第八章 逆転のチェス盤
一ヶ月後。本邸の厳かな大広間。
神城財閥の重鎮たちが顔を揃える「査問会」の場は、重苦しい緊張感に包まれていた。
上座には、絶対的な権力者である長男の一馬が、退屈そうに頬杖をついて座っている。
その一馬の前に、十歳の透亜は、神城の最高級の仕立て服に身を包み、非の打ち所のない「完璧な人形の笑顔」を浮かべて立っていた。
「――以上が、神城ロジスティクスが抱えていた関東の物流ルートの処理報告です、一馬兄さん」
透亜がそう言って一礼すると、周囲の大人たちから、驚きと感心の混ざった、ざわざわとした私語が漏れた。
十歳の子供が提出したとは思えない、緻密で隙のない利権の再配分計画書。冬真が残した『膿』を綺麗に切り離し、神城の本利益だけを残す完璧な仕事だった。
だが、一馬は書類に目もくれず、冷徹な目を細めた。
「ふん……。綺麗にまとめたな、透亜。だが、これでは『及第点(合格ライン)』に過ぎない。
冬真の尻拭いをしただけで、神城に新たな利益をもたらしてはいない。……あの生意気な護衛の不始末を帳消しにするには、少し価値が足りないな」
一馬の背後に控える、狐狸の老人たちが微かに動く。
やはり、最初から簡単に許す気などなかったのだ。
(知ってたよ。一馬兄さんが、この程度で満足するわけがないってことくらい)
透亜は心の中で冷たく笑った。
そして、懐から一本の、見慣れない漆黒のスマートキーのような端末を取り出し、一馬の前の机にコト、と置いた。
「もちろん、これで終わりではありません。一馬兄さん、そちらの端末の再生ボタンを押していただけますか?」
一馬が不審そうに眉をひねり、長い指先でボタンを押す。
スピーカーから流れてきたのは、ノイズ混じりの、けれどはっきりと聞き取れる「大人の男たちの声」だった。
『――神城の冬真が失脚した今、あのルートは宙に浮いている。我々九条が、裏からすべての流通網を買い叩く絶好の好機だ』
『手筈は整っているな? 神城の長男が気づく前に、一気に実権を握るぞ』
「……ッ!?」
大広間の空気が、一瞬で凍りついた。
それは、競合である九条財閥の幹部たちが、神城の縄張りを侵略しようと密談していた『本物の音声と映像データ』だった。
大人たちが血相を変えて立ち上がる中、一馬の目だけが、獲物を見つけた猛獣のようにギラリと輝いた。
「九条の、お抱え料亭での密談か……。これをどうやって手に入れた、透亜」
「簡単なことです」
透亜は愛らしく首を傾げ、悪魔のようにつややかに微笑んだ。
「九条が冬真兄さんのルートを買い叩こうと動いていたので、あえてそこに『餌』を撒いて、食いついたところを丸ごと録音させてもらいました。
これだけの証拠があれば、九条財閥に対して、逆にこちらの提示する条件で物流ラインを共同経営に持ち込めます。
……神城の利益は、これまでの倍になりますよ?」
完全な逆転劇だった。
冬真の残したトラブルを処理するだけでなく、それを逆手にとって、最大手のライバルから巨額の利権をむしり取るための決定打。
一馬はしばらく無言で透亜を見つめていたが、やがて、低く、愉しそうに笑い声を漏らした。
「くくく……。面白い。見事だ、透亜。十歳のお前が、九条の老狐たちを相手にここまで鮮やかなハメ技(罠)を成立させるとはな」
一馬は立ち上がり、透亜の前に歩み寄ると、その小さな肩をバン、と叩いた。
「約束通り、その有能な猟犬の件はすべて不問とする。……お前は神城の利になる。これからも、私のためにその知恵を絞れ」
「はい。ありがとうございます、一馬兄さん」
透亜は深く頭を下げた。
一馬の「私のために」という言葉に、心の中で激しい拒絶と嫌悪感を抱きながらも、顔には決してそれを出さない。
(僕は誰の道具にもならない。一馬兄さん、あなたのためでもない。……僕は、僕たちのために、この魔窟をのし上がってみせる)
肩に置かれた一馬の手の重みを感じながら、透亜の瞳の奥には、確固たる野心の炎が灯っていた。
査問会が終わり、日が暮れた離れへの帰り道。
静かな竹林の通路を歩きながら、透亜は「ふぅ……」と長いため息をつき、首元のネクタイを少し緩めた。
「お疲れ様でした、透亜様」
背後から、音もなく翡翠が並んで歩いてくる。
彼女はいつも通り、神城の専属護衛としての黒い長袍に身を包み、手にはなぜか、厨房からくすねてきたらしい、みたらし団子の皿を持っていた。
「……翡翠。君、また勝手につまみ食いして。少しは緊張感を持ったらどうなの?」
「だって、査問会が終わるまでお腹がペコペコだったんです。ほら、透亜様もどうぞ。」
翡翠は悪びれる様子もなく、団子の串を透亜の口元に突き出してきた。
「ちょっと、自分で食べられるから――んむ」
拒否する間もなく、甘辛い団子がやや乱暴に口に押し込まれる。
「お行儀が悪いよ」と文句を言おうとしたが、口いっぱいに広がる温かい甘さに、結局、透亜の頬は緩んでしまった。
大人たちのドロドロとした欲望と利害が渦巻く査問会の後だからこそ、この素朴な味が、体に染み渡る。
「……まぁ、悪くはないけど」
もぐもぐと口を動かしながら、透亜はフイと目を逸らした。
そんな主の様子を見て、翡翠は嬉しそうに、くしゃりと無邪気に笑う。
「これで、私へのお仕置きは本当になしですか?」
「当たり前でしょ。僕の書いたシナリオ通りに、君が完璧に任務をこなしたんだから。一馬兄さんだって、もう君を処分する大義名分を失ったよ」
透亜は立ち止まり、月明かりの中で翡翠の真っ直ぐな瞳を見つめた。
少し意地悪く、けれど、これからはっきりと始まる「自分たちの戦い」を見据えて、小さく微笑む。
「言ったはずだよ、翡翠。こんなところで満足なんかしない。……これからも、僕の隣でしっかり役に立ちなよ」
「はい! もちろんです、透亜様」
翡翠は小さく頷き、いつものように透亜の一歩後ろへと位置を取った。
「どこへ行くときも、私はずっと透亜様の後ろについていきますから」
神城財閥という、現代の巨大な魔窟。
その冷酷な権力闘争のただ中で、十歳の少年と、その影たる少女は、自分たちの居場所を確かに勝ち取った。
他人の悪意を利用し、お互いの命を天秤にかけながら、二人の不穏で強固な絆は、静かに神城の闇の奥深くへと根を張っていくのだった。




