Improperly――勘違い③
顔どころか腕、いや、全身まで桜色に染めて、ルルはぼくを睨むように見上げて口を強く引き結んだ。
広大な黒湯から立ち昇る湯気なんかでは、何も隠すことはできない。
「わ、わたしでしたら、あなたがどれだけ不純な気持ちでも……受け入れられます……」
彼女の表情を見て、唐突に理解する。
そうか……。そう……だったのか……。
彼女の喉が大きく動く。唾液を呑み下す音が微かに聞こえた。
何かを言いかけた唇が、小さな息だけを漏らして閉ざされた。だからぼくは、彼女が再び口を開く前にと勢いよく頭を振って思考の靄を飛ばし、大きく深呼吸をした。
「わた――」
「――ありがとう、ルル」
ぼくは背後の岩肌につけられたルルの腕をつかむと、もう片方の手でゆっくりと彼女の肩を押して、体勢を立て直した。
「あ……っ」
ルルが言葉にならない声を小さく漏らして、恥ずかしそうにぼくから視線を逸らす。思い出したように両手で胸を隠して、一歩、退きながら。
「い、今のは……その……、イ、イツキさんからどう見えたかはわかりませんが、本心ですから……」
「いや、ごめん。キミにそんなことまで言わせてしまうなんて。男として情けない」
「そんなことはありませんよ」
今度は破顔し、照れたような笑顔でルルが視線を上げた。
「でも、ぼくだってもう気づかないほど鈍くはないから」
「はい。……いいえ。かなり鈍い方だと思います」
「ごめんなさい」
また少し目を伏せて。けれども、すぐに視線を上げた。
ぼくは少し躊躇ってから彼女の頭に手を伸ばして、その髪を少し撫でた。ルルは少し驚いたように震えて、やがてゆっくりと身体の力を抜いた。
「あ……、イ、イツキさ――」
「気を遣ってくれたんだろ?」
「はいっ! …………はい? え?」
ぼくは両肩を落として、あまりの情けなさに大きなため息をついた。
「あの……?」
「いや、ルルはもう何も言わなくていいって。わかったんだ」
「はぁ」
「確かに、くだらないこだわりだったのかもしれない」
「え?」
「ん?」
「何の話をしているんです?」
ルルが眉根を寄せて、微かに首を傾げている。
「や、だから、ぼくがリア・アバカロフにこだわるあまり、リサやトウコへの気持ちにまで疑念を持ってしまうのは間違ってるって、言ってくれてるんだよね?」
「え、ええ。それは……そうですけど。……ええ?」
今度はぼくが額に縦皺を刻んで、首を傾げた。互いに45度ずつ傾けて、斜めの視界で見つめ合う。
「違うの?」
「ち、違わないです。それはそうです。でも、それだけでは――」
「うん。だからごめんな、ルル。こんな恥ずかしい想いまでさせて」
「え、あ、ええ……。いえ、恥ずかしくても、イツキさんには見られても別にいいのですけど……」
少し拗ねたように唇を尖らせ、ルルが呟く。
「あはは、身体を両手で隠しながら言われても。さすがに、じゃあもっとよく見せて、とは言えないよ」
「み、見せますよ? 恥ずかしくたって平気ですから……っ」
ルルが下唇を噛んで、全身を桜色どころか真っ赤に染めながら、両手を下ろした。もしも去年一年間を天川月乃と過ごしていなかったら、この時点でもう理性は決壊していたかもしれない。
水滴のアクセサリーを纏った成宮ルルの肢体は、それほどまでに滑らかで艶めかしい。同じ格好でもツキノさんとは違うと思えるのは、ルルにはしなやかさがあり、女性らしい仕草をするからだ。
「だからダメだって!」
ぼくは大慌てでルルの両腕をつかむと、肘を押し上げるようにして再び彼女の身体に彼女の手を重ねさせた。
「っ!?」
ぼくらが身体を動かすたびに水面に白い泡が浮いて、生まれた波紋が岩肌の壁にぶつかって消える。
「な、なんでダメなんですか……? わたしのことは嫌いですか……?」
「そんなわけないだろ。必死に抑えてるって、さっきも言ったじゃないか。てか、もう丸見えなんだからどういう状況になってるかわかるだろ」
ルルが不満げに小さく唸った。
「わかりますよ! わかりますけど、だったらどうしてですか……」
「だってルルには好きな人がいるんだろ。たとえばその人がもう生きていなかったとしても、ぼくなんかに今こんなことをするのは、やっぱり間違ってるよ。ぼくをその人と重ね合わせて見てるわけでもないんでしょ?」
「重ね合わ――いえ、そ、それはそうですけど。そもそもその人は……し、死んでませんし。……え、ええ?」
やはり早見士郎のようだ。
「だったらなおさらだ。チームメイトを慰めるためにそんなことしちゃダメだ」
「いや、だからそうではなくてですね――わっ!」
ぼくはルルの肩を両手で押さえて、強引に黒湯のなかへと座らせた。むろん、ぼくも一緒に肩まで湯に浸かる。
ルルが不満げな表情をしているけれど、彼女に不愉快な行動を取らせたのは、ぼくのくだらないこだわりが原因だ。
仕方ない。甘んじて受け入れよう。
「なんか、少しわかった気がしたんだ」
「たぶんイツキさんは何もわかっていないと思いますよ」
「誰と重ね合わせて見ていても、たとえばリサがまるっきり今と性格が違って、そうだな……極論すれば藤堂のような性格をしていたら、どれだけ姿がリアと似ていたって惹かれなかったはずなんだ」
「それは……ひどい極論ですね」
「まったくだ」
わずかに引き攣った笑みを見合わせて、ぼくらは同時にため息をついた。いつかはあの凶悪な藤堂とも、決着をつけなければならない。
「でもこの一年間をリサと一緒のチームで過ごしてきて、彼女に対して最初に抱いた気持ちには、結局なんの変化もなかった。それってもうリアへの気持ちとは別のものになってるんじゃないかって」
「はいそーですねっ」
ルルがバシャっと両手で黒湯をぼくの顔へとかけた。
「わっぷ! ちょ、何すんの!?」
「それで合ってます正しいですっ」
彼女の態度に釈然としないものを感じながらも、ぼくは言葉を続ける。
「う、うん。だから、今度はちゃんとリサのことを考えようと思う。ありがとう、ルル。キミのおかげだ。なんか、一年間悩んでいたことがすっきりした。頭のなかを整理整頓されたみたいだよ」
ぼくとは真逆に、すっきりしない表情で、なぜかルルはこちらを睨みつけたままだけど。
「あと、ごめん!」
「……何がです?」
すごい目つきだ。もちろんジト目ってレベルじゃないし、ガンつけすら超越してしまっているかのように見える。かつて見たことないぞ。
「あんな恥ずかしい想いまでして、ぼくに気づかせてくれたんだろ」
「……そんなにお人好しに見えますか? わたし今、あ~失敗したって思ってるくらいですよ?」
「またまた、そんなご謙遜を。おかげさまでぼくはすっきりしたよ」
「……ふふ、冗談に聞こえました?」
ヤバい。黒湯のなかにいるのに、久しぶりに寒気がする。
なんかルルが自分の知っている人物とは別の生物に思えてきた。何が言いたいのかさっぱりわからない。
ヘンな汗が出てきた。
「や、なんだ、その。お、お礼に、ぼくもルルの恋を応援するから!」
「……」
今度はものすごく目を見開いて、こちらを見ている。どんな状況になれば、人間はこんな表情ができるのだろう。
ヘンな汗どころか、なんだかあまりの緊張感に涙まで浮いてきた。
「相手が早見先生だと、ちょっと難しいかもしんないけど!」
「……」
「な、何かぼくにできることがあるなら手伝うから言って!?」
「……」
「いや、むしろ今何か喋って!? 黙ってられるとすっごい不安になるんだけど!?」
ルルが額に手を置いてがっくりとうなだれ、数秒後に静かに笑い出した。
「ふふ、ふふふふふ……」
こ、怖いぞ……。
「ふふ、ふふふ。そうですね、ほんと。これ以上ないくらいに、イツキさんらしいです」
「……ええっと?」
「あ~~~~~~~~~~~~~~~~もうっ!!」
「うわっ!?」
突然大声で叫んで、ルルが何度も深呼吸をした。空気を吸って身体を伸ばすたびに水面から胸が見えていたけれど、今のぼくには冗談でも火に油を注ぐ勇気はない。
「ルル? ルルさ~ん?」
「なんでもありませ~ん」
五度目の深呼吸を終えて両腕を下げたルルが、いつもの表情に戻ってこちらを向いた。内心、胸を撫で下ろす。
「それでもわたし、あきらめたりしませんからね?」
「うん? うん。あきらめる必要なんてないと思うし、応援してるよ」
「ぷっ、あはははは! もう、ほんとに!」
「……?」
「いいんですっ、こっちのことですからっ」
よくわからないけど、機嫌は戻ったようだ。斜め下から機嫌よさげにぼくを見上げる瞳はいつもの彼女のもので、理知的な光を宿している。
「わたし、そろそろ出ますね」
「あ、うん。ぼくも」
つい去年までの癖で、彼女と一緒に出ようとしたぼくの肩を手で押さえて、ルルがひとりで立ち上がった。先ほどの宣言通り、ぼくの目と鼻の先であっても何も隠さない。目のやり場に困るってものだ。
まったく。先輩後輩、揃いも揃って。
ツキノさんといいルルといい、ほんとにぼくは男性扱いされていないらしい。役得ではあるけれど、悲しい事実だ。
「一緒に出るのはダメですよ。誰かに見られたらどうするんですか。……イツキさんだって、リサさんにバレたらマズいでしょう?」
「リサはあんまり気にしないと思うけど」
「ダーメーでーす」
そうか。早見先生に見つかったり、他の誰かに見られて話が早見先生にまで行ってしまったらルルがマズいんだっけ。
「わかったよ」
「……あの~、イツキさん。どこに向かって話してるんですか?」
どこって、下半身がぼくの目の前になるように立ち上がったのはルルなのに。
さすがに抗議をしようと上を向いた瞬間、長い髪がぼくの頭部を覆い尽くし、気づいたときにはルルの唇が、自分の唇に重ねられていた。
「――ッ!?」
「えい」
感触を感じるよりも早く、ルルは強引にぼくを黒湯に沈めて、自らは広大な洗い場へと軽やかに上がっていた。
湯を掻いて、ぼくは大慌てで浮上する。
「ぶはっ!? な――っ!?」
すでに自らのタオルで前を隠したルルが、洗い場で振り返って悪戯な笑みを浮かべた。
「ほんと、イツキは純粋ですね。――あ、そうだ。わたし、来週もきますから。約束通り応援してくださるなら、またここで相談に乗ってくださいね」
それだけを告げると、彼女は背中を向けて横開きのドアへと向かって歩き出した。
ぼくは呆然とした状態でそれを見送ってから、力なくぐったりと黒湯に身を委ねた。
さっきのは唇がぶつかっただけなのか、キスだったのか、よくわからない。だけど、ただひとつだけ言えることは。
「……のぼせた……」
――勘違いは永遠に。
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