第16話『憤り』
「……」
俺はベッドに横になって、枕代わりに頭の後ろで手を組んで天井を見上げていた。
動く事すら鬱陶しかった。
原因はわかっている。
先輩の事だ。
先輩とあの男の口づけを見せられてから、俺の心はかき乱されていた。
「くそっ!何だってんだ!?」
訳がわからず、俺は吐き捨てた。
男の人を小馬鹿にしたような態度も腹が立ったが、それ以上に何故先輩が抵抗しなかったのかがわからなくて、俺を苛立たせていた。脳裏に先輩の、あの無機質な瞳が思い出される。
頭を振って、振り払おうとするが浮かんだ先輩の瞳は消えない。
ダメだ。
怒りが治まらない。
俺は上半身を起こして、壁を殴り付ける。
ゴスッと鈍い音と共に拳に痛みが走る。
ジンワリと血が滲んでくる。
それでも怒りは治まらない。
俺はもう一度壁を殴り付けた。
血の滲んだ傷が裂けて、壁が血が飛び散る。
「…ッ!」
目の端で明日香がビクッと身体を震わせるのが見えた。
俺の奇行に驚いているのだろう。
俺は気にする事もなく、また壁に拳を打ち付けた。
今度は壁に血がベットリと付いた。
固まっていた明日香が目の前で首を横に振っている。
どうやら、必死に止めているようだった。
だけど、俺にとってそれは鬱陶しいだけだ。
「退けっ!邪魔だ!」
触れない明日香を払うように、俺は腕を横に薙いだ。
明日香がビクッと身を竦ませる。
怖くて仕方ないのだろう。
それでも明日香は震える身体で精一杯腕を広げた。
目からはポロポロと止めどなく涙が溢れている。
「退かねぇんだったら、そのまま殴るだけだ。どうせ、幽霊のお前には当たらねぇしな」
退く様子の全く見えない明日香を脅すようにわざと敵意むき出しの声で呟く。
だけど、俺は本気だった。
だから、手を振り上げて思い切り明日香に向けて振り下ろした。
「ダメーーーっ!」
「…ッ!」
次の瞬間、つんざくような明日香の悲鳴が響き渡った。
俺はその声に息を飲んだ。
今まで携帯越しでなければ聞こえなかったはずの明日香の声がそのまま俺の耳に届いたからだ。
「自分を傷つけちゃダメだよ!お願いだから落ち着いてよ…お兄ちゃん…」
「明日香…お前…」
必死に俺を宥める明日香。
だけど、俺は自分の怒りを忘れていた。
それよりも明日香の声が聞こえた事の方に意識が向いていた。
「あれ…?私の声聞こえてる?」
「…ああ。何で、突然聞こえるようになったんだ?」
普通に話せる事に明日香はようやく気が付いたようで、キョトンと首を傾げている。
俺も同様で、取りあえず、明日香に尋ねてみる。
「わかんない…。ただ、私はお兄ちゃんを止めたくて…」
「そっか…」
はっきりとした理由はわからなかった。
だけど、明日香の俺への気持ちだけは感じ取れた。
恐らく、明日香の俺を守りたいという気持ちがとても強くて、声が聞こえるようになったのだろう。
そのお陰か、俺の怒りは完全に治まっていた。
冷静になると、壁に打ち付け続けた拳に痛みを感じ始める。
「大丈夫…?」
痛みに顔を歪ませている俺を、明日香は心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ああ。もう大丈夫だ。ありがとな」
「うん」
安心したように頷く明日香…。
きっと、明日香は心配してくれた事への礼を述べられたと思っているに違いない。
もちろん、その事も感謝している。
だけど、俺が本当に感謝していたのは明日香の気持ちに対してだった。
自分の身を呈してまで俺を止めてくれる…幽霊だとはいえ、なかなか出来る事ではない。
でも、その気持ちを直接明日香に伝えるのは気恥ずかしくて躊躇われた。
だから、それ以上、その事について口を開く事はなかった。
俺は一度下に降りて、拳を治療する。
それから、部屋に戻ってからベッドに腰掛けた。
怒りが治まったとはいえ、先輩の事は未だ釈然としない。
俺はそんな思いを振り払うように頭を振る。
全て終わったんだ…。
これからは先輩と関わらずにいけばいい。
ただ、それだけでいいんだ。
俺は自分に言い聞かせるように、心の中で呟いた。
「よし!明日香!映画を見に行くぞ」
俺は気合いでも入れるように、力一杯立ち上がると、床にチョコンと座っている明日香に声を掛けた。
「映画?」
「そうだ。気晴らしに出掛けるぞ」
「……」
しかし、明日香は何故か浮かない顔をしている。
黙ったまま下を向いていた。
どうしたというのだろう?
「映画、見たくねぇのか?」
「映画…怖いよ」
そこまで言われて、俺はようやく、何故、明日香が浮かない表情をしているのかがわかった。
以前、先輩と見に行った映画がホラーで、その時、明日香は怖さに怯えていた。
多分、それがトラウマになっているのだろう…。
まったく…何てお子ちゃまな奴だ。
「大丈夫。怖くないやつにするから」
「ホント…?」
表情を窺うように、明日香は上目遣いで俺を見る。
そんなに怖かったのか…。
「ああ。ホントホント。だから安心しろ」
「だったら、行く」
どうやら、信じてくれたようだ。
しかし、良く考えてみれば、明日香は俺にとり憑いているのだから、俺が映画館に行けば、否応なしついてくるしかない。
しかし、そんな風に明日香を扱いたくなかった。
俺は薄めの上着を羽織り、机の上に置いてある財布をポケットに捩じ込んだ。
「よし!行くぞ」
準備完了した俺は、明日香に一声掛けて、部屋を後にした。




