第13幕
澄み渡る空には雲一つない。絶好の秋晴れの下、銀杏祭は初日を迎えた。
重厚な石造りの門柱に、ほぼ同じサイズの大きな看板が立て掛けられている。描かれているのは「銀杏祭」の三文字。その手前のテーブルでは、実行委員会の腕章をつけた学生たちが来場者にパンフレットを配っていた。ここではキャンパスツアーの受付も行われており、早くも申込者が列をなしている。
正門を入ると、時計台をいただく一号館が正面に壮麗な佇まいを見せる。手前の広場に並んだ模擬店から、威勢の良い呼び込みの声が聞こえてくる。子供の手を引いた家族連れから、制服姿の中高校生、大学生らしき集団、父母と思しき二人連れ、杖を突いた白髪の老人など、幅広い年齢層の男女が構内へと入っていく。
そんな賑わいがまるで別世界であるかのように、学生会館別館一階のセミナールームは水を打ったように静まり返っていた。
白いテーブルが講義形式で規則正しく並んでいる。席につく演劇班の面々は、ある者は正面を見据え、ある者は横を向き、ある者は頬杖を突いていたりするが、その表情は一様に硬い。
階段を下りてくる音がして、全員が一斉に振り返る。開きっぱなしの扉から入ってきたカトーは、首を左右に振って下を向いた。
「熱は?」
居ても立っても居られないという全員の思いを代表するようにキッカワが訊いた。
「三十八度九分。それ以上に、ありゃ、とても動ける状態じゃないな」
誰からともなくため息が漏れる。重苦しい雰囲気が部屋全体に漂っている。
「どうするの?」
沈黙を破ったのはジュンジュンだった。
「シーン2、カットする?」
「ほぼ唯一の出番だしね」
「でも、あそこがこの作品のキモなんじゃないの?」
「ストーリーの展開上、あのシーンがないと話にならないよ」
「ヒロインがいなくなったら、劇として成り立たなくなっちゃう」
堰を切ったように意見が飛び出す。何かを言わずにはいられない。そんな切羽詰まった思いに駆られ、発言が発言を呼ぶ。
「なんてこった。せっかくこれだけバズってるのに」
ナイトーが両手でテーブルを叩こうとして、すんでのところで思い止まる。サクライが頭を抱える。ムグルマは腕組みをしたまま目を閉じて動かない。取り巻くスタッフたちも心配そうな顔をして役者たちを見つめている。
いかにも憤懣やるかたないという表情で、ヨーコが唇を噛み締める。
「もう。ツヤカくんったら、よりによってなんでこんな時に風邪ひいちゃうのよ」
十一号館、文科劇場の会場を告知する立て看板の隣に、頭が流れ星で体がイチョウの木という案山子が立っていた。その手が持つプログラムのチラシには本日のスケジュールが記されている。十時から一時間ずつ、上演される劇のタイトルが並んでいた。
「あっ、九組は十三時だって」
「じゃあ、その頃にまた来てみようか」
「ヒロインを演じるの、男の人なんでしょう? どうなるのか楽しみ」
「予告編の映像は凄く綺麗だったもんね」
大学生らしき女子二人組はそう言うと、建物の中には入らずイチョウ並木の方へ去っていった。
学生会館別館一階のセミナールームはさらに重苦しい雰囲気となっていた。
「あと二時間ちょっとで本番か」
「そろそろ休演も考えないといけないか」
カトーやナイトーが誰に言うともなく呟く。ジュンジュンは今にも泣きだしそうな顔をしている。部屋の隅でボールペンを弄んでいたユヅが、回すのを失敗したのか、あっと声を上げて落としてしまう。カランという音に全員がビクッと身震いをする。
ユヅはボールペンを拾おうと背を屈めて床に手を伸ばしたが、その途中ではたと動きを止めた。しばらくそのままの姿勢で何やら考えごとをしていたが、突然、弾かれたように起き上がり、アジポンに目を向けた。
「アジポン、きみ、確かツヤカの自主練の相手をしてたよね?」
突然の名指しに戸惑い、アジポンはウーともアーともよくわからない声を上げた。
「ひょっとしてミルクの台詞、全部入ってるんじゃない?」
言葉の意味を察知したアジポンの表情が、みるみる恐怖に歪んでいく。対照的に、他の演劇班のメンバーの顔が急速に明るくなっていく。お祈りをするように、ジュンジュンが胸の前で手をがっちりと組んだ。
「まさか」
「ちょっと待って。みんな、冷静に話し合おう」
アジポンは慌てて立ち上がると、両手を前に突き出して相手を制するポーズをとった。
「ツヤカはほら、あのルックスだろ? 俺なんかメガネだし、それに、今まで一度も練習なんかしてないし」
必死で説明するアジポンを包囲するように、全員がじりじりと歩み寄っていく。その目は獲物を捕らえる猛獣のようにらんらんと輝いていた。
「もう他に選択肢はないって」
「そろそろ楽屋に入らないといけないし」
「音楽なら、私、一人でできるから」
「メイクは任せといて」
これ以上ないほどに表情筋を引きつらせ、アジポンは水槽の中の金魚が息をするように口をパクパクさせていた。喋りたいのに言葉が出てこない。息ができているのかどうかもわからない。とりあえず、自分が今、おそらく人生最大のピンチに直面しているだろうということだけは存分に理解していた。
八号館前のイチョウ並木では、イケとケチョンが声を張り上げて呼び込みをしていた。昼時には早いせいか、興味を持って立ち止まる人はそこそこいるものの、実際に注文してくれる人はまだ少ない。
「パッとしないな」
「焦ることないよ。まだ始まったばかりなんだから」
最も体の細いマツヲが一番泰然自若としている。前掛け姿も様になってきた。
「材料費だけでも随分かかってるんだぜ。しっかり売って元取らないと」
「それなら出前でも始めるか?」
「おう、いいね。ちょっくら営業してくる」
そう言うと、ケチョンはあっという間に人波に紛れ、姿をくらましてしまった。
十一号館では早くも最初のグループの演劇がフィナーレを迎えていた。
エンディングの音楽が大音量で流れる中、役者たちが全員舞台に上がり、両手を上げて挨拶をしている。観客席はまばらで、パラパラと拍手が起こる。それでも、友人なのか、小さな花束を手に舞台へと駆け寄る女性がいた。
一回おきなので次の時間帯の上演は向かいの大教室が会場となる。既に開場は始まっているが、中はまだがらんとしていた。観客の多くは直前に来るか、早めに来ていても手前のホールで時間待ちをしているようだ。その様子を見ながら九組の演劇班メンバーがぞろぞろと楽屋教室に入っていく。
「意外とお客さん少ないね」
「俺たちは人出が一番多い時間帯だから、もうちょっとは来てくれるんじゃない?」
「そうあってくれるといいけど」
「人前に出るのは恥ずかしいと思ってたけど、こうしてみると、逆に見られたい気持ちが高まってくるな」
みんなで力を合わせて作った塀が何枚も壁に立て掛けてある。窓際の机の上にジョウノが化粧道具を並べ始めた。紙袋から衣装を取り出し、さっそく着替え始めているメンバーもいる。
ついさっきまで絶望の淵を彷徨っていた面々は、今や一体感をみなぎらせ、やる気満々の集団へと変貌を遂げていた。
襖が静かに開き、ユヅが顔を覗かせた。気配に気づいたミヤコが振り返る。陣中見舞いのつもりで学生会館別館を訪れたところ、ツヤカが病に臥せっているというので、朝からそのまま付き添っているのだ。
「解決した。安心して、ゆっくり休むといい」
ユヅは和室には入らず、廊下から声をかけた。聞こえているのかいないのか、ツヤカは額にタオルを載せたまま目を閉じている。代わりにミヤコが質問した。
「大丈夫なの? まさか休演するんじゃ?」
「芝居はやる。何の問題もない」
「代役が見つかったってこと?」
「そうだ」
「誰?」
「それは見てのお楽しみ」
悪戯っ子のような笑みを浮かべると、ユヅはそれじゃと手を振って立ち去った。




