05.公爵夫人の招かざる客
「ねぇ、ウサギはあの子どう思う?」
船の縁で頬杖をついているチェシャ猫は、敵船を見続けながら唐突にそう言った。
まさか自分に向かって話しかけられるとは思っていなかったマーチは、ゆっくりとチェシャ猫に顔をむけて、もう一度言うよう聞き返した。
「だから、あんたたちが言うアリス候補のこと。どう思う?」
「……どうって…」
どう思うと聞かれても、マーチは返答に困った。
アリス候補と言うよりは、等身大の女の子と言った方がしっくりくる。
戸惑って、困って、否定して……。
今まで乗り込んできた自称アリスの令嬢とはどこか変わっていて、不思議な子と言ってもいいのかもしれない。
マーチはその場面を見ていないから半信半疑ではあるが、空から落ちてきた異邦人だと言うことも踏まえると、少し変わった女の子。
そう表現するのが一番だと思う。
「……変わってる、と思う」
「そんなの分かってるし。俺が聞きたいのはそんなことじゃない」
イラッとしたようにチェシャは続けた。
「ユキは、本物のアリスになれると思う?」
それは、この島に訪れるたびに聞かれる言葉。
今度の女は本物のアリスだと思う?
今までは迷うことなく“思わない”と答えてきた。でも、今回は違う。
「……本物じゃない」
「まぁ、ユキもそう言ってたし。本物じゃないのは確かでしょ」
「……でも」
「でも? 何?」
「本物じゃなくても、アリスだったら、と思う」
もし仮にあの子が本物のアリスだったら、それは嬉しいことだと思う。
身分やこの世界の常識に囚われていない、そういう意味では純粋だし、綺麗ごとの当たり前を普通のことだと言う。
『キミが本当にアリスだったらいいのに。そしたら、僕がこの先ずっと守ってあげれる』
ヤマネが思わずそう言ってしまったくらいに、彼女は……
「アリスじゃなくても、一人の人間として、好きだと思う」
確かめるように、マーチはそう言った。
「……帽子屋によく言われる言葉だけど」
少し驚いたように言葉を失っていたチェシャ猫が、ぽつりと呟いた。
「アリスには余計なことを教えるな。それから、偽者アリスだったら潔く降船させるために、船員は余計な感情移入はするな」
「……あ」
「今回は俺じゃなくて、ウサギにそう釘刺すべきだったみたいだね」
読み間違えたね、帽子屋も。
にやにやと笑いながらチェシャ猫はそう言った。
余計なと言われる感情移入はとっくにしている。
あの子に船を降りてほしくないと思うくらいには、肩入れしている。
ヤマネも同じ気持ちだろう。
そうでなければあの様な言葉なんか言えない。
そんなヤマネのためにと、余計なことと言われることも、ちょっとだけ教えてしまった。
だが、チェシャ猫はそれを知らない。
余計な感情移入をしているのはマーチだけだと思っている。それだけだと、思っている。
「……笑った」
「は?」
「……笑ったんだ」
誰が、とは言わなくてもチェシャ猫には伝わったようで、ふぅんと、興味ないように相槌を打った。
「ウサギの美味しい料理を食べたから? 実は食い意地張ってるよね」
「違う」
「何が違うって?」
幸せそうに食べてくれたことも、美味しいと言ってくれたことも、マーチの心を嬉しいと思わせてくれたことに違いはない。
だが、違うのだ。
「……嬉しそうに、笑った」
何が食べれるか、どんな料理なら食べてくれるか、それを聞きに行ったときに、彼女は笑ったのだ。
「……柔らかく、笑った」
戸惑ったり、不安そうにしたりするのではなく、ふわりと笑ったのだ。
どうして笑ったのかは分からない。
それでも、マーチを動揺させるには十分すぎる、優しい笑顔だった。
「へー。それで?」
明らかに不機嫌そうな声になったチェシャ猫に、マーチは言葉を続けるのをやめた。
「……俺のこと、言えない」
ぽつりとそう呟いたマーチの声は、チェシャ猫にも聞こえたはずなのに何も言ってこない。
感情移入したのは、マーチやヤマネだけではないのだ。
きっと、チェシャ猫だってそう。
ならば、本物のアリスではないということを証明されないように祈るしかないのだ。
それ以外、彼女をこの船に留めておく理由などないのだから。
* * * * *
「何、この、奇妙な光景は……」
目の前に広がる光景に、眩暈を覚えた。
本当に、何なの。
この普通じゃ考えられない光景は……。
帽子屋さんの……多分魔法で、一瞬にして船から移動したわたしがまず始めに目にした光景は、子どもくらいの大きさの、その、服を着ている魚や蛙が……大量に地面にひっくり返っているなんとも異様な光景だった。
ぬめぬめしている表面に砂をたくさんつけている変な蛙や魚は、ひっくり返ってぴくりとも動かない。
……動かないでくれているほうがありがたいんだけど。
「やはり、上陸されているようですね……」
「どうしますか?」
「彼らは、まだ生きていますか?」
「確認してきます」
冷静に状況を把握しているらしい帽子屋さんとヤマネくんは、少し抑えた声で短いやりとりをしていた。
わたし?
わたしは情けないことに、一歩も動けない。
一歩でも動いたらむくりとその、変な魚や蛙がびちびち動き出しそうな気がして……ごめん、無理。
それでも、ヤマネくんは帽子屋さんの指示通り手近にいた、その、変な蛙や魚の側に近寄って、無造作に触りながら脈を測ったり呼吸の確認をしたりしている。
わたしには絶対無理っ! 触れないっ!
「……外傷は特にないみたいです。脈拍もおそらく安定。呼吸についてはなんともいえませんが、気を失っているだけかもしれません」
「そうですか……」
指先を唇に当てながら何か考え込むようにしていた帽子屋さんは、碧い瞳だけを動かしてわたしを見た。
何を言われるんだろう。
この、変な魚や蛙がひっくり返ってる……えぇと、庭園、かな? 綺麗な刈り込みをされている、世界史の資料集の中世ヨーロッパのページに紛れ込んだような場所で、何をしろと言われるんだろう。
「アリ……」
帽子屋さんが口を開いたとき、どこからか爆音が聞こえた。
ずどーんって、そんな簡単な言葉で表せるような可愛いものじゃなくて、耳をつんざくような音。空気を振るわせる振動と、揺れる大地に迫り来る強風。
思わず目を塞いで身を縮めこませたわたしは、必死で踏ん張ってそれに耐えた。
せっかく揺れる船から降りれて、揺れない大地に立てたって言うのに!
ついてないって言うか、なんでこうも次から次へととんでもないことが起こるのっ!?
「決して叫ばないで下さい。ヤマネ、我らがアリスの護衛を」
「っ、マッドは!?」
「公爵夫人のご機嫌を伺いに!」
言うなり、帽子屋さんはさっと手を振り上げてぼんやりとした光を作ったかと思えば、その光の中に消えていった。
ま、魔法って便利でいいよね。
そんな現実逃避的なことを考えてたわたしは、おさまった風で乱れた髪を手櫛でなおしていた。
「えっと、叫ぶなって……」
「敵に僕たちの居場所を教えないために、だよ」
「あ、そっか」
そういえば、【地下の国】号の人が上陸してるんだよね。
ここは公爵夫人の島。
アリスの【神子の玩具】がある場所なんだから、それを狙っている彼らは敵。
そう考えるのは普通の事なんだけど……。
「そっか、って……。いい? キミは【不思議の国】号のアリス。【地下の国】号にアリスがいたとしたら、アリスは二人もいらない。僕の言いたいことわかる?」
「……わたしはアリスなんかじゃ」
「それでも、クイーンが認めてるんだから、キミはまだ僕らのアリスだ」
お願いだから、分かって。
とヤマネくんがいつの間にか握ってたナイフを構えながらそう言った。
わたしがいくらアリスじゃないと言っても、今はまだ【不思議の国】号の《仮》アリスだ。それはわたしも認めてる。
でも、アリスは二人もいらない。
だから、いらないアリスは……
その先を考えると、ぶるりと身体が震えた。
「大丈夫だからね」
とん、と肩が触れた。
「僕が、絶対守るから。大丈夫」
顔だけわたしの方を向けて、ヤマネくんは優しく言った。
思ったより近くにあったエメラルドの瞳に、わたしの情けない姿が映ってる。
ヤマネくんにそう見られてるのか、と思うとしっかりしなくちゃと背筋が伸びた。
「……ありがとう。お願い、ヤマネくん」
「任せてよ」
にっと笑うヤマネくんが、どこまでも頼もしく思えた。
横にはナイフを構えたヤマネくん。
わたしの目の前にはひっくり返ってる変な魚や蛙。
吹き付ける風が、ごうごうと草木を揺らした。
これからどうしよう……。
公爵夫人の様子を見に行った帽子屋さんは依然として姿を見せない。
ありがたいことに、まだ【地下の国】号の人にも見つかってない。
アリスなら……、本物のアリスなら、様子を見に行こうと帽子屋さんの後を追いかけていくか、ひっくり返ってる変な魚や蛙を叩き起こすくらいはするだろう。
でも、わたしはアリスじゃない。
だから、わたしはわたしの好きなようにしよう。隠れてもいいし、逃げてもいいと、そう自分の身を守ることをまず考えようと思う。
「えっと、ヤマネくん。ここって」
「……ケロッ」
「そう、ケロなんだ……ケロ?」
いや、ケロって何?
ヤマネくんを見ると、僕じゃないよ、とでも言うように首を振られた。
じゃあ、誰が……
「ケロ~、酷い目にあったでケロ」
「いっ!?」
叫ばないっ! 叫んでないこれセーフ!
思わず出てしまった一言であって、全然叫んでないからね!
と心の中だけで精一杯叫んどく。口には出さない。
ケロだなんて、いや、考えなくても何なのかは分かるけどっ!
想像してみて欲しい。
むくりと、わたしの半分の高さの服を着た蛙が起き上がって、流暢に話しているところを。あのぬめぬめした表面にくっついた砂を、人間のように叩き落としているところを……!
「無理、無理っ」
生理的に無理で、腕に鳥肌がたったのも仕方ないよねっ!
アマガエルとかそんな緑色なら、まぁまだなんとか許せたけど、茶色でいぼいぼがついた表面の蛙にそれやられたら、気持ち悪いって思うのは仕方がないって思うよねっ!
「だ、大丈夫だよ? 彼らは敵じゃないし……えっと、そんなこの世の終わりみたいな顔しなくても……」
わたしはひたすらヤマネくんの背中にしがみついて、ぶんぶんと首を横に振った。
あぁ、マーチが魚と蛙が平気かって聞いたのはこれだったのか、なんて、今更そんなこと思った。
助言だったんだあれ……。
「ケロッ」
「わっ!?」
こっち見るな蛙っ!
「ケロケロッ。お前らは誰だケロ」
「僕らは【不思議の国】号の船員です。一体、何があったんですか?」
「ケロッ? 【不思議の国】号ケロッ」
丁寧に答えたヤマネくんに、変なイボ蛙は素っとん狂な声を上げた。
「そうケロッ! 不法侵入者だケロッ! ゴ主人様はっ!」
「公爵夫人なら、今マッドが様子を見に行きました。だから、ちょっと落ち着いて……」
「ケロケロッ! イカレ帽子屋さまがっ! それなら安心だケロ~」
「だから、声が大き」
「あれぇ? なんかぁ、誰か起きたのかもしれないみたいなぁ?」
「!?」
間延びした声に、素早くヤマネくんがわたしと位置を変わった。
思わず掴んでいた手を離して、びくりと固まる。
違う、固まってちゃダメだ。
「二人とも、今すぐここから離れて!」
「ケロケロッ!」
一目散に跳ね逃げるイボ蛙とは逆に、わたしの足が、動かない!
ヤマネくんをここに置いていくわけにはいかないとか、そんなこと思ってるんじゃない!
恐くて動かない……!
「なんかぁ、増えてるんだけどぉ」
「走って、早くっ!」
ヤマネくんの鋭い声と、押された背中によろめいて、ようやく足が動いた。
前へと動かして、地面を蹴る。
たったコレだけのことをするのに、どうして足が動かないんだ!
後ろなんか気にしている余裕なんかない。
わたしはただただ走った。
「あー、逃がしちゃった。でも、ま、オレ今一人だし? 仕方ないよねぇ?」
「お前の都合なんか知らない!」
キィンと、鉄が弾かれる音が後ろでしたような気がした。
無情だと、笑ってくれたっていい。
わたしはそれを言われても仕方が無いことをした。
だって、恐かった。
間延びしたような声の人が敵だったら、【地下の国】号の船員だったら、わたしは……。
わたしが本物のアリスじゃないとしても、殺されてたかもしれない。
それが、純粋に恐かった。
「……はぁっ、はぁっ!」
息が荒い、胸が苦しい。前なんかもう見れない。ただがむしゃらに足を動かす。
スカートが翻ってるとか、髪が乱れているだとか見苦しいだとか、そんなことを気にしてる余裕なんかない。
止まったら殺される。
ヤマネくんを振り切ってもうわたしの後ろにいるんじゃないかと思うと、走り続けるしかなかった。
ここがどこだとか、どこに向かって走ればいいのかとか、そんなことは全然分からないけど。
「やっ!?」
がさがさがさっと、どこかの茂みに突っ込んでしまったらしく、べちべちと顔に葉っぱや枝がぶつかる。
前なんか見てなかったから、全然気付かなかった。
驚いて止まりかけたけど、必死で前へ進んでた足は急に止まってはくれなくて、わたしは足をもつれさせて茂みの中で勢いよく転んでしまった。
「っ……」
痛い。
手をつく暇もなく転んだから、そう思うのも仕方の無い事なんだけれど。
柔らかい土と細かな小石が、顔を上げたわたしの頬からぱらぱらと落ちた。
荒い息が収まらなくて、苦しくて地面に頬をつけたまま肩で息をした。
もっともっと酸素が欲しい。胸が苦しい。
「ねぇ、だいじょうぶ?」
「っ……」
息が止まった。
誰かがここにいた。こんな情けない姿を見られた。
ゆっくりと息をはいて、視線だけを上げて声の主を見た。
「ねぇ、おねえさんだいじょうぶ?」
あどけない舌足らずの高い声。
子ども特有のふっくらとした赤みかかった頬。
金色の長い髪に、ヘアバンドのように結ばれた白いリボン。
水色の古めかしいドレスに、白いエプロン。
左目に付けられた黒い眼帯をのぞけば、その姿はまさしく……
「……あ、りす…?」
「おねえさん、どうしてボクのなまえをしってるの?」
不思議そうに首を傾げた少女は、誰もがよく知るアリスの姿をしていた。
そう、あの不思議の国のアリスの……。
「あ! いまいったことはないしょね。せんせいにおこられちゃう」
しーっと指を立ててイタズラした子どものように笑ったアリスは、ぐいっとわたしの顔をぬぐった。
「ビックリしちゃった。おねえさんしげみにむかってはしっていくんだもん」
「……」
「きれいなかお、よごしちゃダメだよ? ほら、これできれい!」
ごしごしと顔を擦られて、アリスが満足そうに笑っているのをわたしはただ見ている他なかった。
だって、そう。
アリスは小さな好奇心の強い女の子なんだもの。
やっぱりわたしはアリスなんかじゃない。
そんなの分かってたのに……
自分でもそう言っていたのに、知っていたのに……
「おねえさん?」
アリスが覗き込んでくる。
ぼやける視界に、彼女の顔は見えない。
何やってるんだろう。ここで泣くのはおかしいじゃないか。
彼女が本物のアリスで、わたしはアリスじゃなくて、幸。
そんなの当たり前の事じゃないか。
泣く必要なんかない。ただの事実なんだから。
「な、んでも、ないよ……」
「でも、おねえさん」
「大丈夫。わたしは、大丈夫だよ、アリス。ありがとう」
綺麗に笑えているといいな。
綺麗な顔って言ってくれて、土を拭ってくれたアリスに、綺麗な笑顔って言ってもらえるように。
わたしは子どもなんかじゃないんだから、泣くのは間違っている。
大丈夫、それくらい分かってる。
自分の感情がどうであれ、分からせることはできるもの。
「どういたしまして!」
無邪気ににっこりと笑うアリスに、これ以上気を使わせないようにゆっくりと体を起き上がらせた。
「……アリス」
「あ、せんせいだ!」
誰かの声が、アリスを呼んだ。
ぱっと顔を輝かせて“せんせい”と言ったアリスは、ぐっと立ち上がって心配そうにわたしを見た。
「おねえさん、ほんとうにだいじょうぶ?」
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう、アリス」
「へへっ、どういたしまして! それじゃあね、おねえさん!」
にっこりと笑ったアリスは、「せんせい!」とはしゃいだ声で笑いながら駆けて行った。
もう、わたしのことなんか忘れたかのように。
忘れてくれて構わない。
本物のアリスには覚えられたくない。
偽者アリスなんかやった、わたしのことは忘れて欲しい。
本物のアリスになりたいと思ってしまったわたしのことなんか、忘れて。
これ以上は惨めになりそうで、考える事もしたくなかった。




