Improperly――勘違い①
深夜二時過ぎ――。
身体を浅い黒湯に浮かべ、大量の湯気で白む大きな天井を見上げる。温泉の掛け流しの音が、静かに響いている。
ぬるめの心地よい湯加減だ。何時間でも浸かっていられる。
帝高温泉。ここには誰も来ない。
突如として人類を襲ったメタルと呼ばれる機械生命体と一度でも戦った経験のある学生は、次にくる戦いに脅え、夜を恐怖に震えながら布団を被って過ごすからだと、天川月乃は言った。
的を射ていると、今では思う。およそ一年を、命懸けで戦ってきた今だからこそか。
天井から落ちてきた水滴が、頬を濡らして黒湯に溶けた。
その天川月乃も、もういない。
およそ半年前のトール級メタル出現により、壊滅状態に陥った帝都西防衛高校の敷地へと、帝都防衛高校の三年生全員が移住することに決まったからだ。
それは激戦区となった東京を囲う壁を守るための、人類側の苦渋の決断だった。
帝高は帝西へと戦力を分散させたことが原因で、一時はかなり危険な水準にまで学生の数を減らしてしまったけれど、ぼくらサード・アームズや藤堂正宗率いるイル・オーメンドの奮戦もあって、多大なる犠牲を払いながらもどうにかその期間を乗り切り、無事に新入生を得るに至った。
もっとも、自分たちの入学時を思い出しても、新入生を戦力に数えてしまうのはどうかと思うが。
「ツキノさんも、あの頃はそう思ってたんだろうな」
独り、呟く。
ちなみにぼくは、かつて天川月乃が入学したてのぼくをこの温泉で見つけたように、新入生を待っているわけじゃない。
ドレッドノート級との戦いを経験した上で、深夜に温泉に浸かりに行こうなんて緊張感の欠如した輩はめったにいないから、最初から期待なんてしていない。
ただ純粋に、疲れを取りにきただけだ。
ツキノさんが帝高からいなくなって、ハダカの彼女と遭遇する危険が減ったからマサトも誘ってみたのだけれど、来なかったところを見ると、どうやら湯治は乗り気じゃないようだ。
ツキノさんがいた頃は、あまりにも明け透けな彼女の行動に相当悩まされたものだったけれど、いざ帝高温泉から誰もいなくなってしまうと少し寂しく感じてしまう。
「…………泳ぐかっ」
アホなことを考えて黒湯を両手で掻いた瞬間、カラカラと扉の開く音がした。
驚いた。誰か来るとは思ってもみなかった。一年か、それとも二年だろうか。
立ち昇る湯気の向こうで、その人はぼくに気づかぬまま、壁際のシャワーで身体を洗い始めた。
「あ……」
ちょ、ちょっと待て……今は奇数時間だったか、偶数時間だったか、どっちだ!?
奇数時間であれば、現在この帝高温泉は女湯となっている。偶数時間ならば男湯だ。去年一年間、あまりに誰も来ないものだから、すっかりそこらへんのルールが頭から抜け落ちてしまっていた。
そもそもルールを無視して何時でも侵入してきていたツキノさんが悪いのだ。あれのせいで、ぼくのなかからも温泉の時間制限の感覚が欠如したわけで……などという言い訳が通用するほど、世間は甘くない。
ヤバい、ヤバいぞ……。
温泉のなかにいるのに、冷や汗が滲み出た気がした。
男子寮を出たのは、たぶん0時半頃。そこから帝高温泉まで歩いて七分。服を脱ぐのに三分、身体を洗って十分……温泉に身体を浸けて十……分……。
ぐ……、ぎ、ぎ、ぎりぎりアウトだ!
くそ、体重計になんて載ってる場合じゃなかった!
どうする!?
もし見つかったら一大事だ。ぼくはこの狭い帝高敷地内における社会的信頼を失墜し、嫌われ者とはいえ、二年のエースパイロットの地位から変態のぞき魔へと格下げされてしまう。
死んでもごめんだ!
もともとチームごと嫌われて孤立しているとはいえ、チーム内でもマサトはぼくを指さして笑うだろう。リサは何も気にしなさそうだ。
だけど、ルルは!? 彼女には一般常識が存在している! だ、だめだ! ルルにだけは知られるわけにはいかない!
そうだ! 今ならあの人は背中を向けて頭を洗っている。出口まで突破するなら、この瞬間しかない! くっ、もう泡を流すのか!?
女性と思しき人影が、シャワーで頭を流し始めた。
もう迷っている暇はない――!
ぼくは立ち上がると同時に黒湯から上がり、静かに、しかし素早く競歩のように歩き始めた。
焦るな。走ってはいけない。音が洩れてしまう。
くそ、なぜ人間はグライドが使えないのかッ!
残り七メートルの位置にまで来たとき、ぼくは横目で彼女を盗み見る。長い黒髪、白い背中、細い腰、やはり女性だ。
濡れた髪が貼り付いた華奢な肩から背中にかけてのラインが、とても滑らかで綺麗だ。
いや、鼻の下を伸ばしている場合じゃない!
扉まで残り三メートルの位置にまできたとき、シャワーで髪を流していた女性が何かに気づいたかのように、ふいに――本当にふいに、忍び足のぼくに視線を向けた。
そのまま硬直する。
目が合ったぼくは、反射的に愛想笑い浮かべてしまった。
「あ、どうも」
「……」
女性が無言でほんの数センチ、頭を下げた。会釈だ。
シャワーからのお湯が、だばだばと彼女の頭部から流れ続けている。
さっさと出口へ行けばよいものを、ぼくはマヌケなことに忍び足を持ち上げたままその場に立ち尽くし、涙目になっていた。
彼女の視線が下がり、ぼくの股間を凝視してから、また顔に戻る。
「ち、ちが――こ、これは」
「……イツキさん? ……ですよね?」
「は、はははい。え?」
「わたしです、わたし」
女性がぼくから視線を逸らせて、鏡の前に置いていたフェイスタオルを手に取り、自らの身体を隠してからシャワーを止めた。
ぼくは息を呑む。
「あ……」
「こ、こんばんは」
彼女はチームメイトの成宮ルルだった。
「ル、ルル?」
「え、ええ。こ、この状況でこんばんはっていうのも、おかしいですよ……ね?」
なんだこれ?
ルルは少し唇を尖らせて、深いため息をついた。
「そっか。なるほど。そういうことですか。まったくもう……っ」
やはり怒っていらっしゃる。
「ご、ごめん! 違うんだ、時間が過ぎてることに気づかずに、ずっと浸かってて――」
「へ? あ、い、いえ、そ、それよりイツキさん……う~……」
ルルの視線を追って、ぼくはあわてて自らの股間を両手で隠した。
「あ、あああぁ! タオルタオル!」
いかん、身体を洗ったシャワーのところに置きっぱなしだ。
ぼくは大慌てで走って、フェイスタオルを無理矢理腰に巻き付けた。
ぼくは男だからどうにかフェイスタオルを巻くことができるけれど、ルルは大変だ。
右手でタオル越しに胸を押さえて、左手で股間を押さえて立ち尽くしている。
「あ、あの、あまり見ないでください……」
「ごめん!」
大急ぎで脱衣場に向かおうとすると、ルルがタオルを器用に押さえながら温泉を指さした。
「とりあえず、浸かりませんか? 風邪をひいてしまいます」
「う、うん」
ぼくらは顔を背けながら、同時に黒湯に肩まで浸かった。冷や汗は未だに止まらない。
おかしい。ツキノさんで女性のハダカは多少なりとも見慣れていたはずなのに、なぜか心臓が跳ね回っている。おそらくプロポーション的には、ツキノさんのほうがダイナマイッなはずなのに。
どうしよう。どう謝れば穏便に済ませてもらえるだろうか。そんなことばかり考えていると、ルルが両腕を高く持ち上げて、気持ち良さげに瞳を閉じた。
「ん、あ~……、初めて来ましたけど、意外と気持ちいいですね」
「へ? あ、ああ、うん……うん?」
頭が混乱してきた。なんだ、この態度は。ツキノさんといい、ルルといい、もしかしたら世の中の女性というものは、それほど見られることなど気にしないものなのだろうかと勘違いしたくなってくる。
リサも気にしなさそうだし、きっとそうに違いない。
「まったくもう。イツキさんでよかったです。ここにいたのが。他の男性だったら、大声で叫んじゃってましたよ」
「で、ですよね! ……え?」
チームメイトのよしみで、特別ゆるされたということだろう。
ルルはそっぽ向いてしまっていて、その表情を見ることはできない。
「ごめんなさい、イツキさん。あなたもツキノ先輩に言われたからですよね?」
「なにが!?」
ルルがこちらを振り向いて苦笑する。
「ツキノ先輩に騙されて、ここにきたんでしょ。もう、あの人ったら時々子供みたいな悪戯するんだから困っちゃいますよね。帝西からわざわざ電話までしてきて、この曜日のこの時間帯に大浴場に行けば、ものすっっっごくいいことがあるのよ~、なんて言ってきて。……まったく、イツキさんまで巻き込むだなんて」
ど、どういう意味? ツキノさん、もしかしてわざと、ぼくとルルを鉢合わせにしたのか!? な、何を考えてんだ、あのバカタレは!
ルルが両手の指を組んで、今度は前へと伸ばす。
「う~ん、でも、確かにいいことあったかも……」
「へ?」
「なんでもありませ~ん」
ルルが微笑みながら、悪戯に呟いた。
最初に食堂で藤堂から助けたときから思っていたけれど、成宮ルルはとても綺麗な女の子だ。ただ容姿が美しいというだけではなく、醸し出す雰囲気が深い森のなかにいるかのように清浄なんだ。
彼女の声は透き通り、どれだけの無線が混線していても、どれだけ戦場が荒れていても、いつもぼくらの耳に溶け込んでくる。
その言葉や情報に、何度命を救われたことか。折れそうな心を、何度立て直してこられたか。
「ごめんな、ルル。いつもありがとう」
「あはっ、お礼ならお互い様です。イツキさんがサード・アームズに誘ってくれなかったら、わたしはもう最初のドレッドノート級との戦いで死んでいましたから。それに、謝罪をされる謂われもありません。ツキノ先輩の企んだことなのだから、いつかあの人に自分で謝らせますっ」
「あははは! それは無理だろ! まあ、ぼくは眼福だったけどね」
ツキノさん以来の、と心のなかで付け加えながら。
「……そ、それもお互い様です!」
顔を真っ赤にしてヤケクソ気味に叫ぶ彼女がおもしろくて、ぼくはさらにからかってみることにした。
「こんなところ、マサトに見られたら大変だ」
「なんでそこでマサトさんの名前が出てくるんですか。ま、まさか今から来るんじゃないですよね? だ、だったらわたし、大急ぎで出ないと!」
意外な反応に、ぼくは尋ねる。
「へ? いや、来ないけど……。ルルの好きな人ってマサトじゃないの?」
ルルがくっつかんばかりに眉根を寄せて、「はあ?」と聞き返してきた。彼女のこんな表情は初めて見る。
「や、そんな心配しなくても、このことはマサトにも言わないよ」
「ちょ、ちょっと待ってください。どこをどう考えれば、そういう話になるんですかっ」
わずかに妬けてしまう。ぼくはリサのことが好きなのに。
「そんなにムキにならなくても大丈夫だって。あいつ、ちょっとチャラいけどカッコイイし誰にでも優しいし正義感も強いし、メタル戦でも大活躍してるし。何より、見かけによらずいいやつだしね」
「いや、そ、それはそうですけど……で、でもそれとこれとは! だってわたし……う~……」
ルルが口を閉ざして、恨みがましい目でぼくを睨む。
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