第14幕
ツヤカは熱こそ高いものの、それ以外には大した症状がなく容体も安定していたので、ミヤコは看病を切り上げて自分のクラスの手伝いに行くことにした。
イチョウ並木の外れ、いつもは昼食時にお世話になっているコミュニケーションプラザ南館の前に、屋根に大きく「チョコバナナ」と描かれたテントがあった。建物背後の芝生広場からはマイクを通した音が聞こえてくる。イベントの司会だろうか、男女が和気あいあいと掛け合いをしていた。
開場直後と比べると大幅に人出が増えており、模擬店も多くの来場者で賑わっている。客にチョコバナナの本数を聞き、代金を受け取り、品物を渡すのがミヤコの仕事だ。
「あっ、ケロナンだ」
イチョウ並木の向こうからカエルの着ぐるみが歩いてくるのを見つけたクラスメイトが大喜びで手を叩いた。
ケロナンは銀杏祭の公式マスコットだ。普段は大学構内の池に棲み、ギンナンを主食にしている、という設定が名前の由来になっている。黄色いベロア生地で全身を覆われ、頭の両端にくりくりと愛くるしい目がついている。その間に載せた黒い学士帽がビジュアル上のアクセントになっている。
「店の前に来たら一緒に写真撮ろっ。チョコバナナ持ってくれるかな?」
「指がないから、棒をつかむのは難しいんじゃないの?」
「あたしたちがチョコバナナ持って、両脇に並べばいいんじゃない?」
手を振ると、ケロナンはさっそく近寄ってきてくれた。後ろに何人かの子供たちを引き連れている。ミヤコはクラスメイトとともに路上に出て、着ぐるみの両脇に立った。
「はい、チーズ」
両手にチョコバナナを持ったまま、子供たちと一緒にスマホのカメラに収まる。
手を振りながら、コミュニケーションプラザの方に消えていくケロナンを見送っていると、別のクラスメイトがやって来た。
「お疲れっ。交替に来たよ」
「えっ、もうそんな時間なの?」
ミヤコは手にしていたスマホを改めて確認した。
「大変。急いでお昼食べて、十一号館に行かなくちゃ」
「彼氏の晴れ舞台だもんね。しかも、女役で」
並んで店番をしていたクラスメイトが肘でミヤコの脇腹を突く。
「彼氏っていうか、まあ、その、そんなことはどうでもいいんだけど、実は急に熱出して出られなくなっちゃったのよね」
「えっ、それじゃどうするの? 誰か他の人がやるの?」
「そうらしいんだけど」
「男? 女?」
「それもわかんない」
「急に代役なんて、台詞とか、大丈夫なの?」
「演出のユヅくんは心配ないって言うんだけど、とにかく行ってみないと」
テントの奥のテーブルに置いてあったポシェットを手に取り、肩から下げる。
「うーん、なんだかよくわかんないけど、頑張ってね」
「うん。じゃあ、後はよろしく」
人混みを掻き分けて道を横切ると、ミヤコはイチョウ並木の裏を小走りに駆け出した。
十一号館の大教室では舞台造りが進んでいた。
組み合わせた角材にベニヤ板を張っただけの塀が運ばれてくる。観客席の真ん中にいるノトリエが身振り手振りで位置を指定すると、左右から塀を支えている二人が右へ左へと小刻みに移動を繰り返す。最初の一枚の位置が決まると、後は残りを順に並べるだけだ。
観客席の最後方ではフミエが音響機器の調整をしていた。ボリュームや左右のバランスを確認しながら、用意してきた音楽を実際に流してみる。哀愁を帯びたメロディーが場内に響く。教室の扉は閉められたまま。当然、観客はまだいない。
楽屋教室では、アジポンが椅子に座らされ、憮然とした表情のままジョウノからメイクを施されていた。
「やあ、アジポン。機嫌はどう?」
いかにも楽しそうな表情でユヅが近寄ってくる。
「良さそうに見えるか?」
「とっても。でね、僕はこれから初めて演出家らしい仕事をしようと思うんだ」
アジポンは微動だにせず、目だけをユヅの方に動かす。アイブラシでアジポンの目尻にシャドウを引いていたジョウノが手を止める。
「きみはツヤカとは違う。見た目はもちろんのこと、声や体型もだ。だからツヤカの真似をしちゃいけない。きみにはきみなりのミルクを演じてもらう」
きっぱりと宣言すると、ユヅはアジポンの頬を人差し指で差した。
「ということで、ジョウノさん、まずここに赤く日の丸を描いて」
「なっ、何を」
「いいから。芝居において、演出家は絶対なんだよ」
ジョウノは戸惑いながらも、紅を溶いてユヅの指示通りにアジポンの頬に塗り始めた。アジポンは一瞬いきり立ったが、その後は抵抗せず、されるがままになっていた。
豚骨ラーメンの店の前には行列ができていた。マツヲがスープを注ぎ、ケチョンが麺の湯切りをし、イケが具材のトッピングをのせるという流れ作業が、休みなく続いている。
テントの後方では、他の模擬店班のメンバーたちが長い棒でドラム缶を掻き回し、折に触れて薪をくべている。全員、額に汗を浮かべていた。銀杏祭のポスターと同じデザインの旗を手にしたケロナンがキャンパスツアーの一団を引き連れて店の前を通り過ぎるが、模擬店班の面々には目を向ける余裕もない。
盛況にさらに追い打ちをかけるように、テントの裏でスマホを耳に当てていたメンバーが大声で叫んだ。
「出前の注文。十三号館の前の焼きそば屋から、バーターでどうかって」
「ええー。ちょっと、とても手が回んないよ」
「営業の成果がここにきて出てきたか」
「あそこって、ミヤコちゃんが所属してるテニスサークルだろ? 断るわけにはいかないんじゃないか?」
マツヲは悲鳴を上げるが、ケチョンは売り上げの拡大に貪欲だ。イケも、ミヤコと知り合うきっかけになった件のサークルとはまんざら他人ではない。
「よっしゃ。俺、行ってくるわ」
ケチョンが湯切りのザルをボウルに置き、腕をまくる。
「で、何人分?」
「とりあえず五人分。その後、時間を置いてまた頼むって」
「それなら、お盆が要るな」
奥のテーブルの下の段ボールからイケがお盆を取り出す。来店客に対応する傍ら出前もこなすなんて、街中のそば屋や中華料理屋はなんて偉大なんだろうと思った。
ミヤコが十一号館に入ると、ちょうど前の劇が終演したところだった。入れ替えの観客でホールはごった返している。肩を叩かれて振り返ると、ユヅがニコニコしながら立っていた。
「間に合ったよ」
ユヅと並んで大教室に入ると、観客席はもう八割方が埋まっていた。ざわめきが引きも切らず、嫌が応にも期待が高まっているのを感じる。
「凄い熱気」
「冷房を入れた方がいいかもね」
そう言いながら、ユヅは涼しい顔だ。
「楽屋にいなくていいの?」
「演出家って、本番が始まるとやることないんだよ。演じるのはあくまで役者。だから、観客と同じ目線で見て、直すべきところがあれば直す。明日のために」
「なるほど」
最後方から全体を見渡していたミヤコは、最前列の異質な一角に気づいて目を留めた。同じ制服を着た女子高校生が集団で場を占めている。
「何? あの子たち」
「うちの大学を志望する受験生かもね」
他の観客が秋冬物のカジュアルな格好をしているので、彼女たちはひときわ目立つ。
「それとも、SNSや動画サイトで予告編を見て、我々の劇に興味を引かれたか」
「そうだとしたら、ツヤカくんじゃなくて、がっかりするんじゃない?」
「かもね。さあ、鬼が出るか蛇が出るか」
不安げなミヤコの隣で、ユヅは不敵に微笑んだ。




