第六章 調子がくるう!
一馬から課された試練――それは、十歳の子供が扱うにはあまりに巨大で、一歩間違えれば破滅を意味するものだった。
「神城ロジスティクスが抱えていた、関東一帯の『闇ルート』ね……」
離れの書斎。透亜は机の上に大量の資料を広げ、前髪をいじりながら小さくため息をついた。
冬真が隠していたのは、単なる物流会社ではない。密輸や脱税、他家との不適切な癒着に使われていた、神城財閥の『膿』そのものだった。
一馬は、透亜がこの膿を綺麗に処理できるか、あるいは泥沼に引きずり込まれて自滅するかを試しているのだ。
「ふうん……。だったら、このルートを丸ごと警察のしかるべき部署に匿名で売却、いや、あえて競合の『九条財閥』に掴ませて自滅してもらうのが一番かな……」
十歳とは思えない冷徹な計算を立てる透亜。
その時、トントン、と、机を叩く小さな音がした。
「透亜様、透亜様」
覗き込んできたのは、いつの間にか気配を消して隣に立っていた翡翠だ。
彼女は資料に書かれた漢字の羅列を、目を白黒させながら見つめている。頭脳労働が苦手な彼女にとって、大人の経済や政治の書類はなにかの呪文のようだった。
「……何? 翡翠。今、大事な作戦を考えてるんだけど」
「あの、九条っていうのは、美味しい果物の名前ですか?」
「どんな果物だよ…。九条は、僕たちのライバルの財閥の名前だよ。これだから、おバカな狐は困るな」
透亜はわざと意地悪く目を細め、机の上のペンで、翡翠の額をコン、と軽く突いた。
「うう、すみません……。頭を使うのは苦手ですけど、透亜様が難しそうな顔をしているので、お力になりたくて。
その九条という組織が邪魔なら、私が幹部の身辺を洗って弱みを握るか、あるいは事故に見せかけて数人『処理』してきましょうか?
組織の頭をすげ替えれば、神城の有利に動くかと」
さらりと恐ろしい提案をする翡翠。裏社会のパワーバランスや隠密としての効率的な排除方法は、本能的に理解しているのだ。
「脳筋な物騒さは相変わらずだね。誰も殺さないよ。武力じゃなくて、情報戦で九条に『自発的に泥船に乗ってもらう』のが目的なんだから」
本当に、仕事(隠密)の基礎は完璧なのに、こういう時はただの抜けた子供だ。
しかし、そのストレートな発言のおかげで、先ほどまで張り詰めていた透亜の肩の力が、不思議とふっと抜けていく。
透亜は意地悪な笑みを浮かべると、手元の引き出しから、ひとつの小さな箱を取り出した。
夜会で大人から貰った、最高級のフランス製トリュフチョコレートだ。
「じゃあ、そんな物騒な翡翠に、特別にこの作戦の『一番重要な役』をあげるよ」
「重要な役! やります! なんですか!?」
翡翠の目がらんらんと輝く。チョコレートの甘い匂いを、すでにその鋭い鼻で察知したらしい。
「来週、九条財閥の幹部が、裏のルートを買い叩くために本家お抱えの会員制料亭を使う。
当然、部屋には電波式の盗聴器を検知する探知機が使われるはずだ」
透亜は、箱の中から小さな樹脂製のチップを取り出した。
「だからこれを使う。電波を発信しない、タイマー式の超小型録音録画スクラップ(メモリ内蔵型)。
君には前日の夜、料亭の警備をすり抜けて潜入し、部屋の調度品の『内部』にこれを埋め込んできてほしい。当日、取引が終わった後の深夜に回収するまでが任務だよ。
……もし失敗したら、このチョコレートは僕が全部一人で食べちゃうからね」
「失敗しません! 相手の防犯センサーの配置なら、もう頭に入ってます。必ず完璧に回収してみせます!」
じゅり、とよだれをすする音が聞こえそうなほどの勢いで、翡翠が拳を握りしめる。
透亜はその様子をフンと鼻で笑い、チョコを一つ、翡翠の口へ放り込んであげた。
「んむっ……! んんん〜〜っ、美味しいです……! ほっぺたが落ちちゃいます……!」
幸せそうに頬を押さえて身悶えする翡翠を、透亜は特等席から眺めていた。
(本当に、お菓子一つでここまで必死になるなんて。僕の猟犬は、世界一扱いやすいな)
そんなことを思いながら、心の中でくすくすと意地悪く笑う。
「よし、チョコのパワーがみなぎってきました! 透亜様、さっそく潜入ルートの確認をしましょう!」
急に真面目な顔に戻った翡翠が、ぐいっと机の上に広げられた料亭の設計図を覗き込んできた。
「ええと、この裏庭の池の近くにある防犯カメラの死角が……」
前のめりになる彼女の動きに合わせて、すっきりとした長袍の袖がひらりと揺れ、机の上の紅茶のカップに引っかかりそうになる。
「あ、危ない、翡翠――」
透亜の声にハッとした翡翠は、咄嗟に体を引いた。
運動神経が良すぎるがゆえに、その引き方が急激すぎて、今度は机の脚に思いきり膝を強打してしまう。
「いった……!」
「うわっ、ちょっと!?」
バランスを崩した翡翠の体が、そのまま机の向こう側にいた透亜へと倒れ込んできた。
超人的な身体能力を持つ彼女だが、お菓子への興奮と身を乗り出しすぎたせいで、完全に不意を突かれていた。
ドサッ、と重苦しい音がして、二人は絨毯の上に転がった。
「いったた……」
透亜が薄目を開けると、すぐ目の前に、翡翠の素朴な顔があった。
翡翠が透亜を押し潰すような形になっており、彼女の短い髪が、透亜の頬にちくちくと触れている。
至近距離から、先ほど食べたチョコレートの甘い匂いと、翡翠自身の、どこかお日様のような温かい香りが一気に漂ってきた。
「透亜様、申し訳ありません! 大丈夫ですか……!?」
やらかしてしまったと言わんばかりに、申し訳なさそうに上目遣いで透亜を見つめる翡翠。
「……っ」
一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
他人の悪意を見抜く天才的な脳が、完全にショートする。胸の奥がドクドクと、うるさいくらいに跳ね上がっていた。
「……ど、退いてよ。重い」
透亜は、自分の顔が急激に熱くなっていくのを隠すように、翡翠の肩をぐっと押し返した。
いつもなら完璧にコントロールできるはずの「仮面」が、この時ばかりは上手く作動しなかった。
「わ、私、これでも隠密なので全然重くないですよ!? 体重は軽い方で――」
「そういう問題じゃない! ほら、早く書類の片付けを手伝って!」
「は、はーい!」
翡翠は不思議そうに首を傾げながらも、急いで床に散らばった資料を拾い集め始めた。
透亜は、赤くなった耳を隠すように手で覆いながら、未だに激しく波打つ胸元を押さえた。
(なんなんだ、あいつ……。本当に、調子が狂う……)
完璧なチェス盤の上で、翡翠という存在だけが、いつも透亜の予測を鮮やかに裏切っていく。
けれど、その振り回される時間が、今の透亜にとっては、何よりも愛おしく、守りたい「日常」そのものだった。
「翡翠」
「はい?」
資料を抱えた翡翠が振り返る。
透亜は、耳を手で覆ったまま、フイと目を逸らして言った。
「……さっきの作戦、絶対に成功させてよね。僕の専属護衛なんだから」
「はい! 透亜様のためなら、どこへでも飛んでいきます!」
翡翠は、言葉の裏の特別な響きに気づく様子もなく、ただ嬉そうに、くしゃりと無邪気に笑った。
一馬に与えられた試練の夜は近い。けれど、この歪で愛らしいコンビの前に、敵など最初からいないも同然だった。




