Not Found――いない①
第二部開始です。
「……ねえ、早見。あの戦争を、おぼえてる?」
女はそう言って、アルコールの入ったグラスが置かれたカウンターに、物憂げな表情で頬杖をついた。だが、その視線は、早見士郎には向けられていない。
淡く優しい照明に浮かび上がる無人のカウンターか。いいや。世界各国の酒瓶の並べられた壁の木棚か。いいや。
もっと遠く。
たとえば、九年前――。
首都を突如として襲った災厄の幻影でも見ているかのように。
女はしなやかな指先をグラスの中の球体状に削られた氷につけ、甘い香りのするバーボンの中で静かにかき回す。
穏やかなジャズの流れるバーに、氷とグラスの奏でる鈴のような音色が響いた。
「忘れられるはずがない」
ふたりきりの店内で、いつも通りの質問に、いつも通りのこたえを返す。
九年もの間、定期的に何度となく繰り返されてきたやりとりだ。
帝都防衛大学。
大学とは名ばかりの、小規模な街だ。講義室や実験室など存在しない。
安物のフェンスに囲まれた敷地内には、何でも揃っている。各種マーケット、高級住宅、映画館やスポーツクラブ、豊富な食料に世界各国の美酒、格納庫、そして装甲人型兵器。
それらすべてが無料で利用可能だ。
望めば女を買うことも、男を買うことであっても難しくはない。
ここに足りないものがあるとするならば、狂っていない人間だけだと、人は言う。
大学と嘯くこの街に住んでいるのは、メタルと呼ばれる機械生命体との戦争を三年以上もの間生き抜き、莫大な財産とリタイアという自由を与えられながらも、生涯をかけてさらなる戦いへと臨む途を選んだ、狂った英雄のみ。
その数、およそ三十と二名。
つまり、帝都防衛大学には三十二名の英雄しか在籍していない。他には誰もいないのだ。買った女でさえも、ことが済めば逃げるように早々にこの街を去る。
当然だ。誰も彼女らを責められない。メタルの脅威に今もさらされ続けている東京は、すでにまともな人間の住まう都市ではなくなっているのだから。
バーテンのいない店内で、女はバーボンの瓶を揺らした。水音はしない。新たな瓶を取りに立ち上がった女の手を、早見士郎はつかんで止めた。
「もうやめろ。飲み過ぎだ、和泉」
「……ヒドい人。お酒に逃げることすら、許してはくれない」
和泉水奈は小さなため息をついて、早見士郎の隣の椅子へと再び腰を下ろした。腰まである長い髪に片手を入れて枕にし、女はカウンターにだらしなく突っ伏す。
しなやかな指先に押されて倒れたグラスから、球体状の氷が滑り出た。カウンターを滑った氷は端から落ち、フロアで粉々に砕け散る。
だが、早見士郎も和泉水奈も、そんなことは気にも止めなかった。どうせ雇われの業者が、三日に一度は掃除に来る。
早見はいつもと同じく穏やかな口調で、静かに囁く。
「おまえは逃げてなどいない。今でもよくやってくれている。帝高には、和泉のような強い学園長が必要なんだ。その役割は、私にはできない」
「……口調を変え、学生らを死地に追いやりながら、自らは戦線に立つことすらできなくなった弱い女が、逃げていないだなんて。わたしにだけは見え透いた嘘をつかないでくれる?」
早見が自らのグラスを傾け、わずかに口に含んだ。
苦い。甘い匂いのする、苦い酒だ。
「自分を卑下するな。学生らを死なせているのは私も同じだ。自身が常に最前線に立てば、彼らの犠牲はもっと減らせる。だが、それでは後進が育たん。そんな私に、和泉を責められるわけがないだろう」
一息に飲み干して、早見士郎はため息をついた。
「おまえが自らを卑怯者の罪人と言うのなら、私たちはどこまでいっても共犯者だ」
「……言い過ぎた。ごめんなさい。深酒はダメね」
「まだ、エスペラントに乗る気にはなれないか」
九年前、首都東京を廃都へと変えた敵性生物メタルに抗するため、人類は三百機の新型兵器、装甲人型兵器を投入した。しかしすべてのメタルを殲滅して生還した機体は、わずか三機に過ぎなかった。
言わずと知れた早見士郎のキャスケット、リア・アバカロフのベルベット。そして、首都大戦の後に帝都防衛高校と帝都西防衛高校の初代学園長に任命された、和泉水奈のエスペラントだ。
曲が終わり、次の曲へと切り替わる。
数秒の後、和泉水奈は静かに唇を動かした。
「怖いのよ。あのときと同じ選択を迫られたら、わたしはまた仲間をこの手で殺してしまうから」
「……余計なことを聞いた。すまない」
「どうして早見が謝るの? わたしは今でも後悔してないわ。そうしなければ、わたしたちは全滅していたもの。たぶん、人類もね」
上体を持ち上げて、和泉水奈は乱れた髪に手串を入れた。
「ああ。行動は正しかった。しかし、その役目は私が負うべきものだったと思っている。その場にいられなかったことが悔やまれてならない」
「親友だったのに?」
数秒間の沈黙。
早見士郎は空のグラスを持ち上げ、唇を付けることなく静かに下ろした。この男がまるで意味のない動作をするなど、実に珍しいことだと女は思う。
「親友だからこそだ。それに、あいつはおまえの恋人だった。私がその場にいたなら、やはりそれは私の役割だったのだと思う。あいつもそう望むはずだ」
また言葉が途切れた。
和泉水奈は口元をわずかに弛めて早見に視線をやり、瞳を細めた。
「バカね。でも、親友だからこそ、とは言うのに、恋人だからこそ、とは言わないのが、早見のいいところ」
「茶化すな。そんな気分じゃない」
早見は水の入ったピッチャーを引き寄せて、空になったふたつのグラスに注いだ。三人目と四人目の仲間の顔を思い出しながら。
珍しく、弱気な言葉が止まらない。
「リア・アバカロフとミハイル・エリン。私たちは、ふたりも仲間を救えなかった。情けない話だ」
「そうね。だけど、かわりにふたりの男の子を救えたわ。今年、片方は早見のクラスに入ったのでしょう?」
「高桜一樹か。偶然か必然かは経過観察が必要だが、リサ・アバカロフとチームを組んだぞ。例のドレッドノート級を沈めた三人組だ」
和泉水奈が少し驚いたように目を丸くした。
「リアではなく、リサなのに?」
「ああ、私の従妹と共同戦線を張ったようだ。偶然とはいえ、あの我が儘娘とうまく機能したようで何よりだ」
「確か、二年の天川月乃だったかしら。彼女、悪くない乗り手ね。三年生の誰よりも乗れていると思うわ」
「悪くない乗り手、か。おまえから見れば、まだまだ児戯の範囲かもしれんな」
また少し、沈黙の時が流れた。
「すまない。また余計なことを言ってしまった。私は和泉を傷つけてばかりだな」
「気にしないで。そんなに弱い精神じゃないから。そういえば、大戦で救われたもうひとりの男の子も特進にいるんでしょ」
早見士郎が、わずかに渋い表情をした。
「藤堂……正宗か……」
「あら、歯切れが悪いわね。気になることでもあるの? この前のドレッドノート級との戦いでは、彼もずいぶん活躍したと報告が来ていたけれど」
「少し懸念がある。おそらく私たちと同じように、初期型の超伝導量子干渉素子による副作用が出ている。悪い方にな。こちらも経過観察が必要だ」
「高桜一樹には?」
「まだわからん。だが、命をわける一秒の話をしたときには、高桜は何ら反応を示さなかった」
「それは……運が良いのか悪いのか、微妙なところね」
ふたり同時にため息をついてから、ほんの少しだけ表情を弛めた。
「仕事の話はやめましょう」
「そうだな。今だけは」
「ええ、今だけは」
水のグラスを同時に持ち上げて、無言で軽く打ち鳴らす。
赤い唇をグラスにあてて喉を潤した後、和泉水奈は穏やかに瞳を細めた。今度は遠くでも過去でもなく、今、隣りにいる早見士郎の顔を見つめながら。
「ねえ、早見」
和泉水奈の唇が悪戯っ子のようにねじ曲がる。
「なんだ?」
「今晩、慰めて。独りでいたくない気分なの」
ああ、そうか、と気づく。
明日は九年前の首都大戦七日目だ。つまり、彼女の恋人だったミハイル・エリンと、自分の相棒だったリア・アバカロフがこの世を去り、幼かった高桜一樹と藤堂正宗が、かろうじて命を繋いだ日。
「……あまりいい関係とは言えないな。向こうに行ったら、ミハイルにぶん殴られてしまう」
「ふふ、ただの傷の舐め合いじゃあね。でも、真剣だったら許してくれるかもしれないわよ? もちろん、リアもね」
「それはまた、ずいぶんと都合のいい解釈だ」
早見士郎は少しだけ笑って、無言で水のグラスを持ち上げた。
穏やかな音楽に包まれて、ふたりの英雄は静かにグラスを傾ける――。
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