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王都から来た監査官

王都からの監査官が来たのは、冷たい雨の朝だった。


 名はユリウス・ヴァンデル。財務卿配下の特別監査官で、三十代前半、細身の体に無駄に高価な外套をまとった男だ。口元には愛想のいい笑みを浮かべているが、目は笑っていない。典型的に厄介な相手だった。


「これはこれは、辺境伯閣下。そして奥方様」


 玄関広間に入るなり、彼は丁寧すぎる礼をした。


「王都では大変な評判でして。婚約破棄された公爵令嬢が、こちらで帳簿を引っかき回しているとか」


 開口一番それか。


 私は微笑む。


「おかげさまで、鍋の中身は少し濃くなりました」


「ほう。それは何より」


 言いながら彼の袖口には、金色の細かな粉が付いていた。宮廷御用達の印紙室に出入りした時にしか付かないものだ。つまり、今回の監査命令はかなり急ぎで作られた。


 ユリウスはまず会計室を見たいと言った。


 もちろん案内する。逃げも隠れもしない。


 中へ入った彼は、一瞬だけ目を細めた。棚が整理され、札が付け替えられ、未処理の書類が分類されているのを見て、予想が外れたのだろう。


「……思ったより整っていますね」


「整えましたので」


「辺境にしては上出来です」


「ありがとうございます。辺境にしては、という前置きは不要ですが」


 ユリウスは笑ったまま、次々と書類をめくっていく。徴税記録、兵站、厨房、支払予定表。嫌味は言うが、仕事は速い。単なる使い走りではないらしい。


「ここ。トマス・ローエン商会との後払い契約ですが、担保が薄い」


「支払予定を公開し、納入先を固定しています。彼も納得済みです」


「口約束は信用できませんよ、奥方様」


「紙で交わしていますけれど」


 差し出すと、ユリウスの笑みが一瞬だけ浅くなった。


 午前いっぱいを使った査閲の末、彼はなかなか致命傷を見つけられないようだった。ガーヴィンの横流しもフォスター代官の着服も、こちらから先に摘発済み。むしろ「問題を放置していない」証拠になっている。


 昼食時、彼は談話室で紅茶を飲みながら言った。


「奥方様は、ずいぶんこちらの事情にお詳しいようだ」


「住んでいますから」


「まだ日が浅いでしょう。普通、ここまで踏み込めるものですか」


「普通ではないので」


 イザベルが背後で咳払いをした。たぶん笑いを堪えた。


 ユリウスはカップを置き、今度は露骨に切り込んできた。


「北境守護の特別負担について、何か調べておいでだとか」


「ええ。提出を求められていますので」


「余計な誤解を招く前に申し上げますが、あれは王命に基づく適法な措置です」


「でしたら、副本との齟齬も説明がつきますね」


 空気が変わった。


 ベルナールが目を伏せ、ハンナの手がぴたりと止まる。


 ユリウスは数秒の沈黙ののち、笑みを戻した。


「副本、とは?」


「礼拝堂に保管されていた補遺です。臨時負担は大戦終結後十年で解除とあります」


「……なるほど」


 彼の目から笑みが消えた。


 ようやく仮面の下が見えた気がする。


「奥方様は、知らないほうが幸せなことにも首を突っ込みたがるのですね」


「帳簿を見てしまうと、見なかったことにしづらい性分で」


「それは難儀だ」


 昼の査察はそこで終わったが、ユリウスは引き下がらなかった。夕食の席にも同席し、わざとらしく上機嫌に酒を回しながら兵の数、納税見込み、修繕費の内訳を尋ねてくる。こちらが答えれば、今度は「では王都への追加献上も可能でしょう」と揺さぶってくる。


 私は最初から、その質問を待っていた。


「不可能です」


「なぜ?」


「追加献上を行うと、北壁補修と春貸し台帳の回収見込みが崩れ、結果的に来季以降の中央納税も減るからです」


「短期の忠誠より長期の利益を取る、と?」


「持続可能性、と言っていただけますか」


 食堂の空気が静まり返る。


 ユリウスの笑みが薄くなる一方で、ルシアンの視線は静かだった。


「奥方様は、辺境伯家の利益を優先なさる」


「いいえ。王国全体の損益を見ています。ここを潰したら防衛線も徴税線も崩れます」


「口ではなんとでも言える」


「では数字でどうぞ」


 私は席を立ち、用意していた薄い帳面を彼の前に置いた。


 今週の防衛費、春貸しによる収穫予測、修繕による損耗低減見込み、そして追加献上した場合の三季先までの赤字予測。徹夜して作った簡易試算表だ。


 ユリウスはページをめくり、ついに笑みを消した。


「……こんなものを数日で?」


「はい」


「誰が作った」


「私です」


「まるで財務局の書式だ」


「ええ。見やすいので」


 嘘ではない。前世の資料作りの癖が抜けないだけだ。


 ユリウスは帳面を閉じた。


「本当に厄介な方だ」


「よく言われます」


「辺境伯閣下」


 彼は今度はルシアンへ向き直る。


「奥方様にここまで権限を持たせるのは危険です。数字に強い女は、時に家を食い潰す」


 失礼な偏見だが、宮廷では通りやすい理屈なのだろう。


 けれどその時、ルシアンが静かに口を開いた。


「彼女が来る前、この家を食い潰していたのは赤字と不正だ」


 食堂の全員が顔を上げる。


「今それが減っている。なら問題はない」


 低く簡潔な言葉だった。


 でも十分だった。


 ユリウスはそれ以上何も返さず、薄く笑って杯を置いた。


「分かりました。今回の監査結果は王都へ持ち帰ります。ただし、正式な審査はこれで終わりではありません」


「承知しています」


 私が答えると、彼は最後に一つだけ付け加えた。


「王都は、思っているより狭い場所です。誰がどちら側につくか、よく見極めたほうがいい」


 脅し、あるいは忠告。


 どちらでも構わない。


 食後、彼が客室へ下がった後、私は長く息を吐いた。


「疲れました」


「そうだろうな」


 隣に立ったルシアンが言う。


「だが、よくやった」


「勝ったと思っていいですか」


「今日はな」


 今日、は。


 つまり次がある。


 私は肩を回し、片付けに向かうハンナへ手伝いを申し出た。監査は終わっていない。むしろこれからだ。


 その背中に、ルシアンの声が落ちる。


「リディア」


 振り返ると、彼は人のいない廊下で、いつもより少しだけ近くに立っていた。


「私の妻だと公の前で言うのは、都合がいいからだけではない」


 それだけ言って、彼は先に歩いていく。


 残された私は、しばらくその場で固まった。


 ……それは、どういう意味なのだろう。


 考えようとしたが、心臓がうるさくてうまくまとまらない。


 結局その夜は、何度計算盤を弾いても数字を間違えた。

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