシアンへ突き出した。
「さま、こわいかおしないで」
私は危うく噴き出しかけた。
ルシアンは一瞬だけ固まり、それから驚くほど素直に膝を折った。
「……怖い顔をしていたか」
「うん!」
「善処する」
少年が満足げに花冠を載せる。周囲で堪えきれない笑いが起きた。ベルナールが横を向き、イザベルは露骨に肩を震わせている。
そしてそのまま顔を上げたルシアンと、目が合った。
ほんの一瞬だったけれど、彼は笑っていた。
口元がわずかに緩んだ程度ではない。もっと、無防備な、年相応の笑み。
黒狼伯だの冷徹辺境伯だのと呼ばれる男の、その表情に、私は完全に息を止めた。
「奥様?」
ハンナにそっと呼ばれて我に返る。
「……なんでもありません」
「いえ、だいぶ何かありそうですが」
侍女の観察眼は鋭い。困る。
夕方、祭りの締めに簡単な音楽が流れ始めた。村の楽師が笛を吹き、何組かの夫婦が広場で踊る。私は遠巻きに眺めるつもりだったのに、ロザリーがにこにこしながら近づいてきた。
「奥様、閣下と一曲いかがです?」
「えっ」
「さすがにそれは」
私とルシアンが同時に言った。
でも周囲の視線が集まってしまっている。ここで断れば、かえって気まずい。
私は観念して手を差し出した。
「一曲だけ、なら」
ルシアンは数秒迷った末、その手を取る。
手袋越しの感触は硬くて温かい。近い。近すぎる。市の喧騒も笑い声も遠くなって、私は自分の鼓動だけがやけにうるさく聞こえた。
「……足を踏んだらすみません」
「私も得意ではない」
「少し安心しました」
「なぜだ」
「完璧な人だと落ち着かないので」
そんな会話を交わしながら、たどたどしく数歩。見事な舞ではなかったと思う。でも、周りが嬉しそうに見ているのが分かった。
この時間そのものが、この砦にとっての黒字なのかもしれない。
夜、祭りの後片付けが落ち着いた頃、一通の急報が届いた。
王都聖堂より、聖女候補ミレイユ・アストンが慈善視察の名目でグランデル砦を訪れる、と。
封書を読んだ瞬間、私は笑顔のまま固まった。
最悪の客が来る。
しかも、いちばん空気の良いタイミングを狙って。




