06.氷の柱に赤の瞳
「こんのっ、大馬鹿色ボケ最低野郎があああぁっ!!」
「ぐはぁっ!?」
みしり、と嫌な音を立てて、ホーンが放った拳は綺麗にジャックの頬にのめり込んだ。
その力は相当のものだったらしく、長身のジャックの身体は軽々と壁に叩きつけられた。
「ちょっ、何!? なんで俺様ぶったたかれてんの!?」
「だから最低野郎だって言ってんだよ! 立ちなジャック! もう一発殴らせなっ! そうじゃないと気がすまない……!」
「ちょっ、待った! 待った待った! 待ってってホーン!」
「誰が待つか! いいからそこで大人しく一発殴られなっ!」
「そんな理不尽なこと言うなって! ちょ、危ね!?」
ぶんと音を立てて繰り出された拳を危うく避けたジャックは、赤くなった頬を押さえながらひらりと机を一つ飛び越えた。
「避けるなって言ったじゃないか! さっきのはろくでなしのあんたに当てるって決めていた前々から溜めていたツケの分で、これはユキの分なんだから、大人しく殴られなっ!」
「そう、それ! そのおじょーさんはどこに……」
「問答無用っ! イルギン!」
「あいよ。悪ぃな、ジャック」
「てめっ、ちょ、おいおいマヂかよ!?」
左肩に包帯を巻いていながらも、両腕でがっしりとジャックを羽交い絞めにする。
そのことに酷く慌てるジャックだが、離される気配はない。
「大人しく喰らいなっ!」
こうして、ジャックはホーンの二発目の拳を受けることになったのであった。
その赤銅色の髪と同じ色に両頬を赤く腫らせたジャックを満足そうに見ていたホーンは、至極すっきりしたように満面の笑顔を浮かべている。
「さて、久しぶりだねこのろくでなし男! ちっとも連絡を寄越さないで、何しているかと思えば」
「……おい、ホーン」
「なんだい?」
「俺様に何か言う事はねぇのか?」
憮然とした表情でホーンを睨むも、ホーンは特に気にした様子をみせない。
そして笑顔のまま答えるのだ。
「ない」
「てめっ! 人の顔二発も殴っといてごめんなさいの一言もねぇのかよっ!」
「ないね! むしろあたいは当然のことだと思うよ!」
「んだとっ! 色男の顔殴っといて開き直る女は好かれねぇぞ!?」
「……シバく!」
「だぁーっ! 待ってってホーン! ジャック、てめぇも少しは大人になりやがれっ!」
肩の痛みに顔をしかめるイルギンの仲裁に、ホーンはしぶしぶかためた拳をほどいた。
憮然とした顔つきで反対向きに椅子に座り、その背もたれに顎を乗せながら、ジャックはそれで? と話を促す。
「それでって、何がだい?」
「とぼけんなよ、俺様が少し前に送ったおじょーさんはどこだ?」
【不思議の国】号の偽者アリス。
彼女の様子を見に、ジャックはこうしてやってきたのだ。
帽子屋たちよりも先に。何事も無い事を祈って、文字通りこのラップランドに飛んできた。
安全な場所と言うよりは、信頼がおけるホーンの元に送ったつもりだったのだが、まさか地下にある隠れ家にいるとは思わなかった。
「おい、ホーン」
「……あぁ、別にいいけどね。そんなこと予想済みさ。あんたが【不思議の国】号を大好きなのは分かってたよ」
「はぁ?」
ホーンが深くため息をつくと、それだけで唯一の明かりであるロウソクの火がゆらりと揺らめいた。
埃っぽく、暗く、じめじめした閉塞した場所。
文字通り隠れ家であるこの場所は、外からの光一つ射し込まない。
「ジャック、このラップランドは平和なんかじゃない」
「あぁ、【トナカイの角】は山賊だからな。そりゃ」
「違うんだ。落ち着いて、よく聞きな」
ジャックの言葉を遮って、ホーンはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ユキは、雪の女王に捕らえられちまってる」
* * * * *
小さくなった体のまま、わたしとカイは静かな廊下を進んだ。
途中でカイが上着をとりに寄り道したけど、そんなときでもあの虚ろな瞳の兵士には出会わなかった。
出会いたくもないから、とっても助かってるんだけども。
「あんた、寒くねぇのか?」
「全然。寒さって言う感覚を忘れたのかも」
震えもしないし、鳥肌だってたたない。
全然寒いとは感じないし、むしろ上質で厚手の上着を羽織ったカイが、白い息を吐くのが不思議なくらい。
これは、雪の女王に口付けられたせいなんだと思う。
雪の女王の一度目の口付けは、寒さを忘れさせてしまうのだから。
「カイは寒いの?」
「ったりめぇだろ。さすがに何年もここにいるから少しは慣れたのかもしれねぇけど、寒いもんは寒い」
「そりゃ、氷と雪でできたお城にいたら、暖なんかとれなさそうだもんね」
当たり前だけど、このお城に暖炉なんて素敵なものはない。ストーブとか、暖房とか、そんなものだってあるはずがない。
キラキラと光を反射させている廊下の飾りや、白銀に輝いて見える壁だって、綺麗なんだけど、それが逆にこの空間を冷たく思わせる。
「つか、あんただって寒くねぇって言ってる割には、指先冷たいけどな」
「そうなの?」
「それすら分かんねぇのか?」
「……たぶん。手を繋いでいるって感覚はあるけど、暖かいか冷たいかはよく分からない」
変なの。繋いだ手に視線を向けてちゃんと意識してみても、どう感じているのかは分からない。
ヤマネくんよりも大きな手。ちょっと骨ばってて、でもわたしの手をすっぽりと包んでしまうくらい、大きくて、頼りになるように思える。
……わたしなんか、かろうじて指が曲げられるかな、くらいの大きさでしかないのに。
「な、何見てんだよ?」
「手、大きいなって」
「うっせ! 余計なこと考えてんなど阿呆!」
「ちょっと、そんなこと言わなくたっていいじゃない!」
「お前しばらく黙って前見てろ!」
頭ごなしに命令しないでほしいんだけど。
精神年齢は小学生かって、そう心の中で思っておく。
まともに言葉を返していると、わたしまで子どもじみた言葉ばかり言いそう。
「……じゃぁ、しばらく黙ってるから、代わりにカイが話してよ」
「は?」
「は? じゃなくて」
だって、カイはわたしの中ではイレギュラーな存在なんだもの。
全然『雪の女王』に出てくるカイとは違う。
あと、あの幽霊みたいな子の存在もよく分からないし。
「なんで俺がお前に、そんなことを話さなくちゃならねぇんだよ?」
「何でって……。わたしはこの国をなんとかしたい。だから知りたいの。ダメ?」
「ダメって……」
不思議そうに見上げたら、たじろいだように距離を置かれた。
だからどうしてそこで思いっきり眉をハの字にして、泣きそうな顔するかな。
わたし何も悪いことはしてないはずなんだけど。
「……つか、話すことなんかなんもねぇよ」
「そう? じゃぁ、わたしが質問していくから、それに答えてよ」
「はぁ? なんで俺が」
「はいじゃあ、質問一。カイはいつからこのお城にいるの?」
無視かよ、と嫌そうに言われても気にしない。眉をひそめられてもスルーしよう。
小さな体で進む廊下は、いつもの半分の速度で、いつもの半分の距離しか進めない。
どこに向かっているのかは全然分からないから、目的地までどれくらいの距離があるのかも分からない。
時間潰しにもなるし、沈黙のまま進むなんてことしたくないから、丁度いいでしょ?
「ほら、答えて答えて」
「……はぁ。相当前、十年くらいは経ったんじゃねぇの?」
「十年も!? え、じゃあカイは今いくつ?」
「十……いや、二十?」
「嘘っ! 年上!?」
てっきり同い年かと思ってた。
て言うか、二十歳にしては精神年齢低すぎない?
「悪いかよ」
不貞腐れて少し早足になって手を引かれた。
本当にこの人、わたしよりも年上なのかな?
間違ってもそんなこと口にはできないけど。
いや、でもこの世界の……目の前にいるカイは、やっぱり違いすぎる。
ちゃんと寒さを感じるし、狂ってなんかもない。それに、わたしよりも全然年上。
笑えないくらいに、違う。
物語はゲルダとカイが成長して、少し大人になって家族の下へと帰ると言う結末。
それなのにカイは大人になったままここにいる。
……それが分かったからって、何がどうしたってわけでもないんだけど。
「それじゃ、次。……ゲルダはどこにいるの? と言うか、何処に向かってるの?」
「地下だ」
「は?」
ちょっと予想外の言葉だった。
ごめん、もう一回。
「今なんて?」
「だから、地下。この城の地下だ」
地下。
それは地面と水平にある、一階より下のフロアのことを指し示すもの。
そんな言葉の意味はまぁ、どうでもいいことにしよう。深く考えないようにして。
それよりも、どうして地下にゲルダがいるの?
「何でそんなこと知ってるの?」
「……俺からも聞きたいんだけどな。なんでそんなにゲルダのことを知りたがるんだ?」
「なんでって、それがもしかしたら謎を解く鍵になるかもしれないから」
「理由になってねぇよ。そもそもが狂った原因がなんなのかも分かってねぇのに?」
「あ、それは多分分かってる」
「はぁ!?」
思わずと言ったように、歩みが止まった。
ちょっと大きな声だったから、声が廊下に反響して二人してヤバいって顔していたんだけど、とりあえずあの兵士の姿は見えない。
……思ったんだけど、これ一回二人して知ってること全部教えあった方が良いんじゃないかな?
互いに驚きあいすぎじゃないか、なんて思うんだけど。
「おまっ、それどう言うことだよ?」
「どう言うことって……そのまま。とりあえず止まってないで、進もう?」
「あ、悪ぃ。つかそのままって」
慌てて歩き出すカイの言葉に、どう説明しようか……。
説明と言うよりは、やっぱり確認からかな?
「わたしの憶測で、推測に過ぎないことを先に言うけど。“悪魔の鏡の欠片”って言うもののせいなんだと思う」
「……は?」
その反応は予想済みだったから、別にいいとして。
「思い出して。カイがこのお城に来る前のこと。目と胸に、何か刺さったような感じがしたこと、あった?」
そう聞くと、カイはどこか困ったような顔をして悩み始めた。
そりゃ、十年くらい前のことを思い出すのは難しいだろうけど。
それに目の前にいるカイは、目が赤いこと以外変わったことって特にない、よね?
悩みながらも歩くカイの隣で、自分で言っててなんだけどちょっと不安になってきた。
これで違うって言われたら、わたしが立てた予測が全部崩れ落ちてしまう。
「……カイ?」
「その、“悪魔の鏡の欠片”だっけか? それは何なんだ?」
「美しいものは醜く、笑顔は怒り顔になって写る鏡。それは神様によって壊され、このラップランドに欠片となって落ちたの」
「美しいものは、醜く。笑顔は、怒り顔に……」
「そう、その欠片が体に入った人は、冷たい心へと変わってしまう」
そんな馬鹿なことが本当に起こるはずねぇだろ、頭大丈夫かお前?
そんなこと言われるかと思ってたけど、カイは黙ったまま何も言ってこなかった。
何を考えているんだろう?
「ねぇ、この話を本当に信じるの?」
「……てめぇが言ったんだろ? 何だよ、嘘なのか?」
「あくまでも憶測だから、本当なのかはわからないけど」
でも、そうなんだろうと過程付けてわたしは動いている。
それが違うと否定されたら、否定されても、それしか道進むべき道が見つけられないから。
わたしたちは尚も誰ともすれ違うことなく、人気のない廊下を進む。
少し広めの階段を下りきってからも、変わらない光景。
……よく、迷わないよね。
正直自分がどこにいるかなんか全然わからないのですが。
「それで、その鏡の欠片とゲルダにどんな関係があるんだよ?」
「それは……」
わたしが知っている物語では、あなたの凍った心に刺さった欠片を溶かしたのがゲルダだったから。
なんて、そんなこと言えるはずがない。
だってこれは物語とは違うんだから。別のものだと考えて進まなくちゃ、とは思うけど。
「ゲルダが【娘】であり、【主人公】だから」
「あんたと同じ、か?」
「それはちょっと違うけど……」
だってわたしは所詮偽者だもの。
本物とは違う。
「でも、【神子の玩具】は【娘】にしか見つけられなくて、【主人公】にしか手にすることは出来ない。だから」
「【神子の玩具】ね……。話には聞いたことあるけど、本当にあるかどうかですら怪しいもんだろ、それ」
「怪しいって……こうして小さくなれたのは、【神子の玩具】の力だけど」
「はぁ!? これがっ!?」
ぎょっとしたようにその赤い目を大きく見開いて、それからどこか納得したような声を漏らしていた。
「そう言うことかよ……。そんじゃ待て。あんたの推測だか憶測だかで言うと、“悪魔の鏡の欠片”も【神子の玩具】だってことか?」
「さすがにそこまでは分からないけど、人を変えてしまう力があるのならそうなのかもしれないって、そう思ってた方が良いかも」
正直、そこまで考えてなかった。
やっぱり、一人で考えるよりは誰かと考えた方がいいのかも。
そんなことをしみじみと考えていたら、不意に歩みを止められた。
一つの頑丈な鉄の扉。
鋲がいくつも打ちつけられていて、そこだけ妙に陰陽な雰囲気を放っているみたいに、この静かな廊下にそぐわない。
「あんたの持論だと、“悪魔の鏡の欠片”をなんとかするには、ゲルダが持ってるかもしれねぇ【神子の玩具】の力がいるってことだろ?」
「一応は。本当に持っているのかどうかは分からないけど、でも可能性は高いんじゃないかな?」
「掛けてみる価値があるってことだろ? そう言うことなら、まぁなんとかしてやるけど……つか、今俺らって元の大きさに戻れんのか?」
重々しい扉に手を置いたまま、わたしを見下ろしてくる。
戻せる……のかな?
自分でもどうやって小さくなったり大きくなったりできるのか、全然わかってないんだけど。
とりあえず、【神子の玩具】で困ったときは【証】である指輪を握ってみることにしてるから、服の上から指輪を握ってみた。
「元の大きさに……」
戻れる? と問いかける言葉は心の中で。
戻れなかったらどうしよう、なんて考えないようにして。
カイの視線を感じて焦り出したとき、指輪が布越しに熱を持ってぼんやりと輝きだした。
それから、体がゆっくりと引き伸ばされるような感覚がして……大丈夫だ、元に戻れる。
「っ!?」
なんとかと言ったように声を飲み込んだカイ。
どこか戸惑ったような様子のカイを真っ直ぐに見上げて、わたしはニッと笑った。
自信が溢れているように見えるかな?
船長みたいな、あんなかっこいい笑い方ができたら一番嬉しいけど。
「行こう」
「あ、あぁ」
そしてカイがゆっくりと扉を開く。
暗くなっている扉の向こうは階段が続いていて、ここから地下へと行けるんだって分かる。
このどこか閉塞感を覚えてしまいそうな、暗い場所にある階段を下りていかなくちゃならないんだ。
思わずごくりと喉を鳴らしたら、ぎゅっと繋がれた手を握られた。
もしかして、気づかってくれてる?
前を向いたまま先に中に入ったカイの顔は見えないけれど、それでも、そんな心遣いが嬉しくて、繋がれた手に引かれるようにしてわたしも階段を下った。
足音を消しながら歩くなんて、そんな器用なことがわたしにはできない。
厚いブーツのかかとが、一歩進むごとに鈍い音が狭い階段に反響する。
明かりなんか何処にもない。
今までみたいな眩しいほどの白い壁じゃなくて、重々しさを感じる石造りの頑丈そうな壁。
床だって舗装はされているみたいだけど、なんだか地下の牢屋へと連行される気分だ。
「いいか、こっから先で、絶っ対でけぇ声出すんじゃねぇぞ」
先を進むカイが、振り返りもしないでそう忠告してきた。
何があるんだろう?
そんな、わたしが驚く様な物があるの?
小さな声で分かったと返すと、カイはそれっきり何も言わなくなった。
ただ黙って長い階段を下りていく。
本当に長いのかどうかは分からないけど、そう感じるくらいにちょっと心に余裕がない。
奇妙な圧迫感と閉塞感に、湧き上がってくる焦燥感。
この重々しい壁が迫ってくるように思える。
足音はわたしたちのだけなのに、誰かが後ろを追ってきているような気がして、何度も振り返った。
早くここから出ないと、わたしはこの狭い通路に押し潰されてしまうんじゃないかって、そんなことないのに、本当にそうなってしまいそうな気になってしまう。
髪も服も白いカイが唯一の明かりのように思えて、そんな彼と手を繋いでいることが、多分わたしの気持ちを支えているんだと思う。
もしここに一人で取り残されたりしたら、発狂しちゃうかも。
慎重に足を進めていたカイが、ふと止まる。
それから壁に背をつけて、そっと辺りの気配をさぐるように視線だけをさっと動かす。
「何?」
囁くような小さな声で、カイの隣で同じように壁に背をつけながら問いかけた。
気持ちがいっぱいいっぱいで気付けなかったけど、あと数段で階段も終わるみたい。
「……見ろ。慎重に、声は出すなよ」
尚も警戒するようにだったけど、声を抑えながらカイはこの先を顎で指した。
なんだろう? と緊張で早まる鼓動を抑えながら、わたしはそっと身を乗り出す。
「っ!」
思わず息を呑んだ。
大丈夫、声は出してない。
でも、何アレ。なんと言うか、すっごく、気持ち悪い。
「大丈夫か?」
「……いじょぶ」
本当は全然大丈夫なんかじゃないけど。
声だって震えてるし、足だってガクガク。
全力疾走したみたいに心臓は早鐘を打ってるし、それが妙に頭に響く。
「ならまだ行けるな? 目的はあの先だ」
カイがそっと歩き出す。
わたしも引っ張られるようにして、後を追う。
膝が震えて、転ばないかな。わたし、上手く歩けてる?
「……」
階段を下りきった先に広がっていた光景は、妙に怖かった。
なんて言うんだろう?
映画とかで見た、霊廟みたい。
地下のこの大広間に、物と言う物はない。
あるのは、人。
死んだように動かないで、皆が胸に手を組んで、目を閉じている。
薄暗い室内でも分かるくらいに肌が青白い、鎧をつけたままのお城の兵士たち。
彼らが綺麗に整列した形で、ずらりと横たわっていた。
―…みんなおかしいのよ。雪の女王の命令しか聞かないの。それ以外はずっと死んだように眠っているのよ。その光景ったら、とっても気持ちが悪いの。
あの幽霊みたいな子が言っていたのは、きっとこのことなんだよね?
これは確かに、あまりにも異様で気持ちが悪い。
ぎゅっと唇を噛んで、おまけに口を手で覆って必死に耐えた。
悲鳴とか、そんなものをあげられるような余裕なんかない。
彼らの脇を黙々と通り過ぎるカイの後を追うことだけを考えて、わたしは必死で足を動かした。
震えてないでよ。ちゃんと踏ん張って、動いてよ!
『ねぇ、そんな我慢ばっかしていて大丈夫?顔色悪いけど、倒れちゃわない?』
ふわりと、何かがわたしの側で言葉を紡ぐ。
『もしかして、それどころじゃない? なんだかわたし、あなたが余裕がないときばかり出てきちゃってるみたいね』
くすくすと笑う声に、そっとその方を見る。
……見なきゃよかった。
『ちょっとちょっと、どうしてそんな嫌そうな顔するの? その反応は酷いわ!』
ひどいと言われてもいい。
だって、整然と並んで死んだように眠っている兵士たちの横を歩いているだけでも、わたしとしては物凄く頑張っているんだ。
それなのに、幽霊みたいに実体がぼやけているあなたを耐えられるような、そんなキャパシティは持ってません!
『それに、カイちゃんと手を繋いでるなんて! 言ったでしょ? カイちゃんはわたしのよ! あなたになんかあげないからねっ!』
きっと、べーっと舌を出しながら言っているんだと思う。
カイの背中に飛びつくようにして、そんな嫉妬心を真っ直ぐ向けてくる。
……ごめん、手はちょっと今離せないかな。精神的に。
『でも、カイちゃんが誰かと普通に触れたり、お話したりできるのは珍しいから、それくらいは許してあげる。でもでも! カイちゃんに惚れちゃうのはダメよ? 惚れちゃう気持ちはわからなくもないけど』
わたしが何も言わないのをいい事に、その子はどんどんと話していく。
本当に、話したくて仕方がないみたい。
……カイは、この子の存在に気付いてないのかな?
こんなにも騒がしく話している上に、カイの背中にくっついたまま。
普通なら、ウザいの一言くらい言いそうだけど。
『それで、どうしてこんなところにいるのかしら? あ、そんなに怖がらなくても大丈夫よ。ここの兵士たちはね、そんな簡単に起き上がったりしないから。もちろん、死んでなんかないわ。ちょっとだけ、眠っているだけなのよ』
そう言うものなの?
聞いてもいないのに勝手に話してくれるから、わたしはただ黙って聞いているだけなんだけども。
『それでも、怖くて声とか出せそうにない? わたしばっかり話していてもつまらないじゃない。ねぇ、何か話してよ』
話してよ、と言われても。
わたし声を出すなと、あなたのカイちゃんに言われているのですが。
どうしようと思ったけど、わたしは尚もカイの背中にくっついているその子を見上げて、ゆるゆると首を振った。
「なんだよ?」
視線に気付いたのかカイが不思議そうな顔して振り返ったけど、ごめん、カイにじゃないんだ。
囁かれるように落とされた言葉に、わたしは慌ててさっきよりも大きく首を振った。
『カイちゃんってば、相変わらず視線には敏感なのね。でも、やっぱりちょっと素っ気ないかしら?』
わたしとしてのやっぱりは、この子の存在をカイは気付いてないってことなんだけど。
【証】の力は、やっぱりよく分からない。
大きくなったり小さくなったりは他の人に影響を与えられるけど、こうして幽霊が見えるようになるのは、わたしだけにしか作用してないなんて。
『うーん、でもあれかな? なーんかあなたたちが行きたいんだろう方が分かったから、わたしはこの辺で消えようかな? あそこあんまり好きじゃないんだもの』
カイの背中からふわりと降りて、わたしの前に駆け回ってくる。
『カイちゃんね、全然素直なんかじゃないの』
うん、それはちょっと同感。
わたしよりも年上のくせに可愛い反応をすることも、ちょっと釈然としないけど分かる。
『でも優しいのよ。きっと、あなたのことを護ってくれる。だからお願い。どうかこれ以上、カイちゃんを傷付けないで』
「え?」
『お願いね。これ以上傷付いたら、カイちゃんはきっと壊れちゃう』
それ、どういうこと?
問いかけようにも、その子はすっと姿を消してしまった後だった。
……カイを、傷付けないで?
壊れてしまうから?
それじゃぁ、今わたしの目の前にいるカイは、傷付いて、ボロボロになっているってこと?
そっと隅にとりつけられた扉を開けようとしているカイを見上げて、どういうことなんだろうって、首を傾げた。
「さっきから、なんなんだよ?」
「よく、分からないけど……」
「なんだよそれ」
怪訝そうな顔をしたカイに促されて、わたしたちは地下の広間を後にした。
ゆっくりと扉を開ける。
静かに開いた扉の向こうから吹き込んできた風。
さらりと素肌を撫でて、出口を捜しているみたいに広間へと駆け抜けていった。
「綺麗……」
思わずこぼしてしまった言葉に、カイは何も言ってこなかった。
綺麗、だなんて。
こんなこと思っている時じゃないのに。
それでも目を奪われてしまうような光景。
光を乱反射させる氷柱。
その一つ一つに刻まれた幾何学模様が、キラキラと氷の粒子を輝かせているみたい。
それが何本も無造作に建てられているこの空間は、どこからか差し込んできている僅かに細い光しかない。
だけど、それだけで十分なくらいに眩しい。
冷気が形になって見えているのか、白い煙みたいなものが床付近に漂っている。
透明な氷柱が放つ光と対照的に、部屋の壁は薄暗い。
白と黒と、光と影のコントラストが、純粋に綺麗だと思った。
「こっちだ」
言葉が出ないわたしの手を引きながら、カイが氷柱の間をすり抜けて奥へと進む。
「……何があっても、後悔すんなよ」
「え?」
何、その言い方。
まるで何か嫌な事でもあるような言い方。
そんなこと言われたって、後悔しないはずないよ。
もうずっと、後悔ばかりしてきているんだから……。
「そんなの、分からない」
「じゃあやめるか?」
ぴたりと、足を止められる。
どうしてそんなことを言うの?
「見ないほうがいいものが、あるの?」
「……」
白い息を吐くカイは、何も言わない。
「あるんだ。この先に」
わたしたちの言葉以外はなにも聞こえない。
冷気と静寂だけが漂っている、この用途がよく分からない部屋。
「あのね」
「何?」
「わたし、後悔しかしてないから。今更それから目を逸らそうなんてこと、したくない」
「そんなこと言ったって、泣き喚かれて困るのは俺なんだ」
「なら、放っといていいから。わたしは、もう逃げたくない」
【不思議の国】号から逃げた。わたしが怖いと思ったものから逃がしてもらった。
逃げたくて、逃がしてもらった。
それでも、赤は消えてくれはしない。
忘れるなとでも言うように、逃げた先でも突然現れる。
「逃げても、意味がないんだ」
立ち向かえ。怖くないはずなんかない。
でも、逃げても何も解決しない。
後悔したって、怖いと思って、震えてもいい。
それでもいいから、わたしは前を向いて、現実と直面する。そう決めたんだ。
「お、おい!」
繋いでいた手を離した。
一人だって、支えてもらえるものなんかないって、大きな手から離れたことに心細さを感じたけど、もう一度繋ぐつもりはない。
進む。カイの手から離れて。
一人で。たった一人で。
「待てよ!」
白く輝く氷柱の間を、白く漂う冷気の流れを突っ切って。
一人では何もできない。
そんな言葉を物語ではよく使われる。
だから仲間がいるんだって、仲間を信じるんだって、そう繋ぐために主人公の無力さを浮き彫りにさせる。
でも、そんなはずない。
一人では何も出来ないなんか嘘。
一人でもできることがある。助けてもらう事は、本当に自分ができないことだけでいい。
そもそも、わたしは自分じゃ何もやっていない。
やってもいないのに助けてなんて、そんなおこがましい事をしてもいいはずないじゃないか。
カイの声を無視して、わたしは進んだ。
だって、わたしはゲルダに会いに来たんだ。わたしが会いたいと思ったんだ。
そうすれば、何か一つくらいは変わるかもしれないから。
「待てって!」
カイの慌てた声と共に、腕をとられた。
その時にはもう、わたしはソレを見ていた。




