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第五章 鉄の掟と、幼き盾

夜の逃避行から、わずか数時間後。


離れの自室に戻った2人を待っていたのは、凍りつくような静寂と、冷徹な現実だった。


「……随分と長いお散歩だったな。末弟おとうと


暗闇の中、透亜の部屋のソファに深く腰掛けていたのは、長男・神城一馬だった。


その背後には、一馬の「影」と思われる、仮面をつけた異様な威圧感を放つ老人たちが控えている。


一瞬にして、透亜の全身の血が引いた。


隣の翡翠が、音もなく透亜の前に進み出ようとする。だが、その前に一馬の背後の老人が低く呟いた。


「『狐狸』の者が主をそそのかし、無断で任務を放棄して連れ出すとはな。翡翠、弁明はあるか」


「……ありません。すべて私の独断です。透亜様は関係ありません」


翡翠はいつもの無邪気さを完全に消し去り、すとんと床に膝をついて深く頭を下げた。


その小さな背中が、神城の「掟」という絶対的な暴力の前に、酷く小さく見える。


一馬の背後に立つ老人が、感情の失せた声で事務的に告げた。


「神城の警備情報を握る者が、主をそそのかして無断で敷地外へ連れ出す……。明らかな一線を越えた利敵行為だ。


翡翠、弁明がないのであれば、これよりお前を本家の管轄から外し、組織の『処分場』へ移送する。二度と表の仕事には戻れんと思え」


老人の冷酷な言葉。それは、昼間に翡翠が言っていた「百叩き」のような生易しいものではない。


組織の裏に存在する、二度と五体満足では帰れない暗い闇へ、彼女を永久に葬ることを意味していた。

翡翠の体が、微かにこわばる。


それでも彼女は抗おうとせず、「透亜様にご迷惑をおかけしました」と、ただ静かにその運命を受け入れようとした。


(――嫌だ)


透亜の脳裏に、星空の明かりの下で、くしゃりと笑った彼女の顔がフラッシュバックした。


自分のために、すべてを失う覚悟で連れ出してくれた少女。自分の心を救ってくれた、世界で唯一の味方。


その彼女が、消される。


「待ってください!!」


気がつけば、透亜は叫んでいた。


いつも大人たちを油断させるために使っていた、あの「完璧に計算された愛らしい仮面」を、完全にかなぐり捨てていた。


透亜は膝をつく翡翠の前に、割り込むようにして立ちはだかった。


10歳の小さな体で、25歳の怪物・一馬と、老獪な隠密たちを鋭く睨みつける。


「透亜様……!? 下がってください、大変なことに――」


「黙ってて、翡翠!」


透亜は背後の翡翠を遮り、一馬に向かって真っ直ぐに言い放った。


「一馬兄さん。すべては僕の命令です。僕が『外の空気が吸いたいから連れ出せ、拒否したら自害する』と彼女を脅したんです。


彼女は主の命令に従っただけだ。処分するなら、雇用主である僕を、神城の規律に則って罰してください!」


「透亜様、何を……っ!」


翡翠が焦ったように透亜の服の裾を引くが、透亜はそれをぐっと片手で振り払った。


その手は小刻みに震えている。一馬の放つ圧倒的なプレッシャーに、恐怖で心臓が破裂しそうだ。それでも、透亜の足は一歩も後ろへは退かなかった。


(守らなきゃ。僕が、この子を――)


それは理屈ではなかった。損得勘定でもない。


これまでの透亜なら、自分の立場が悪くなるような危険なギャンブルは絶対に避けたはずだ。しかし今の彼は、無意識のうちに、自分の命よりも背中の少女を守ることを選んでいた。


一馬は、感情の読めない冷徹な瞳で、初めて「末弟」の顔をじっと見つめた。


いつも怯えて媚びを売るだけの羽虫だと思っていた10歳の少年が、今、自分の保身を捨てて、背後の護衛を守るために牙を剥いている。


その瞳に宿る、圧倒的な意志の強さと、利用価値を見出させるだけの鋭い光。


「……面白い」


一馬の薄い唇が、微かに上がった。


「自分の手駒一人のために、この私に取引を申し出るか。透亜、お前がそこまで他人に固執するとは意外だったな。


だが、それだけの啖呵を切るからには、お前自身が神城にとって『生かしておく価値』を示さねば、言葉の重みが釣り合わない」


一馬はすっと立ち上がると、背後の老人たちへ手を挙げた。


「今回の件、不問とする。この娘の身柄は、私が一時的に預かる。手を出すな」


「……御意」


老人たちが一歩退く。


「ただし、透亜。お前がそこまでして囲いたい猟犬だというなら、それに見合う成果を出せ。


来月の査問会、失脚した冬真が持っていた物流ルートの利権処理を、お前の名前で進めさせる。


見事やり遂げれば、その娘の管理不行き届きはすべて帳消しにしてやろう。失敗すれば――その時は二人まとめて、神城から排除する」


「……っ。はい、ありがとうございます、一馬兄さん」


透亜は深く息を吐き、再び「仮面」を被って頭を下げた。


一馬はフン、と鼻で笑うと、影を引き連れて部屋を去っていった。

バタン、とドアが閉まり、完全に気配が消える。





「……はぁ」


一気に緊張が解け、透亜はその場にへなへなと座り込んでしまった。全身が冷や汗でびっしょりだった。


「透亜様!!」


翡翠が血相を変えて床を這い、透亜の体を抱き起こした。その瞳には、初めて見る涙がじんわりと浮かんでいる。


「バカ、バカです、透亜様! どうしてあんな無茶をしたんですか!? もし一馬様が怒ったら、透亜様の命だって危なかったんですよ!? 私はただの護衛なのに……!」


取り乱して自分を責める翡翠。


そんな彼女を見て、透亜は座り込んだまま、少し誇らしげに、意地悪くニヤリと笑ってみせた。


「言ったでしょう、翡翠。君は僕のものなんだよ。僕の許可なく、他の誰かに傷つけられるなんて絶対に許さない。一馬兄さんにだってね」


ハッキリと告げた透亜の言葉。


自分の身を挺してまで守ろうとしてくれた主の姿に、翡翠は胸がいっぱいになったように、涙をボロボロとこぼしながら何度も何度も頷いた。


「はい……! はい……! ぅあ、ありがとう、ございます……!」


透亜は、自分のために泣いてくれる翡翠の頭を、小さな手でそっと不器用に撫でた。


一馬に課された次の試練は、10歳の子供にはあまりにも重く、危険なものだ。けれど、今の透亜には少しの恐怖もなかった。


背中に感じる彼女の温もりと、固く結ばれた絆がある限り、この神城の魔窟のどんな嵐も乗り越えられる。


無意識に芽生えた、お互いを「命がけで守る」という強い意志が、幼き主従の運命をさらに深く結びつけるのだった。


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