あなたの痛みは、数字になっている
ユリウスが去った翌日から、グランデル砦は目に見えて忙しくなった。
表向きはいつも通り。だが裏では、王都から追加の照会状が次々と届く。兵数報告の再提出、過去五年分の支出内訳、特別負担に関する全資料の写し要求。こちらの手間を増やし、疲弊させるための揺さぶりだとすぐに分かった。
「嫌がらせですね」
ハンナが珍しく辛辣に言った。
「ええ。とても上品な嫌がらせです」
私は机に広がる書類の山を見下ろした。
前世でも、こういう時に来る追加質問はだいたい本質から外れていた。答えれば時間が奪われ、答えなくても印象が悪くなる。だから優先順位をつけて返すしかない。
ただ、その増えた負担は、人間だけでなく契約にも響いていた。
ルシアンの胸元の黒い荊が、日に日に濃くなっている。
夜、私はカイルに呼ばれて再び執務室へ向かった。前と同じく、彼は書類机の前でじっと座っていたが、今度は顔色がさらに悪かった。右手の甲には黒い亀裂のような魔力痕が薄く浮いている。
「閣下は、照会状が重なると特に悪化します」
カイルが低く説明する。
「中央が意図的に未処理を増やしているのでしょう。国境の損耗だけでなく、契約上の義務確認まで閣下に集まるようで」
そこまで分かっているのなら、もはや呪いではなく制度上の暴力だ。
私はカイルに礼を言って下がってもらい、ルシアンの正面に座った。
「怒っている顔だな」
彼がかすれた声で言う。
「ええ。とても」
「私にか」
「中央にです」
ルシアンはかすかに息を吐いた。笑ったのか、痛みに耐えただけなのか分からないほど小さかった。
私は彼の前へ紙を広げる。
「今日は報告ではなく、整理の方法を変えます」
「また仮勘定か」
「はい。でも今回は、あなたの負担がどこから来ているかも分けて見ます」
私は新しい表を書いた。
城壁損耗。
兵站不足。
王都照会。
特別負担。
未払修繕。
対村貸付。
臨時治療費。
項目ごとに数字と責任の所在を書き込み、流れを矢印で示していく。すると黒い契約線の一部が、胸から腕へ移動する前に机上へ留まるようになった。完全には止まらないが、勢いは確実に弱い。
「……本当に変わるな」
ルシアンが低く呟く。
「『あなたが全部背負う』という扱いが、一番契約を暴れさせるんです。項目ごとに分けて、戻し先を定めれば、少なくとも世界に『未処理ではない』と示せる」
「世界、か」
「便利な言い換えです。要するに理不尽です」
私はペンを置き、彼の右手へ視線を落とした。
「見せてください」
「何を」
「手です」
数秒迷ったあと、ルシアンは黙って右手を差し出した。
手袋を外した甲には、やはり細い黒い亀裂が走っている。触れると熱い。火傷に似ているが、皮膚よりもっと内側、魔力の経路が傷んでいる感覚だった。
私はそっと指先を置いた。
その瞬間、視界に流れ込んできたのは数字だけではなかった。
寒風の吹く城壁。
幼い頃のルシアンが父の棺を見送る後ろ姿。
即位ならぬ襲爵の儀。
足りない物資一覧。
救えなかった村の名前。
そして『辺境伯たるもの、欠損を埋めよ』という、重く乾いた声。
私は息を詰める。
「……十四歳」
ぽつりと零れた言葉に、ルシアンが目を上げた。
「何がだ」
「あなたがこれを背負い始めた年齢です」
彼はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように言った。
「そうだ。父が死んだ時だ」
「こんなものを、子供に?」
「辺境には待ってくれる相手がいない」
「そんなの、ひどすぎる」
気づけば、私は本気で怒っていた。
契約の歪みも、中央の搾取も、もちろん許せない。けれどそれ以上に、十四歳の少年へ『足りない分はお前が埋めろ』と押しつけたこの世界の仕組みが、許し難かった。
ルシアンは静かに私を見る。
「君はよく怒るな」
「怒りますよ。あなたの痛みが、全部数字になって見えるんですから」
ルシアンが何か言おうとして、言葉を飲み込む。
私は彼の手を離さず、もう一方の紙へ新しい表を書いた。
王都照会は私が受ける。
対外契約はベルナールと分担。
兵站はイザベル経由で一次集約。
春貸し台帳は村長印で月次報告。
つまり、ルシアンへ直接流れ込む線を減らす。
「これで少しは楽になります」
「君の仕事が増える」
「平気です」
「平気な顔をして無理をするタイプだろう、君は」
「……それは、否定しづらいですね」
前世の私はまさにそうだった。平気です、と言いながら終電を逃した回数など覚えていない。
でも今は、少し違う。
「ただ、今は一人じゃありません」
口にしてから、自分で少し驚く。
ルシアンも同じだったのか、目を細めたまま私を見ていた。
「君は、本当に妙だな」
「よく言われます」
「妙で、面倒で、厄介で……」
「褒め言葉の流れではありませんね」
「だが、君がここに来てから、私の夜は前より静かだ」
胸が、どくりと鳴る。
いつも冷たい声が、今は驚くほど穏やかだった。
私は誤魔化すように書類へ視線を落とし、最後の項目を書き込む。
『辺境伯個人負担 精査中』
「これも、いずれゼロに戻します」
「ずいぶん大きく出たな」
「できないなら言いません」
「できなかった時は?」
私は顔を上げた。
「その時は、別の方法を探します」
ルシアンはゆっくり瞬いたあと、ふと手袋のない手で私の手首に触れた。
前みたいに眠った拍子ではない。はっきりとした意思のある接触だった。
「……ありがとう」
たったそれだけなのに、心臓がうるさくて仕方ない。
私はなんとか平静を装って頷いた。
「どういたしまして」
けれどその夜、自室に戻ったあと、私は机に突っ伏した。
帳簿は読める。
契約の歪みも分かる。
でも、自分のこの鼓動だけは、いちばん計算が合わなかった。




