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第七章 水浸しの抱擁

九条財閥が隠れみのとして使う、完全会員制の高級料亭『千歳庵ちとせあん』。


周囲を厳重なコンクリートの壁と竹林に囲まれたその場所は、政財界の不穏な取引がいくつも行われてきた、いわば防犯の要塞ようさいだった。


決戦の夜。


離れの自室で、透亜は机の前に座り、特注の小型モニターをじっと見つめていた。


画面には、料亭の周辺地図と、赤く点滅するいくつかの光。それは、翡翠がリアルタイムで発信している彼女自身の現在地だった。


インカムからは、ザー……という微かなノイズの向こうから、夜風の音が聞こえてくる。


『透亜様、現場の裏門に到着しました。これより潜入を開始します』


翡翠の声は、昼間の抜けたトーンとは打って変わり、冷徹なプロの低さを持っていた。


「うん。予定通り、九条の幹部たちが退店したのを確認した。

ここから一時間、次の見回りが来るまでに、調度品に仕込んだスクラップ(録音録画チップ)を回収して。……防犯カメラの周期は?」


『頭に入っています。……今です』


画面の赤い点が、目にも留まらぬ速さで料亭の敷地内へと滑り込んでいく。


高感度の赤外線センサーや、最新鋭の暗視カメラ。大人が大金を投じて築いた警備網を、翡翠はまるで最初からそこに道があるかのように、音もなく、影すら残さずにすり抜けていく。


モニターを見つめる透亜の指先が、微かに強張こわばった。


(大丈夫だ。翡翠の腕なら、こんな場所の警備なんておもちゃ同然だ。……分かっているのに、どうしてこんなに心臓がうるさいんだろう)


かつて、冬真の部屋から書類を奪わせた時は、ただ「チェスの駒」を動かすような冷徹さしかなかった。失敗すれば切り捨てればいい、とすら思っていた。


だが今は違う。インカムから聞こえる彼女の微かな呼吸音ひとつに、胸の奥がキリキリと締め付けられるように焦れる。


『――奥の間に到達。スクラップを確認しました』


翡翠の短い報告に、透亜はハッと我に返った。


「よし。そのまま回収して、速やかに離脱――」


『……待ってください』


インカムの向こうで、翡翠が息を呑む気配がした。


「翡翠? どうしたの」


『部屋の前の廊下に、足音。……2人。この歩幅と重心の安定感……ただの見回りじゃありません。『キツネ(隠密)』です。探知機を持っています』


「っ……!」


透亜は椅子から立ち上がった。


九条側も、ただの防犯カメラだけに頼っていたわけではなかったのだ。取引の直後、情報漏洩を防ぐために、身内の専門職プロを走らせて部屋の総点検を行っていた。


「翡翠、今すぐ天井裏へ退避して!」


『ダメです、手遅れです。天井の通気口を開けるかすかな音で、確実に気づかれます。……部屋に入ってきます』


ふすまがスライドする不穏な音が、インカムを通じて透亜の耳にも届いた。


生きた心地がしなかった。もしここで翡翠が捕まれば、一馬との約束は破綻し、彼女は神城からも九条からも消される。


(落ち着け、考えろ。僕の頭は何のためにある。こういう絶望的な状況を、ひっくり返すためにあるんじゃないのか……!)


透亜は激しく脈打つ胸を強引に抑え込み、冷徹な「策士の脳」を極限まで加速させた。


モニターに映る敷地内の構造、そして、翡翠が事前に頭に叩き込んでいた料亭の全データを脳内でリンクさせる。


「翡翠、聞こえる? その部屋の床の間にある掛け軸の後ろ、何がある?」


『え……? ええと、小さな隠し戸棚があります。以前の古い金庫の跡地です』


「そこに隠れて。チップを回収したなら、探知機には絶対に引っかからない。電波を発していないただの樹脂の塊だからね。


……ただし、部屋の隅々まで物理的に捜索されたら見つかる。猶予は3分だ」


『分かりました。……隠れました。でも、どうするんですか……?』


狭い暗闇に身を潜めているのだろう。翡翠の声が、心なしか小さく震えている。


「僕が今から、その『キツネ』たちを部屋から追い出す」


透亜は引き出しから、もう一台の端末を取り出した。


それは、神城ロジスティクスが所有していた、料亭の「防災システム」へアクセスするための裏コマンドだった。


冬真が残した負の遺産(利権データ)を解析した際、透亜が事前にバックドアを仕込んでおいたのだ。


十歳の小さな指先が、キーボードの上を猛烈な速度で叩く。


「……落ちろ」


Enterキーを深く押し込んだ。


次の瞬間、料亭『千歳庵』の全館に、鼓膜を破らんばかりの非常警報が鳴り響いた。


【火災発生。火災発生。地下厨房より出火。ただちに避難してください】


それと同時に、翡翠のいる部屋の天井から、大量のスプリンクラーの水が文字通りドシャ降りのように降り注いだ。


『うわっ……!』


インカムから激しい水の音が聞こえる。


作戦室ここからスプリンクラーを強制作動させた。部屋の貴重な調度品や畳が水浸しになれば、九条の隠密たちもそれどころじゃない。


彼らの最優先事項は『部屋の捜索』から『重要書類の確保と避難』に切り替わるはずだ!」


画面の向こう、料亭の警備員たちが一斉にパニックを起こして動き出す。


翡翠の部屋にいた2人の隠密も、突然の豪雨と警報に毒突いたような声を上げ、慌てて部屋から飛び出していく足音が聞こえた。


「今だ、翡翠! 庭側の窓から竹林へ抜けて! センサーは水流のノイズで完全に狂ってる!」


『はいっ……!』


水飛沫みずしぶきを蹴立てて、影が跳ねる。


赤い点が料亭の敷地内を一直線に駆け抜け、やがて神城の防犯エリアの「外」へと無事に脱出した。


「……はぁっ」


透亜は机に両手をつき、大きく息を吐き出した。

全身が、まるで自分が冷水を浴びたかのように冷や汗で濡れていた。膝の震えが止まらない。


(あぶなかった……本当に、あぶなかった……)


もし、自分の指示が数秒遅れていたら。もし、バックドアのロックが解除できなかったら。


失う恐怖が、これほどまでに自分の心を支配するなんて思ってもみなかった。





数十分後。


離れの部屋の窓が、トントン、と静かに叩かれた。


透亜が慌てて鍵を開けると、そこには全身ずぶ濡れで、トレードマークの長袍ちゃんぱおを体に張り付かせた翡翠が立っていた。


寒さに唇を震わせながらも、彼女は濡れた髪の隙間から、誇らしげに右手を差し出した。


その手のひらには、水滴に濡れた小さな樹脂製のチップが、確かに握られていた。


「透亜様、…ただいま、戻りました。…完璧に、回収しましたよ…!」


安堵したような、くしゃりとした笑顔。


それを見た瞬間、透亜の頭から「完璧な主としてのプライド」も「冷徹な仮面」も、すべてが消し飛んだ。


「……バカ翡翠」


透亜は部屋に踏み込んできた翡翠の体を、濡れるのも構わずに、その小さな両腕で思いきり抱きしめていた。


「っ……!? と、透亜様!濡れちゃいますよ!風邪ひいちゃいます……!」


翡翠は驚きながらも、すぐに透亜の体調を心配した。


「うるさい、静かにしてて」


強く、壊れてしまいそうなほどに抱きしめる。


同じ10歳ほどの背丈だ。抱きしめると、お互いの顔がちょうど相手の肩口に深く埋まる形になる。


耳元で聞こえる、冷え切った彼女の呼吸音と、トクトクと刻まれる確かな心音。それが、彼女を無事に守り抜けたという、何よりの証明だった。


「……あんな場所にキツネ(隠密)が残ってるなんてね。……本当に、余計な冷や汗をかかせないでよ」


翡翠の首元に顔をうずめたまま、透亜はわざと冷たく、意地悪な口調で吐き捨てた。


けれど、翡翠を抱きしめている透亜の小さな両手は、言葉とは裏腹に、痛いくらいに強く、小刻みに震えていた。


(……ああ、本当に。調子が狂うな)


自分の指示で送り出した任務とはいえ、彼女の命が危機に瀕したと知ったときの、あの心臓が引きちぎられそうな恐怖。


それを隠すための意地悪なセリフだと、翡翠には完全にバレていた。


翡翠は驚いたように目を丸くしていたが、透亜の震えが伝わると、すべてを察したように嬉しそうに目を細めた。


そして、自分のために必死に強がっている幼き主の背中に、そっと冷たい手を回した。


「はい。ですが透亜様の正確な指示のおかげで、傷一つなく戻れました。……これからも透亜様のために、ちゃんとしがみついておきますね」


「……当たり前だよ。君は僕のものなんだから」


窓の外では、冷たい月明かりが、寄り添う2人の小さな影を静かに照らしていた。


一馬に与えられた最初の試練を、2人は最高の連携で乗り越えたのだ。神城の最高機密を手にした彼らの反撃が、ここから始まろうとしていた。


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